古代中国史書には当時の日本の姿がはっきり記録されているのに、歴史学者の数世紀にもわたる探究にもかかわらず、古代日本の真の姿はいっこうに見えてきません。

例えば世間では
【邪馬台国女王卑弥呼】の概念がまかり通っています。
ところが『魏志倭人伝』にはそのように記されておらず、【倭女王卑弥呼】と記されます。


だいたい歴史学者が
今迄してきたことと云えば、卑弥呼の都する所、邪馬台国の位置比定ばかりやたら拘りやれ近畿説だのやれ九州説だのと、所謂『邪馬台国論争』が江戸時代から連綿と続けられてきたのですが、現在に至るも決着の付く気配は全く見られません。


そんな中私は、
『魏志倭人伝』を始めとする古代中国の史書毎に著される、所謂【倭人伝】の解読に何年もかけて取り組んできましたが歴史学者は【倭】と【倭国】を混同していることが、【倭人伝】を正確には理解出来ない理由ではないかと思い至りました。


漠然と日本を示す【倭】に対し、【倭国】とは【倭】の地に在った、一つの国名ではないのか?

私はこの考えを念頭に置いて中国史書何度も読み返してみた処、各々の【倭人伝】の文章に、今迄掴めなかった一本の筋道が通り、全ての文献の意味が繋がった気がします。


それでは今から、現在の
私の目に写る【倭】の姿を、さっそく描出していきたいと思います。


『①周、秦、前漢時代の【倭】と【倭人】(紀元前五世紀~紀元前後)』

例えば周や秦の時代に書かれたとされる
『山海経』後漢時代に「王允」の書いた『論衡』や、「班固」の書いた『漢書地理志』には、【倭人】についての記載がみられます。
中国の周から秦、前漢の時代に、日本列島
から朝鮮半島南端部にかけての山島に依りて、【倭人】が住んでおり漁業や稲作を営んで生活し、船を使って自由自在に列島周囲と半島間の海を往来していました。海洋性民族である【倭人】達は【海人族】とも呼ばれ、当時の中国人は【倭人】そのもの、或いは【倭人】の住む領域を【倭】と呼んでいたようです。(注1)



海人族の伝統を残す、「みあれ祭」は毎年10月1日に行われる宗像大社の秋祭りです。
宗像7浦の漁船500隻以上が、色とりどりの大漁旗、幟をはためかせながら、玄界灘をパレードします。


『漢書地理志』には、
「夫れ楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来りて献見すると云う。」
と記されます。前漢時代の【倭】は百余国の小国に分かれており、歳時(渡航期)になると複数の小国が徒党を組んで海を渡り、楽浪郡に至っては前漢朝に貢献していたようです。此処に「献見すると云う」とありますので、当時の貢献楽浪郡を通してであって、倭人が実際に陸路漢都・長安に至り、漢帝に謁見することは無かったのかも知れません。


このように中国文献に早期から登場する【倭】や【倭人】に対し、【倭國】と云う言葉は後漢時代のことを綴った『後漢書東夷伝』に至って、始めて登場します。

さて、この『後漢書東夷伝』ですが、三国時代に関して記された『三国志』及び『魏志倭人伝』が西晋の「陳寿」により三世紀末(AD290前後)に書かれているのに対し、『後漢書東夷伝』は三国時代以前後漢時代について記されるにもかかわらず、その成立は『三国志』より150年程も遅れる五世紀前半に南朝宋の「范曄」によって著された書物です(AD432成立)


『②後漢時代の【倭国】その1、【倭奴国王】時代(AD57)』

『後漢書東夷伝』の倭人朝献の行、
曰く、建武中元二年(AD57)、倭奴国奉貢朝賀す。

使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。
安帝の永初元年(AD107)、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ請見を願う。」

即ちAD57、後漢に朝貢してきた
【倭奴国王】に光武帝により【漢委奴国王】銘の印綬が授けられますが、この金印は江戸時代に福岡藩の百姓が志賀島で畑を耕していた時に偶然見つけられており、【奴国】が現在の福岡市の領域に有ったことが確認されています。

