現在の博多駅前に建つ、【博多住吉神社】
2017年9月16日(土)午後、
私、兒玉 眞は、台風の影響で小雨の降りしきる中、東京三田「いきいきプラザ」で行われた
『全国邪馬台国連絡協議会』「討論型・研究発表会」に出席し、熱弁を奮ってきました。
今回のテーマは、「水行十日陸行一月と里程の解釈について」であり、その中で私は
自説である【新放射説私案】を語りましたが、会場からのかなりの手ごたえを感じました。
聴講してくれた方々に、多くの問題提起&解決案を与えられたものと自負しています。
私の提案した【新放射説私案】とは、以下のようなものです。
この論文の本質は、この会第一回のテーマでもある、
「卑弥呼の魏朝献・景初二年三年説」迄、遡ります。
そこで私は「卑弥呼の魏朝献年」は定説の如く【景初三年】の間違いではなく、『魏志倭人伝』の本文に書かれたとおり、【景初二年】だとする説を説きました。
このことを理解して貰うために今回卑弥呼の魏朝献年前後の時系列を列記します。
景初二年(AD238)6月、
倭女王卑弥呼の派遣した使節の難升米・都市牛利等が帯方郡に到達する。
帯方太守劉夏は吏を遣わし、倭使達を魏の都洛陽迄送って行き、
倭使はめでたく、当時の魏の明帝・曹叡に朝貢することが出来た。
同年12月、明帝は倭使に謁見し、卑弥呼に【親魏倭王】の称号を仮授する。
ところが、景初三年(AD239)正月に明帝が急死すると、
その年の間、喪中となってしまった魏は、卑弥呼へ返信を齎すはずの、
正使・悌儁の派遣を次の年の正始元年(AD240)に延期するが、
その代わり魏は、景初三年中に仮の帯方郡使を倭国に派遣し、
ついでに難升米・都市牛利等を倭国に還し遣わしたのである。
仮の帯方郡使は倭国を調査して報告書を記す【倭国調査隊】の使命も帯びており、
『魏志倭人伝』に【郡使の往来、常に駐する所】と記される伊都国に駐留しつつ、
次の年の正使派遣にも役立つように『倭国報告書』を書いていた。
正使ではない彼等は、倭国の首都・邪馬台国に行くことが出来なかったわけだが、
【倭国調査隊】だった彼等は、伊都国周囲を積極的に往来して散策し、
倭国に関する情報を収集していた筈である。
では、【倭国調査隊】の行動範囲は何処まで及んでいたのか?
【放射説】の創始者・榎一雄は【放射説】の成立する理由として、
帯方郡使は伊都国に留まり、その後の国々には一切行っていないとしている。
しかし私は、伊都国周囲を往来する仮の帯方郡使達は、
奴国、不彌国迄は行った筈だと考えている。
この点が、私が【新放射説私案】を唱える理由となっている。
その証拠に、奴国、不彌国に関してはちゃんと里程が記されているからである。
「東南奴国に至る百里」「東行不彌国に至る百里」
里程を知らない倭人からの情報では、距離が水行や陸行の日程で現されていた筈だ。
多分、倭国の首都・邪馬台国に下賜品を齎す役目を帯びていなかった、
仮の帯方郡使・【倭国調査隊】達は責任も軽い為、楽な観光旅行気分でいて、
有名だった倭の海人族【住吉族】の作った祭祀の場所、「住吉神社」迄行ってみたくて、
当時から不彌国(現在の博多駅前)に有った、「住吉神社」を目指したものと思われる。
私には『魏志倭人伝』の記載から、この【倭国調査隊】達の、
旅を楽しむ浮き浮きした気分が感じ取られるのだが、如何だろうか?
