神武東征軍の経路  ● ー 東征船団の経路  ● ー 東征軍陸路

 

神武東征船団は『日本書紀』では岡水門(福岡県遠賀郡芦屋町)に立ち寄っただけだが、

『古事記』では岡水門一年間滞在したとされています。

すると前回指摘したように、当時二代目・天照大御神の台与(壱与)

邪馬台国(筑後山門)に坐して、倭女王として在位中でありますから、

『古事記』を信じるならば東征軍将軍の神倭磐余彦命と五瀬命の二人は、

東征軍船団が岡水門に停泊している間に倭国の首都・邪馬台国(筑後山門)を訪問し、

倭女王台与に東征の挨拶をしたであろうと、普通は考えられるわけです。

 

しかし、残念ながら『記・紀』にそのような記載はありません。

だが、二人の将軍が仮に邪馬台国を訪問せず、台与に会っていなかったにしても、

倭女王である天照大御神=台与が、倭国軍船団の畿内遠征に際し、

なにも関知していないなんてことは論理的に有り得ませんので、

天照大御神=台与は自らが岡水門を訪問しないまでも、同地に使を遣わして、

東征軍の二人の将軍と兵士たちに応援メッセージを送ったのは確実でしょう。

 

逆にもし、神武東征軍が倭国の首都・邪馬台国(筑後山門)となにも関係ないなら、

船団はわざわざ九州西海岸まで回り込んで、岡水門などに立ち寄らずに

宇佐・足一騰宮から直接、瀬戸内海を東進した方が遥かに効率的だったはずです。

 

その後、岡水門から東に向けて航海を再開した神武東征軍船団は、

安芸国(広島)の『古事記』では多祁里(たけりの)宮で7年、

『日本書紀』では埃(えの)宮で2か月ほどを過ごしたとされます。

更に東征軍船団は吉備国(岡山)の高島(たかしまの)宮

『古事記』で8年、『日本書紀』で3年程滞在し、兵糧と軍備を補充した後、

嘗て邇藝速日(ニギハヤヒ)命が天孫降臨したとされる、

河内国の河上の哮(イカルガ)峰の奥地・登美の白庭山を目指したとされます。

 

東征軍船団は播磨と淡路の間の第二の速吸戸(はやすいのと・明石海峡)を通過し、

大阪湾に入ると摂津国の浪速渡(なみはやのわたり)に至り、

河内国草香邑(くさかむら)青雲の白肩津(しらかたのつ)に船団を停泊しました。

 

神武東征時代の大阪湾地図(日本経済新聞より)と東征船団の辿ったコース

 

上記地図では草香邑の青雲の白肩津が東大阪市辺りにあることからも、

古代の大阪湾は現在の東大阪市辺りまで、海が入り込んでいたようです。

青雲の白肩津(盾津)辺りは葦の茂った干潟だったのでありましょう。

大阪湾埋め立て事業は応神・仁徳天皇の古墳時代から連綿と続けられ、

長い時間をかけて、現在の大阪平野が作られたわけです。

 

さて、草香邑の青雲の白肩津に難なく上陸した神武東征軍は、

生駒(いこま)山を超えようとして、龍田(たつた)に向かいました。ところが、

道が険しいために引き換えし、孔舍衞(くさかえ)坂を越えようとしていたところ、

道を見下ろす崖の上や岩陰や木陰などに身を潜めていた長脛彦軍が、

神武東征軍の隊列に突然、大量の矢を一斉に射かけてきました。

地の利に乏しい東征軍は長脛彦の戦略にまんまと嵌まってしまったのです。

 

東征軍団の隊列は大混乱となり、多くの兵が矢で射たれました。

神倭磐余彦命の兄で将軍の五瀬命も肘に矢を受けましたが、

神倭磐余彦命自身は幸い近くに在った大木の影に隠れ、難を逃れました。

それでその神木に、「まるで母なる木の様だ」と感謝の言葉を述べています。

これ以降、その場所は母ノ木の邑(大阪府八尾市恩智)と呼ばれるようになり、

今、飫悶廼奇(オモノキ)村というのは、それが訛ったものです。

 