さて、次に問題となるのが「(奴国が)倭国の極南界なり。」の記事です。
どうやらこの記事に出てくる【倭国】とは、『魏志倭人伝』に記される
卑弥呼時代の【倭国】のようです。「使人自ら大夫と称す」と『魏志倭人伝』の一節が使われていることからもそのことが推察されます。この時代宋は近畿に拠点を置く大和朝廷から貢献されており、金印が福岡市の志賀島から出土するなど知る由もない「范曄」は、『魏志倭人伝』の解読で混乱したらしく、【奴国】が【倭国】の極南界との間違った解釈を『後漢書東夷伝』に書き込んでいます。

この問題について
は、下記リンク中の【反時計回り連続説】で詳しく検証しています。

ところで、光武帝から【奴国王】に授けられた【漢委奴国王】の金印の銘は、三宅米吉氏説のとおり、【漢】に仕える【倭】の【奴国王】の意味でよいと考えられます。(注2)

【倭奴国王】時代(AD57辺り)の【倭奴国】とは、倭の小国が複数纏まって連合国を形成するようになってきた未だほんの黎明期に過ぎず、卑弥呼時代(AD189頃からAD247)の【倭国】よりも遥かに規模の小さい地域政権に過ぎなかったことでありましょう。このことは国家の成立と発展の仕方を時系列を追って考えると、極めて当たり前の話です。又、此の場面で【倭国】でなく【倭奴国】と記されるのは、単に【倭】に在った【奴国】の意味に過ぎませんが、便宜上、この【倭】に出来た初期の連合国の名を【倭奴国】として、記述を続けたいと思います。

当時の博多湾沿岸部には【奴国】の他にも多数の小国が存在していたものと思われます。
それ等の小国は、小国間の交易や大陸との貿易に有利なように連携し、【奴国】を中心とした
共同体、即ち初期の連合国である【倭奴国】を形成していたようです。
それでも当時の【倭奴国】の勢力圏は、博多湾沿岸部の極めて狭いエリアに限られており【奴国王】が共同体の長、即ち【倭奴国王】として君臨していたことでしょう。

私は当時の
【倭奴国】を形成する小国群の範囲は、奴国、不彌国、早良国、伊都国、斯馬国、須恵国、新宮国、烏奴国(大野国)辺り迄を比定したいと思います。(注3)
但し、
早良国、須恵国、新宮国辺りは、卑弥呼時代迄に、奴国に吸収されたもようです。
(☟倭奴国地図参照)





『③後漢時代の【倭国】其の2、【倭国王帥升】時代(AD107)』

安帝永初元年(AD107)貢献の行に記される【帥升】は中国史書に始めて登場する【倭人】の固有名詞ですが、【倭国王帥升等】と複数形で記されています。これは何故かと云うと、この時【後漢朝】に貢献してきた者は、この頃【倭】に出来た連合国【倭国】を構成する小国の王達であり、その代表が【倭国王帥升】だったからでしょう。【後漢朝】は【倭国】を構成する小国王それぞれに対し謝意を込め【倭国王帥升等】と資料に書き残したのだと思われます。
又、此処に【倭国王】の名が記されているからには、中国ではこの頃迄に、連合国【倭国】の存在が、既に一般に認知されるに至っていたようです。(注4)

さて、【倭国王帥升】が統治していた小国の連合国【倭国】とは、当然ながら博多湾沿岸部の【倭奴国】から50年間かけて進展してきた国家だと思われます。従って【倭奴国王】時代よりも統治する小国の数が増え、構成国群を含む範囲が博多湾沿岸部のみから玄海灘沿岸部全域にかけて拡がると共に、沿岸部のみならず内陸にかけても深く入り込み、更には後漢へ生口160人を送り込むなど、大規模な貢献を行えるようになったことから、朝鮮半島へ渡るルート上の島国をも統合していたと考えるのが最も自然な判断でありましょう。
即ち、対馬国、壱岐国、末蘆国、伊都国、斯馬国、奴国、不彌国、烏奴国、支惟国、対蘇国、蘇奴国、姐奴国、
己百支国辺り迄が、当時の【倭国】の勢力圏に当てはめられます。それでも【倭】全体からすると、当時の【倭国】は未だほんの僅かな領域を占めるのみでした
(☟倭国地図参照)



