午後の子供会では「ホットケーキパーティー」をしました。

 

「放蕩息子」のたとえ

 

今日の礼拝説教では、ルカの福音書15章11節からの有名な箇所「放蕩息子のたとえ」からメッセージが語られました。

 

クリスチャンではないビジネスマンが「ビジネス書」として聖書を読んでいる場合、「この箇所が印象的」と答える人もいらっしゃるようです。


この箇所は「放蕩息子(弟)」が主人公のように思ってしまいやすいですが、焦点は本当はその「お父さん」であることを覚えなければなりません。

 


「放蕩息子」のたとえ話が語られた背景

 

イエス様が語られたこの「たとえ話」の背景、事の発端は、イエスが取税人や罪深いとされた人たちを受け入れ、一緒に食事をしたことでした。

 

そのことについて、「律法を正しくまじめに守っている」と自負する「パリサイ人」や「律法学者(当時の聖書の専門家)」たちがイエスを非難したことが

このたとえ話の発端になっています。

テーマは「神の国とは、このようなものだ。」という話であり、「神は私たちを愛して下さる」というメッセージが子どもにもわかりやすく語られている個所です。

 

この箇所は「放蕩息子のたとえ」と言われることが多いですが、正しく言えば「放蕩息子とその兄を愛する父のたとえ」となります。

 

 

「放蕩息子とその兄を愛する父のたとえ」のあらすじ

 

・お父さんが生きている間に財産の分け前を求めた弟。・・・「財産」とは、通常はお父さんが亡くなった時に受け取るもので、生前に催促するということは、言うまでもなくとても失礼なことです。弟は、とっても「親不孝」で失礼で自分勝手な印象があるキャラクターとして描かれています。

 

・お父さんは、弟にも兄にも財産の分け前を与える。・・・そんな失礼な催促にもかかわらず、お父さんは弟にも、そして催促しなかった兄にも財産を分け与えます。

 

・弟は遠い国へ旅立ち、そこで放蕩し、財産を使い果たして落ちぶれる。・・・弟は「湯水のように」財産を使い果たしてしまい、豚の世話をするようになり、その豚のえさでさえ「食べたい。」と思うようになります。
当時、「豚」は「不浄な動物」とみなされ、「豚の世話をする」ことは、かなり落ちぶれてしまったことを意味します。

 

・我に返った弟は、雇人でもいいからお父さんのもとへ帰る決心をする。

 

・家からはまだ遠かったにもかかわらず、お父さんは弟息子を発見、駆け寄って迎える。・・・遠くにいた弟息子を見つけたお父さんは、毎日、帰りを待っていたのかもしれません。当時、ある程度の年齢を迎えていた男性が「走る」ということはしませんでした。
ある程度、年齢を迎えていた男性が「走る」ことは「恥ずべきこと」とされており、一昔前の日本の「亭主関白」で「一家の大黒柱」のお父さんがあまり動かなかったイメージを想像すると、ちょっとわかるような気もします。

 

・弟はリハーサルしていたセリフを伝えるが、お父さんは「雇人」ではなく「息子」として受け入れる。

 

・祝宴が始まるが、兄がそのことを不満に思い、家に入ろうとしない。

 

・兄をなだめるお父さん。お父さんのそばにいながら、お父さんの心からは離れている兄。

 

 


礼拝後、教会員との話の中で、「自分は弟派。」「私は兄タイプ!」などと話し合いました。

 

みなさんはどちらでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

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