因みに今迄『神武東征物語』では東征軍が皇軍、長脛彦軍が賊軍と呼ばれてきましたが、

同じ日本人を天皇方か敵方で極端に差別するこの戦前風の呼び方を使いたくないので、

私は今後とも(神武)東征軍、長脛彦軍(=畿内軍)と書いていこうと思います。


さて、すっかり防戦一方となってしまった神武東征軍団ですが、

『古事記』では五瀬命が、『日本書紀』では神倭磐余彦命が、

『日の御子である我々が太陽に向かって戦ったのは良くなかった。

此処は一旦引き返して、敵の東に回り込んで天神地祇に祈り、

太陽を背にして出直し、日の神の威光を借りて戦うべきである』

と宣言して、一旦撤退を決めました。

このことは九州で倭国軍が狗奴国の東の日向国に回り込んで、太陽を背に戦おうとしたことに通じます。

 

東征軍は必死に防戦しながら背走し、青雲の白肩津迄とって返すと、

残してあった船団の前に盾を揃えて並べて立て、

反転して全軍で雄誥(おたけび)をあげ、防御の構えを示しましたが、

長脛彦軍はあえて深追いはしてきませんでした。

このため、青雲の白肩津は以降、盾津(たてつ)と呼ばれるようになりました。

こうして東征軍はようやく船に戻ると、海上に逃れることが出来ました。

 

神武東征軍の辿った陸上ルート(勿論、盾津より先は海上ルートである)
 

その後東征船団は紀伊半島を回り込むために南に向かったのですが、

五瀬命は血沼=茅渟(ちぬ)の海で傷ついた手を洗い、山城水門(やまきのみなと)で、

次第に矢傷が悪化してきて腕が腫れあがり、

…多分傷口に雑菌が入り込み、蜂窩織炎・敗血症となったのであろう

痛みのあまり剣の柄を握りしめて、

『丈夫(ますらお)が賎(いや)しき奴によりて手を負ひてや死なむ』 

(将軍が雑兵ごときに手を射られたくらいで死ぬことになるのは非常に悔しい!)

と無念の雄誥をあげたので、山城水門は雄水門(おのみかど)と呼ばれるようになる。

そして五瀬命は遂に亡くなると、紀伊国の竈山(かまやま)に葬られました。

 

 

神武の兄・五瀬命が葬られたとされる竈山神社(和歌山県和歌山市和田)

 

ところで竈山は名草邑(なくさむら)の近くなのですが、

この地には名草戸畔(なくさとべ)と呼ばれる女酋長の率いる部族が居ました。

(戸畔は女酋長の意)

どうやら名草戸畔は畿内王の長脛彦命に服従していたらしく、

東征軍がやって来ると名草戸畔一族軍との間で、戦闘が開始されました。

だが、五瀬命を長脛彦軍に殺され、怒りに燃える東征軍は長脛彦一味に容赦なく、

今回は油断が無かったので、本来の力を発揮し、

女酋長・名草戸畔は部族の多くの兵共々、東征軍にあっけなく殺されてしまいました。

生き残った民は殺されて三つに切り別けられた名草戸畔の死骸を、頭は宇賀部神社(うかべじんじゃ)、

胴は杉尾神社(おはらさん)、足は千種神社(あしがみさん)に埋葬したと伝えられます。

 

この名草戸畔と次の丹敷戸畔(にしきとべ)の二人の女酋長の話

後世に於いて、景行天皇の九州巡行時に宇佐国王の神夏磯(かみなつそ)姫が・・・・、

或いは仲哀天皇の香椎侵攻時に伊都(怡土)国王の五十迹手(いとで)が・・・・、

いずれも八坂邇勾玉、八咫鏡、剣の三種の神器を献上して降伏した話と似ています。

即ち、当時日本各地の小国(地方の勢力)では、天照大御神=卑弥呼のような

巫女的女王がその地を治めていたことを端的に示しています。

 