帥升時代の倭国の領域; 『魏志倭人伝』によると、青字の宗像国は卑弥呼時代に女王の境界外とされており、
帥升時代当時より倭国=女王国連合とは別の勢力が存在した可能性が高い。


【倭国王帥升】は連合国【倭国】を纏める王の中の王、即ち【倭国大王】であったわけです。
【卑弥呼】がそうだったように、
当時は連合国【倭国】を構成する各小国王達が集まって会議を行い、自分達小国王の中から【倭国大王】=【倭王】を選んで共立していました。
それ
ではこの時
【倭国大王】に選ばれた【帥升】とは、どの小国の王だったのでしょうか?
その第一の候補として、【伊都国王】が挙げられます。
『魏志倭人伝』には【伊都国】に代々の王がいたと書かれています。
考古学的には福岡県糸島市前原、即ち【伊都国】に有る三雲南小路遺跡の墳丘墓に埋められていた甕棺墓の中からは多数の前漢鏡、璧、銅剣が
出土しています。
この副葬品からも、この墓の埋葬王こそが、当時【倭国大王】に共立された【伊都国王帥升】だった可能性が非常に高いものと思われます。


伊都国 三雲南小路遺跡から出土した銅鏡と銅剣。江戸時代(文政5年、1822年)。
男王の甕棺墓
から瑠璃壁8個以上 前漢鏡33面、戦国鏡2面 銅剣1本 瑠璃勾玉3個、瑠璃管玉60個他。
王妃の甕棺墓からは前漢鏡22面、瑠璃勾玉12個、硬玉勾玉1個他が出土している。
これ等の宝物は【倭国王帥升】と王妃の持ち物で、祭器であった可能性が高い。



『④卑弥呼時代の【倭国】(AD189辺り~AD247)』

さて、二世紀後半に【倭国大乱】が起こると暦年続いていたわけですが、二世紀末(AD189頃)に【倭国】を構成する小国王達が集まって会議を行い、小国・邪馬台国の女王だった卑弥呼が【倭国大王】=【倭王】に共立されることにより、漸く【倭国大乱】が納まり、その後六十年間も続く卑弥呼時代が到来するわけです。
この卑弥呼の在位年数は現代の昭和天皇に極めて近いものです。

そして卑弥呼時代の【倭国】も又、帥升時代から連続して発展してきた国に相違なく、玄界灘沿岸部の【倭国】、ひいては博多湾沿岸部の【倭奴国】に根源を持つ国のはずです。
それを何の理由もなく、いきなり畿内大和へと出現させるわけにはいきません。

※ このことについては、また機会を改めて
別のタイトル名で詳しく書きたいと思います。

さて、卑弥呼時代になりますと、【倭国】を構成する小国の総数は三十国となり、帥升時代よりもかなり増えており、【倭国】は順調に発展していたことが窺えます。


卑弥呼時代の【倭国】の範囲は『魏志倭人伝』に正確に記されております。
『魏志倭人伝』は【邪馬台国】より北の【女王国連合】=【倭国】を構成する二十一国を次・・國有り、次・・國有りと連続して記していますが、その最後に「次奴国在り、此れ女王の境界尽きる所」と記し、【女王国連合】=【倭国】の北の境界が【奴国】であることが示されます。
更に「其の南に狗奴国あり。女王に属さず」とも記されており、【倭国】の南に【女王国連合】には属さない【狗奴国】の存在が言及され、【倭国】の南端に在る首都・【邪馬台国】が【倭国】の南に在る【狗奴国】との国境を成していたことも解ります。

