少し間が空いてしまいましたが、飛鳥時代に戻ります(^^)
バラエティに富んだこの時代。。。
誰から書いたら、皆さんに分かりやすく読んでいただけるか、かなり悩みましたが、まずはこの人をご紹介しないとです♬
飛鳥の大物政治家『藤原不比等』
絵は全てお借りしたものです
藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った「藤原(中臣)鎌足」の次男で、大宝律令を編纂したことでも知られています。
元々は「史ふひと」と書いていたようです。
この不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされ、不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することになり、明確に分けられました。
この藤原不比等が、藤原氏の実質的な家祖ともいえますね。
不比等は天智天皇の時代に乙巳の変などで活躍した鎌足の子ですので、重用されて当然といえば当然なのですが、彼が抜擢されるのは持統天皇の御代になってから。
天武天皇の御代には、政権争いで天智天皇の子である大友皇子を後押ししていたので、政権からは外されていたんです。
不比等を大抜擢した持統天皇は天武天皇の妃ですが、天智天皇の娘でもありますし、持統天皇が神格化されている日本書紀の編纂に不比等が関係しているともいわれます。
そんなこんなで、この不比等から絶大的な権力を誇る華々しい時代が始まるのです。
不比等は娘の光明子こうみょうしを聖武天皇の皇后にするなど、天皇家との関係を深めていきました。
また不比等の息子たちの武智麻呂・房前・宇合・麻呂は、それぞれ藤原四家の祖となりました。
そして当時の官位で正二位右大臣の地位まで上り詰め、藤原氏の絶対的な権力と栄華を築いたのです。
実は。。。
不比等は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤だという説があるんです。
落胤らくいんとは、地位のある男が正妻ではない女にひそかに生ませた子のことです。
何でも、天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際に
「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」
と言ったのだとか。
「公卿補任」の不比等の項には
「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」
とあります。
平安時代までは、この話はかなりの信憑性を持っていたとみられ、あの「竹取物語」でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人である「車持皇子」のモデルは、なんとこの不比等だとされています。車持皇子とは“母が車持氏出身の皇子”という意味の名前です。
古代史日和勉強会の先生曰く
当時後宮の女性は下働きをはじめ、当たり前に全て天皇のもの…という認識だった
とおっしゃっていました。
おそらくこういったことはよくあったと思われます。
なので持統天皇になってからの彼の活躍と出世にも納得がいきますね(^^)
不比等の妻と娘、そして竹取物語については別に記事にする予定でおります。
とりあえず、この時代(飛鳥時代〜奈良時代)には不比等はたくさん登場するので、先にご紹介させていただきました
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