【反時計回り連続説】(その七)
それでは過去の研究者は連続する二十一国をどのような国に比定してきたのでしょうか?
【邪馬台国畿内説派】重鎮で京都大学派の内藤湖南教授は、『日本書紀』の示唆する卑弥呼=神宮皇后説を江戸時代中期に唱えた松下見林、新井白石以来久々に【邪馬台国畿内説】に立ち返ると、新たな説として、卑弥呼を第11代垂仁天皇の皇女倭姫命に比定し、新井白石に習って帯方郡から邪馬台国へ至る道中の国々を比定すると共に連続する二十一國についても独自の比定を行っている。
内藤湖南の比定した国は投馬国、邪馬台国は新井白石と同じく、南は東の間違い説を採用している。但し、新井白石自身は後に『外国之事調書』でこの説を否定し、【邪馬台国九州説】に乗り換えるのであるが・・・・。
内藤湖南は連続する二十一国の比定地は倭姫命が、大和の皇居を追い出された天照大神(八咫鏡)の落ち着き先を求めて、諸国を巡行した国々だと云うのである。
但し、この辺りは『魏志倭人伝』にそう云った記載は一切ないので、内藤湖南の卓越した想像力のなせる業(悪い言葉で云えば度を過ぎた想像力=妄想)だと思われる。
その湖南は一体、二十一国をどの地に比定したのであろうか?
【内藤湖南】の比定国
㋐ 対馬国 対馬
㋑ 一支国 壱岐
㋒ 末魯国 肥前国松浦郡
㋓ 伊都国 筑前国怡土郡
㋔ 奴国 筑前国那珂郡博多辺
㋕ 不彌国 宇美
------此処迄は新井白石説を踏襲しています。
㋖ 投馬国 周防国佐婆郡玉祖郷 投馬国は名前の類似だけで比定したようで、不彌国からの距離も水行20日の割には近く、水行10日と陸行一月で行く畿内大和の方が遥かに遠くなっており、明らかに不自然です。内藤湖南自身もこのことは気づいていたらしく、後に投馬国の位置を備後国鞆津(広島県福山市鞆町)に比定し直したようです。
㋗ 邪馬台国 大和国
内藤湖南は邪馬台国を畿内大和の地に持って行くのが目的なので、勿論これは新井白石説を踏襲しています。但しこの場合、新井白石は難波の辺りで上陸し、東に陸行一月するとしましたが、この陸行距離は短くて、伊都国-山門国の距離にも満たないものです。
―そして、ここからが連続して並べられた21ヶ国ですー
① 斯馬国 伊勢国志摩半島
② 巳百支国 伊勢国石城
③ 伊邪国 志摩国答志郡伊雑宮 或いは 伊勢国度会郡伊蘇郷
④ 郡支国 伊勢国度会郡榛原神社
⑤ 彌奴国 美濃国
⑥ 好古都国 美濃国各務郡 或いは 方県郡
⑦ 不呼国 美濃国池田郡伊福 或いは 不破郡
⑧ 姐奴国 近江国高島郡角野郷
⑨ 対蘇国 近江国伊香郡遂佐郷
⑩ 蘇奴国 佐奈県(伊勢国多気郡佐那神社)
⑪ 呼邑国 伊勢国多気郡麻績郷
⑫ 華奴蘇奴国 遠江国磐田郡鹿苑神社
⑬ 鬼国 尾張国丹羽郡大桑郷 或いは 美濃国山県郡大桑郷
⑭ 為吾国 三河国額田郡位賀郷 或いは 尾張国智多郡番賀郷
⑮ 鬼奴国 伊勢国桑名郡桑名郷
⑯ 耶馬国 伊勢国員弁郡野摩
⑰ 躬臣国 伊勢国多気郡櫛田
⑱ 巴利国 尾張国 或いは 播磨国
⑲ 支惟国 吉備国
⑳ 烏奴国 備後国安那郡
㉑ 奴国 ㋔と同じ
㉒ 狗奴国 肥後国菊池郡城野郷
上記の如く、内藤湖南の比定する連続する二十一国の中には、〇〇国或いは〇〇国と云うのが、度々見られるように、上記古代地図を制作するには多大の労苦を要しました。
これ等の比定国を見て貰うと解りますように、伊勢神宮周囲に集中しています。
あとは尾張国、美濃国、近江国にパラパラ、播磨国、吉備国、安芸国に一つずつ、
但し多分にこの広範囲にはもっと多数の小国が存在していた筈であり、
その中から倭姫の行脚した国や地域を抽出した意味はどこに有るのでしょうか?
最も問題になるのは、これ等の小国は伊都国に有る【一大率】が監察していたとされることで、この距離にある国々を、しかもピンポイントで選出して【一大率】が監察すると云うことは、とても事実とは思えません。
いつも応援クリック、どうもありがとう。