以上の所見より私は、【倭女王卑弥呼】の統治する【女王国連合】=【倭国】の範囲を、【奴国】を北限に首都【邪馬台国】を南限とし、東西は北部九州の海岸線迄達する、小国三十国の連合国だったものと考えています。そして小国三十国のうち二十一ヶ国は、首都【邪馬台国】より北に有って、全て国境を接し、反時計回りに連続して並んでいたものと思われます。

☟(下記;卑弥呼時代の倭国地図)





私は卑弥呼時代の【倭】には【倭国】と同じような連合国が多数出現していたと考えています。

その中でも名前が解っているのが、【倭国】の南に在る【狗奴国】と【投馬国】です。
この二国は、それぞれ独自にその名を持つ盟主国を中心に、周囲の多数の小国を構成国として、【倭国】とは別の連合国を形成していたものと見做されます。
その他、後世に残された郡名から推測すると、【倭国】の南には【日向国】があり、【倭国】の北には【宗像国】【出雲国】【因幡国】【吉備国】【播磨国】【熊野国】【越国】【尾張国】【諏訪国】その他数多くの連合国が存在していたものと考えられます。

これ等の国々は『魏志倭人伝』では【倭国】と区別され、総じて【倭種の国】と記されます。


この説に対し【邪馬台国畿内説】では【女王国】の定義が明確で無く、【女王国】が【邪馬台国】一国なのか、【邪馬台国畿内説】の提案する【倭国】と同じ範囲(九州の熊襲以北から四国、本州の東海・北陸の蝦夷以西迄の全て)を示しているのかよく解らないことになっています。
とりあえず
【邪馬台国畿内説】派は、「女王の境界尽きる所」と記される奴国に関する一文を、全く説明出来ずに完全無視・或いは隠蔽しているようです。


【倭国】の範囲の詳細については、下記URL内の【反時計回り連続説】を御参照下さい。



(注1)朝鮮半島南端の一部は【倭】ではあるが、勿論【倭国】には含まれません。
その当時の朝鮮半島南部は諸韓国=【馬韓】【辰韓】【弁韓】なのです。
但し『魏志韓伝』に記されるように、【弁韓】辺りには【倭人】が多く住んでいたと思われます。
「國鉄を出す。韓・濊・倭、皆従って之を取る。諸市では皆鉄を用いて買う。中国で銭を用いるが如し。又以て(鉄を)二郡(帯方郡と楽浪郡)に供給する。」
このように当時の倭人は弁辰の地で韓人や濊人達に混じって、鉄を採っていたようです。
即ち、【弁韓】の一部の【狗邪韓国】辺りは【倭】であって、後に【伽耶】⇒【任那】と呼ばれました。

(注2)【委奴国】の委は倭の略字で、倭の奴国と読むのだと思われます。決してイト国とは読めません。
イト国は『魏志倭人伝』に【委奴国】ではなく、ちゃんと【伊都国】と記されています。

(注3)他にも博多(はかた)国、香椎(かしい)国、和白(わじろ)国、粕谷(かすや)国、志免(しめ)国、篠栗(ささぐり)国等が在ったかもしれない。しかし、これ等の国は卑弥呼時代迄に
全て奴国に吸収された。

(注4)『翰苑(かんえん)』等に記される【倭面国】【倭面土国】【倭面土地】【倭面上国】等の記述は、魏の如淳が『漢書地理志』の注釈において、当時の倭人が鯨面をしていたことから【如墨委面(すみのごときわめん)】と書いた【倭人】の話を、後世の歴史家が【倭国】の話と誤認して書いたものと思われます。
尚、【倭面土国】を【ヤマト国】と読むのは、「邪馬台国畿内説派」の願望に過ぎません。




この記事に納得された方は下のバナーを是非二つともクリックをお願いします。



歴史ランキングへ
にほんブログ村


リンク < 邪馬台国問題に決着をつけるサイト >

リンク <
  『反時計回り連続説』  >