藤原不比等&県犬養三千代をご紹介しましたので、今日はその娘についても書かせていただきますね(^^)
かぐや姫のモデルになったという説もあるほど、光り輝く美しい女性だったようです
ふじわらのこうみょうし
藤原不比等の三女で、母は県犬養三千代。
分かりやすくいえば、藤原鎌足の孫ですね。
幼い頃から大変聡明で美しかったといわれています。幼名は安宿媛あすかべひめ。
昨日の記事の通り、文武天皇の妃である宮子(藤原不比等の娘・光明子の異母妹にあたる)が首おびと皇子(後の聖武天皇)を懐妊した時に、なんと三千代も不比等との子(後の光明皇后)を身ごもっていました。
幼なじみとして育った首皇子と光明子。
光明子は、藤原不比等と三千代らの力で首皇子が16歳の時に、皇太子妃となりました。
昔は当たり前のことでしたが、一族に利用された形で妃となった光明子でしたが、首皇子(聖武天皇)とは大変夫婦仲が良かったようで、後に孝謙(称徳)天皇となる阿倍内親王と皇太子の基王を出産しています。
皇太子の基王は、翌年に夭折してしまいます。
そして権力志向の両親とは違い、とても心優しい女性だったようです。
“育ちが良い”という表現が合っているかな⁇
また仏教の庇護者としても数々の逸話が残されています。
都大路に並木を造る際には、貧しい人が飢えないようにと、モモとナシの木を選んで植えさせたり
老人や孤児を養う「悲田院ひでんいん」
病人に薬を与える「施薬院せやくいん」病人の世話をする「療病院」
など、不比等から引き継いだ財産を使い、全て無料で利用できる施設を作り、自らも病人の世話に出向き、薬の風呂を作り1000人の垢を洗ったこともあったそうです。
こんな伝説も。。。
光明皇后が重病の癩病らいびょう(ハンセン病)患者の膿を自ら吸い取ったところ、その病人が阿閦あしゅく如来であったといいます。
*阿閦如来とは、密教における金剛界五仏の一つです。
国立ハンセン病療養所である邑久光明園は、この逸話から名付けられているそうです。
夫である聖武天皇を生涯愛し続けた光明皇后。
聖武天皇の遺品が保存されている正倉院の願文には
「夫の好まれた品々を見ると、在りし日を思い出し泣き崩れてしまいます」
という意味の言葉が書かれています。
最後に万葉集から一首ご紹介します。
藤皇后(光明皇后)の
天皇(聖武天皇)に奉る御歌一首
我が背子と 二人見ませば いくばくか
この降る雪の 嬉からまし
(あなたと二人で見たとしたら、この降る雪がどれほど嬉しく思えたことでしょうか)
反乱も多くて、なにやら物々しさも感じるこの時代、光明子の夫を思う気持ちと慈悲の深さは救いというか…なんだかホッとしちゃいました
反乱や怨霊となった人物たちについても、おいおい記事にしていきたいと思います(^^)
反乱や怨霊となった人物たちについても、おいおい記事にしていきたいと思います(^^)
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