さて神武はいよいよ奈良県宇陀市の宇陀の穿(菟田野宇賀志・ウダノウガシ)に至り、

この後東征軍は畿内を守る長脛彦命方の軍団と一連の対戦となるのですが、
この神武東征軍と長脛彦軍との戦いの状況はいま一つ記載からは解り難いようです。
その理由は『古事記』と『日本書紀』で畿内軍団の名称や戦う順番などが微妙に異なっており、

更に後半の戦いは【久米歌】などで観念的に表現されることが多くなるからです。

 

そんなわけで今回は、神武東征軍と戦った敵の名をはっきりさせておきましょう。
 

先ずは東征軍の正面の敵となる畿内軍の大将は長脛彦命(登美毘古)です。
ところが長脛彦命の仕えるご主人様が畿内登美には居らっしゃって、

そのお方が天神御子(あまつかみのみこ)である饒速日尊で、物語の最後に登場します。

つまり、同じ天神御子である神武(神倭磐余彦命)饒速日尊は立場が似てますが、

これについては後で饒速日尊の登場時に言及します。

即ち、当時の畿内王は天神御子の饒速日尊であり、

畿内軍の大将を務める長脛彦命は畿内の筆頭豪族の長でありました。


次に畿内軍の兵士は、八十健(八十梟帥・ヤソタケル)と記されます。

兵士・八十健(八十梟帥・ヤソタケル)を従える将には、

兄宇迦斯(兄猾・エウカシ)・弟宇迦斯(弟猾・オトウカシ)の宇迦斯(猾)兄弟が居て、

更に兄磯城(兄師木・エシキ)・弟磯城(弟師木・オトシキ)の磯城(師木)兄弟が居ました。
宇陀は畿内の辺境であるから多分、宇迦斯兄弟は夷守(卑奴母離・ヒナモリ)であり、

磯城兄弟は、長脛彦軍の本陣近くを守る畿内軍上級の将だったと思われます。

 

他に、土蜘蛛(つちぐも・土雲)と呼ばれる兵も記されています。

彼等は兵士(ヤソタケル)の一種であるが、たぶん古くから畿内に住む原住民であり、

元々昔ながらの竪穴式住居で平和に暮らす一般の人々であったことでしょう。

当時、先進地域(九州や出雲)から高い文化を伴って畿内に東遷してきた物部氏一族は

殆どの者が既に現在と同じ様な地上床式か高床式の木造家屋に住んでおり、

相変わらず竪穴式住居で暮らす先住の民を土蜘蛛と呼んで揶揄していたのでしょう。

ところが神武軍が九州から東征に来たことで、畿内は緊急時となりました。

すると大将・長脛彦命は兵の数は多ければ多いほど良いと云うことで、

地域の人々からむりやりに招集した雑兵たちが土蜘蛛であり、

後世で云う足軽のような下っ端の兵だったのでありましょう。

 

逆に神武東征軍の将と兵はと云うと、

大将が彦火火出見命=神倭磐余彦命(神武天皇)

神武=神倭磐余彦命の前に東征軍の大将だった兄の五瀬命は、

孔舍衞(くさかえ)坂の戦いで負傷した矢傷が悪化し、雄水門で悶絶死しています。

また、他の神武の兄とされる稲飯命と三毛入野命は『古事記』には登場せず、

『日本書紀』でもチョイ役でしかないので、多分本当は東征軍に参加していないはずです。

神武の宮崎での息子タギシミミ命も東征軍に参加しており、キスミミ命は解りません。

 

他の将は日向國土々呂(ととろ)の櫛津(くしづ)から同行した大久米命(久米部の主)

海部国(大分県)辺りから同行し、紀州では八咫烏に付いて東征軍を引率、

紀伊山地を越えさせ、その功績で日臣命から出世した道臣命(大伴氏の祖)

速吸戸=豊後水道又は明石海峡で神武に従った椎根津彦(棹根津彦)=珍彦

神倉神社で布津御霊剣を神武に届けた高倉下(饒速日尊の長男・天香具山命

高天原の高見夢巣日神から遣わされ、天から飛び降りてきたとされる八咫烏

後に弟宇迦斯(オトウカシ)弟磯城(オトシキ)も兄を裏切って東征軍に加わる。

そして主な兵士たちは日向国から連れてきた久米部(隼人族)の人々である。


 

さて、畿内に到った神武東征軍と最初に対戦する宇迦斯(猾)兄弟であるが・・・、

兄宇迦斯が兵を集めようとしたが、あまり集まらなかったので、

仕方なく、新殿を作り、中に入った者を圧死させる押機(オシ)を仕掛けたとある。

多分、神武東征により、長脛彦の本陣近くに兵(ヤソタケル)が集められていたため、

夷守である兄宇迦斯の辺境の守備位置には兵があまりいなくなっていたのであろう。

ところで、この押機(オシ)とはどんな罠であろうか?