さて、『日本書紀』によると、

この後東征軍は遂に狹野(和歌山県新宮市佐野)を越え、

(多分この地は神武天皇=狭野命が通ったから狭野の名が付いた。)

熊野の神邑(かみむら)に到り、天磐盾(あまいわたて)に登ったと書かれている。

(神邑の天磐盾とは熊野速玉大社の摂社、熊野神倉神社のことだろう)

 

ところがこの後、東征船団は航海の途中で嵐に会い、大波に翻弄される船の上で、

神武の次兄・稲飯(いないの)命と三兄・三毛入野(みけぬの)命は

『吾が母も叔母も海神であるのに、なぜ海神は吾を海で滅ぼすのか!』

と恨み事を呟きながら、波頭を踏んで常世の国に入った(=溺れ死んだ)とされます。


そして、嵐を乗り越えた船はなんとか、紀州熊野の荒坂津(あらさかのつ)に上陸し、

丹敷戸畔(にしきとべ)と云うこちらも女酋を註したとされています。

 

ところが地図を見ると、

下記のように➀佐野、➁荒坂津、➂神邑(天磐盾)の三か所はこの順番に並び、

しかも、後から上陸したはずの➁荒坂津が➀佐野と➂神邑の真ん中にある。

 

 

どうもこのことから、東征軍が佐野、神邑間を陸行した後、船を出して再び航海し、

荒坂津に上陸したとはどうしても考えられません。この部分は多分、

『日本書紀』編纂部の混乱による間違った記載だと思われます。

 

本来なら東征軍は名草戸畔を誅した後、再び船に乗り、紀伊半島南端部を回り込んで、

(由良~御坊~田辺~白浜~すさみ~串本~太地~勝浦)にかけ航海したはずです。

この辺りは外洋になるので荒れやすく、距離も長く危険な航海だったのでしょう。

東征軍はこの航海の途中で嵐に会い、多くの船が遭難したことが記録に残ったのが、

稲飯命と三毛入野命の死として、【神武東征物語】に書き込まれたのでしょう。

嵐に会った東征軍の船は勝浦辺りの海岸にばらばらに流れ着いたはずです。

 

ところで、この時まで全く登場せずに死ぬときだけチョイ役で登場する

稲飯命と三毛入野命の神武の二人の兄は完全に忘れられた存在であり、

東征軍に本当に参加していたのか、とそれ以上にその実在すらも疑われます。

多分『日本書紀』編纂部もすっかり忘れていた二人の存在を後から思い出して、

元々の神武東征伝承の途中の丁度死なすに都合の良い場面に挿入したものだから、

このようにまるでつじつまの合わないおかしな話になったのではないでしょうか?

 

私はこの神武の二人の兄はウガヤフキアエズ命同様、

瓊瓊杵尊の天孫降臨時に南九州の豪族が倭国軍の味方として働いた手柄から、

『記・紀』では皇室の系譜の一員として、付け加えられたのではないかと考えています。

少なくとも三毛入野命の方は、宮崎県高千穂町の高千穂神社

十社大明神と云う名の主祭神として、妻の鵜目姫や八人の子供と共に祀られています。

三毛入野命は天孫降臨してきたよそ者の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が、

高千穂神社の祭神として付け加わる前からの地元の祭神(=豪族)だったようです。

高千穂神社の由緒書きには、三毛入野命は東征の旅に出たけれど地元が気になり、

ひとり戻ってきて、高千穂で村人を苦しめていた鬼八を退治したと記されますが、

これなどは『記・紀』成立以降に、『記・紀』に合わせて作られた話で、

実際には三毛入野命は神武東征軍にはなから参加していないのでしょう。

 

さて、この後の話は、神邑の天立磐=熊野神倉神社あたりでの話と思われますが、

(=神倉が高倉下に通じる⇒実際に高倉下命が祭神として祀られている)、

この辺りでは毒気を吐くと云う熊野の土地神が軍陣の周辺に出没しており、

毒気を浴びた神武以下の東征軍兵士たちは次々に倒れていきました。

 

ところがその時、陣中に現れたのが、高倉下(=饒速日尊の子・天香具山命)でして、

夢の中で建御雷神から倉の中に下されたという布津御霊(ふつのみたまの)剣

神倭磐余彦命に献上すると東征軍兵士たちはたちまち元気を取り戻しています。

 

さて、この何やら理解困難な毒気を吐く熊野の土地神の話ですが、

何故、『古事記』『日本書紀』共に、この様な不思議な記載があるのでしょうか?

