続・鎧を着た古墳人 | ゆだぽんの♬虹色オーラ♬ブログ

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お寺や神社巡りで感じた事や、不思議な話・オーラについて…などなど書いています。

2月3日の節分の日にNHKで放送された
「歴史ヒストリア」

以前に私が記事にしております「鎧(甲)を着た古墳人」についてでした

私が古代史cafe会に初めて参加した、一昨年の7月4日♬
この時は制作会社のディレクターさんが同席されての、鎧を着た古墳人についての座談会でした

ついに放送される!
と頭にはあったものの、節分に夢中になり見逃してしまったのですよ

ショックに打ちのめされるも、古代史会メンバーのうららさんが録画されていて、DVDをいただくことができました感謝です〜

鎧を着た古墳人については過去に記事にしておりますが、新たに分かったこともあるようなので、再度簡単にまとめてみました♬


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今から約1500年前のある日、現在の群馬県にある榛名山が噴火し、近くにあった集落が火砕流に飲み込まれました。
この噴火は雲仙普賢岳の30倍ともいわれています。

2012年に群馬県の金井東裏遺跡から、この火砕流の直撃を受けたとみられる、鎧を身につけた男性が発見されました。

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さらにその近くからは、女性1人・幼児1人・乳児1人の骨が見つかっています。

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ここまでは以前にご紹介した通りなのですが、その後さらに詳しいことが分かったようです。

鎧の男性は40代前半。
細面で鼻筋が通っている顔立ちをしていて、身長も164㎝と同時にしては大きく、渡来人の血を引いているそうです。

女性は30代後半。古代の東アジアによくある顔立ちをしていました。

そして歯の成分を調べた結果、育った環境も判明。

男女2人は榛名山の麓で生まれたわけではなく、長野県伊那地方の出身で、子ども2人は榛名山の麓で生まれているそうです。

長野県伊那地方で生まれた2人が榛名山へ移り住み、子どもが生まれた可能性が高いとのこと。

さらに4人が発見されたところからは、おびただしい数の足跡も発掘されています。

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足跡はすべて同じ一つの方向に向かっており、しっかりと残っていることから、走ったのではなく歩いたことを示しています。

このことから推測されるのは、最初に小規模な噴火が起き、その時点で人々は足跡を残して避難。

集落には何らかの理由で、骨が見つかった4人だけが残っていましたが、そこに大規模な噴火が起こったと考えられます。

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さて、鎧の男の正体ですが、身につけていた鎧が、同時代に同じく鎧をつけた埴輪が王の石室から発掘されており、この集落の王のような存在だったのではないかということです。

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鎧の男性は、膝をついて膝をついて四つん這い、頭は榛名山の方角に向けられていました。

男性は最期の時に何をしていたのか。。。

歴史ヒストリアでは、推測される出来事をいくつかあげていましたが、私的には(う〜ん…)と思われる内容も(・・;)

最後まで集落に残っていた集落の権力者とその家族。

当時の権力者の仕事の中心は神祀りにありました。
ですので神に祈りを捧げていた、というのが一番近いような…
で、いよいよダメだと宝物(権力者であることを示す鎧や兜)を持ち出して逃げようとした時に火砕流に巻き込まれてしまったのか?

ちなみに別の鎧や兜も男性の近くで発見されています。

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この火砕流で埋もれた集落の上の地層から、新たな集落が見つかっているそうです。

逃げ延びた人々が再び戻ってきて、同じ地に集落を築いたのでしょう♪

結局のところ科学的な調査を行なって判明していること以外は、推測しか出来ませんが、そこが古代史の面白さともいえます

しかしこんな悲劇に見舞われても、現在に命が繋がれていると思うと、なんか感動ですね

そして。。。
古代から受け継がれた驚くべき復興力
さすが日本人!ですよね(^^)



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