弥生時代には当然モーターやエンジンで動く機械があったわけではない。

しかし、一応兄宇迦斯は軍隊の将であるので、人力なら相当あったことだろう。

兄宇迦斯は御殿を立てて、中に仕掛けを施したとあるから、大がかりな仕掛けを作り、

多分吊り天井のような形式として、留め金を外せば重力で天井が落ち、

中に入った者を圧死させる仕掛けを作っていたものと思われる。(☟図)

 

多数の刀の付いた吊り天井


神武宇迦斯(猾)兄弟を呼び出すと、兄宇迦斯は来ず、弟宇迦斯だけがやって来た。

(注;『古事記』では八咫烏宇迦斯(猾)兄弟を呼び出しに行くが、

『日本書紀』では八咫烏が呼び出したのは磯城(師木兄弟となっている。)
兄と畿内軍を裏切って神武に就いた弟宇迦斯は、兄宇迦斯が罠を造り待っていると漏らす。
その為、神武日臣命から改名した大伴氏の祖・道臣命大久米命を遣して、
兄宇迦斯を弓矢と剣で脅迫し、自分で造った罠=押機(オシ)に追い込んで殺した。

兄宇迦斯の遺体を引き摺り出して切り刻み、くるぶし迄血の海にした処を宇陀の血原と云う。
神武の臣下となった弟宇迦斯は東征軍を御馳走を作ってもてなし、

東征軍の久米の兵士達は久米歌(戦いの唄)を唄って喜んだ。

久米一族は戦いの前や戦いに勝つ度に、必ず久米歌を歌うらしい。

 

 宇陀の 高城に鴫(シギ)罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし鷹障り

 前妻が 肴乞はさば 立稜麦の 実の無けくを 幾しひゑね

 新妻が 肴乞はさば 斎賢木の 実の多けくを 幾多ひゑね

 宇陀の高城にシギ罠を張って待っていると、シギが罹らずにどうしたことか鷹が罹った

 古女房が酒の肴を欲しがったなら、身の少ない所を少しだけ削り取ってやれ

 新婚女房が酒の肴を欲しがったなら、身の多い所を十分に削り取ってやれ

 

この歌からも、どうやら当時の日本は一夫多妻制だったらしい。

『魏志倭人伝』にも大人は皆妻が4~5人、下戸も或いは2~3人有と書いてある。

多分倭国大乱で戦った男性は大勢が死に、残った男性は少なかったのだろう。

だが戦場に行かない女性は多くが生き残っていた。

しかも古妻より新妻をひいきする男性心理は、昔から変わらないらしい。

因みに『古事記』では「鷹」の部分が、「鯨」となっている。

どうやらこれは神武が日向の細島で鯨を助けた話が『記・紀』編纂部に伝わっており、

その話が畿内で歌われた【久米歌】内に編入されたのではないかと思われる。

 

その後、神武が菟田の高倉山の頂きに登って、国の中を眺めると、
国見丘の上に八十梟師(ヤソタケル=長脛彦軍の大勢の兵)が居座るのが見えた。
そして女坂には女軍を置き、男坂には男軍を置き、墨坂には熾し炭をおいていた。
また、磐余邑(いわれのむら)には兄磯城(エシキ)軍の兵が満ちていた。

敵の拠点はみな要害の地であり、道は全て塞がれて通れる所がなかった。

 

これを見た神武はどうすれば良いか解らず、夜、神に縋ることにして寝られた。
するとまさしく夢に天照大神が現れて、教えて仰せられた。
「天の香具山の社の土を取って、天の平瓦八十枚をつくり、

同じく神聖な瓮(もたい)=甕(かめ)をつくり、

天神地祇をお祀りし、厳粛にお祈りしなさい。

このようにすれば、敵は自然と降伏するだろう」
神武は、夢の教えをつつしみ承り、これを行うべきだと思って起きると

弟宇迦斯が来て夢と同じ事を言ったので、弟宇迦斯にこの役をやらせることにした。

それに従い、神武椎根津彦に翁、弟宇迦斯に媼の格好をさせ、
磐余邑に溢れる八十梟帥の陣中を突破させた。

八十梟帥は何も疑わず「なんて汚い爺と婆だ!」と大笑いして通過させたので、

二人は難なく天香具山の頂に辿り着き、赤土を採って帰ることが出来た。

計略が上手くいって自信を得た神武はその赤土を使って、
天の平瓦八十枚、同じく手抉(たしぐり)、神聖な瓮(もたい)=甕(かめ)をつくり、
丹生(にう)の川上に持って行き、天神地祇を祀られ、神の加護を待った。