だが、『倭国報告書』には奴国・不彌国迄の里程と官名、戸数が単純に記されただけである。
對馬国~末蘆国までのような具体的な倭国の情景は、
その後の倭人の風習の中で、纏めて書かれることになったのであろう。
例えば、磯場に住む末魯国の倭人は潜水漁法で魚や鰒(アワビ)を獲ると記されるが、
内湾で潜水漁法を営む伊都国・奴国・不彌国の倭人は魚や蛤(ハマグリ)を獲ると記される。
これは現在の唐津市呼子に対する、糸島市・福岡市の情景となんら変わりはない。
但し、景初三年に遣わされた【倭国調査隊】は不彌国迄しか行っていない為、
彼等の書いた『倭国報告書』には『魏志倭人伝』にある
『(帯方)郡より女王国に至る萬二千余里』の記載、即ち、
不彌国-邪馬台国間が残り千三百里とする記載は無かったはずである。
これは『魏志倭人伝』の著者・陳寿が『倭国報告書』を見て、
伊都国以降が放射的に書かれていることを認識したうえで、
唐時代と同じく、当時から「歩行一日五十里」と考えられていたことから、
伊都国-邪馬台国間の陸行一月は30日×50里=1500里であるとして、
帯方郡-伊都国迄の萬五百余里に1500里を足して、
帯方郡-邪馬台国間を萬二千余里としたものを『魏志倭人伝』に書き加えたのだろう。
これは陳寿が倭人の国を『正に会稽東治の東に有る』
と推定した記載と同じく、陳寿の机上での計算によるものである。
今回特に私が着目したのは、仮の帯方郡使が走破した、
伊都国から奴国、不彌国迄を各百里と定めた計測点である。
例えば、一里=60~100mとして、伊都国の定点を平原遺跡に置くと、
呼子(末魯国)ー平原遺跡(伊都国)の実測値は45.5㎞で、
なんとか五百里(30~50㎞)の範囲に入れられるのだが、
百里は6~10㎞なので、
平原遺跡ー須玖岡本遺跡=24,5㎞もあり、
須玖岡本遺跡ー糟屋郡宇美町役場前=7.7㎞で、
平原遺跡ー糟屋郡宇美町役場前=31.3㎞であるから、
一里=60~120mに拡げても、【連続説】での奴国ー不彌国間の7.7㎞以外は、
【放射説】でもあまりにも距離が合わず、成り立たない可能性が出てくる。
この点について長い間悩んでいた私は、最近遂に、
『奴国の定点を須玖岡本に置くことが間違っているんじゃないのか?』と思いついた。
『須玖岡本は、AD1世紀の弥生中期、【倭の奴国王】時代に栄えた遺跡であり、
AD3世紀中盤の卑弥呼時代には既に奴国の中心地では無かったんじゃなかろうか?』
そこで、AD3世紀中盤に奴国の中心地だったと考えられる
福岡市早良区に多数見られる吉武遺跡群に定点を置くと、一里=60~120mで、
平原王墓ー吉武高木遺跡=11.7㎞となり、東南百里になんとか適合する。
更に不彌国の定点を宇美町役場前ではなく、博多駅前の住吉神宮に置くと、
吉武高木遺跡ー住吉神社=12.3㎞であり、
これもなんとか近似で東行百里に取ることは可能であろう。(☟図)
因みに住吉神社は、私が不彌(須美/住/墨)国の支配者だと考えている、
住吉族の崇める神(筒男三神)が鎮座する場所である。
私は卑弥呼時代の不彌国は、海人族の住吉族が治めており、その領域は
現在の宇美町辺りから博多駅付近まで拡がっていただろうと考えている。
何故なら当時の住吉神社は、海に面しており(現在は埋め立てが進み海から遠い)、
海人族の神を祀る神社を建てるにしては極めて適当な場所にあるからだ。
例えば、同じ海人族の安曇族が祀る綿津見三神は、
やはり海岸べりの志賀島に有る、志賀之海神社に祀られている。
更に、大阪や下関、その他全国各地の住吉神社も、いずれも海岸べりか、
嘗て海岸べりだった場所に建てられている。