 

私はこの話を東征軍兵士たちの間で、臆病風が吹いたことを比喩していると考えました。

なにしろ東征軍兵士たちは南九州の隼人族などからの寄せ集め兵で、

元々士気が低い(=所謂よだきぼ)が多いうえに、

初戦の長脛彦命戦で大敗北を喫し、将軍五瀬命が戦死している。

稲飯命と三毛入野命の死は創作と思われますが、東征船団が嵐に会って、

東征軍の船が多数沈み、多くの兵士が死んだことは実際に有り得る話なわけです。

それなのに、これから紀伊山地を越えると云う、大変きつい状況が予想される場面で、

いくら『太陽を背にして戦えば必ず勝つ』と自軍の必勝を天に祈願してみても、

東征軍兵士たちに厭戦感が広がっていたのは免れなかったのでしょう。

 

そんな時に毒気を吐く熊野の土地神(長脛彦命の間者かもしれない)現れ、

陣中のあちらこちらで毒気=畿内軍の優勢を吹聴してまわったのだとしたら、

大将の神倭磐余彦命も含め、東征軍兵士が怖気づいても仕方ないことでしょう。

 

そこで高倉下が布津御霊剣を持ち込んだ話ですが、

この剣の実態を、私は鍛鉄剣ではないかと考えています。

後世で日本人は日本刀を使用するようになると、

剣(刀)と云えば鍛鉄剣が当たり前となりましたが、

神武の時代はまだまだ一般的ではなく、

溶かした鉄をただ型に流し込んだ軟鉄製の鋳鉄剣が普通だった時代に

鋼鉄製の鍛鉄剣は切れ味が鋭く、必殺の武器だったはずです。

だから、『記・紀』にある、

建御雷神と健御名方神の戦闘シーンにおいて、

健御名方神が建御雷神の手を掴んだら鋭い尖った氷となっており、

建御雷神に握り返されると、健御名方神が激しい痛みのあまり、

恐れをなして、手を引っ込めたと伝わります。

この情景は剣と剣同士が打ち合った時に、

豊芦原中国軍の鋳鉄剣が倭国軍の鍛鉄剣に全く敵うこともなく一方的に打ち破られた

ことを伝えているのだと思われます。

そのような時に鍛鉄剣(布津御霊の剣)を高倉下が東征軍に届けてくれたわけです。

当時の倭人達の間では、出雲国の戦いで

布津御霊の剣が凄い力を発揮したことが伝承として伝わっていた筈だから、

この素晴らしい剣を手にした東征軍の兵士たちは、

『これで我々は必ず勝つことが出来る』と、一気に士気が上がったのでしょう。

もちろん、東征軍に届けられた布津御霊の剣は一本だけではありません。

高倉下が倭国の岡水門から船を使い、軍隊の人数分程も届けたのでしょう。

そうなると必然的に東征軍の方が優勢になったと考えられるので、

畿内軍の優勢を伝えた毒気を吐く熊野の土地神は黙るか去って行ったのでしょう。

 

布津御霊の剣(出雲歴史博物館所蔵物;別館 画廊musicaから借用

 

そして、このあと天照大神が遣わした八咫烏が天から舞い降りてきて、

神武東征軍はその八咫烏を道案内として、紀伊山地を越え、

長脛彦命の本拠地の畿内登美に向け、いよいよ進軍を開始します。

 

【神武東征物語】(その三)に続く

 


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