すると、その菟田川の朝原で、ちょうど水沫のようにかたまり着くところがあった。

神武はまた神意を占って、仰せになった。
「私は今、たくさんの平瓦で、水なしで飴を造ろう。もし飴ができれば、きっと武器を使わないで、

居ながらに天下を平らげるだろう」
そう言って平瓦を使って飴づくりをなされると、たやすく飴はできた。

神武はまた神意を占って仰せになった。

「私は、いま神聖な瓮を、丹生の川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが、

ちょうど槙の葉の浮き流れるようであれば、自分はきっとこの国を平定するだろう。

もしそうでなければ、ことを成し遂げられぬだろう」
そして、酒を造って瓮(もたい)に入れ、川に沈めた。するとその口が下に向いた。

しばらくすると魚が酔ってみな浮き上がり、水のまにまに流れながら口をパクパクして喘いだ。
椎根津彦はそのありさまを見て、神武に報告した。
神武は大いに喜ばれ、丹生の川上のたくさんの榊を根こそぎにして、諸神をお祀りされた。

このときから祭儀の折には、必ず神聖な瓮が据え置かれるようになった。

 

こうして、天神地祇の力を得た神武東征軍は、

先ずは国見丘上に居座る八十梟師(ヤソタケル)軍と合戦を行い、破ったと記される。

戦いの前に久米部の兵士たちはまた、久米歌を歌った。

 

 神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 細螺(シタダミ)の

 吾子よ 吾子よ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ

 伊勢ノ海の大石(国見丘)の上をはい回るシタダミ(巻貝)のようなヤソタケルを、

 我が久米の兵よ。巻貝の様にはい回って、やっつけてしまおう。やっつけてしまおう。

 

其の地より巡行して、忍坂邑(おさかむら)に到りし時、大室(大きな岩穴)の中を覆うように、

多くの土雲(土蜘蛛)八十建(ヤソタケル)が、待ちうけていた。

神武は一計を案じ、ひそかに道臣命に命じて仰せられた。
「お前は大来目部を率いて、土蜘蛛どもを誘って、酒宴を催し、その途中で奴らを討ち取れ」

道臣命はこの密命を受け、久米部の強者を選んで、土蜘蛛と同席させた。

密かに示し合せて言った。
「酒宴がたけなわになる頃自分は立って歌おう。お前等は歌を聞けば、一斉に敵を斬れ」

みな座について、酒を飲んだ。敵は陰謀のあることも知らず、心のままに酒に酔った。

その時、ここぞとばかりに道臣命は立ち上がり、相図の歌を歌った。

 

 忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入居りとも みつみつし

 来目の子等が 頭椎い 石椎い持ち 撃ちてし止まむ

 忍坂の大きな室屋の中に人(土蜘蛛)が沢山入って、人で満ちている

 久米の兵が、頭椎(くぶつち)の剣、石椎(いしづち)の剣を持って、やっつけてしまおう

 

即ち、人の好い現地人の土蜘蛛の連中は、東征軍が御馳走をするとうまいことを云うと、

ホイホイ集まってきて、結局、神武の計略により、全員だまし討ちにされたわけである。

 

東征軍は大いに喜び、天を仰いで笑った。よって歌をよんだ。

 

 今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも

 夷を 一人 百な人 人は云へども 抵抗ませず

 今はもう 今はもう 敵をやっつけてしまったよ 今はもう 我が久米の兵たちよ 

 夷はひとり百人力と人は云うが、それ程にも抵抗もしなかったよ


どうやら『記・紀』はだまし討ちを賢いやり方として推奨しているようだが、
そのせいで神武が非道な人物に思えてきて、読者の支持を得難くしている。
特にこの辺りになると、神武の卑怯で残酷な戦法が鼻についてくる。

わざわざ日向の地から豊穣の地を求めて遠い畿内迄旅してきたはずの神武東征軍だが、
実際には現地人を殺戮しまくっており、神武東征が侵略戦争であったことを物語っている。

東征軍は次に磯城(師木)兄弟との戦いになるのだが、

例によって、兄の兄磯城(エシキ)神武に従わず、対決姿勢を示したが、

神武は又も八咫烏を使って、弟の弟磯城(オトシキ)を手なずけ、味方とした。

この辺は何時もワンパターンである。

 

弟磯城は、八咫烏に導かれて東征軍の陣地にやってきて、申しあげた。
「わが兄の兄磯城は、天神の御子がおいでになったと聞いて、八十梟師を集めて、

武器を整え決戦しようとしています。すみやかに対策すべきです」
天孫(神武)は、諸将を集めて仰せられた。
兄磯城はやはり逆らうつもりらしい。呼びにやっても来ない。どうすべきか」
諸将は申しあげた。
兄磯城は悪賢い敵です。まず弟磯城を遣わして教え諭し、

併せて兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)を遣わして説得させましょう。

どうしても従わないならば、それから兵を挙げて臨んでも遅くないでしょう」

さて、此処で突然出てきた兄倉下・弟倉下のたぶん兄弟であるが、

これ迄のパターンからして、高倉下兄弟と云うことであろうか?

しかし、高倉下ニギハヤヒ尊の息子の天香久山命と云う只一名のはずである。

本当は兄弟だったのだが、後世で一名に収束させられたのであろうか?

もしくは、一人の武人を東征物語では全て兄弟にしてしまったのだろうか?

 

さて、物語に戻って、そこで、弟磯城を遣わして利害を説かせた。

しかし、兄磯城らは、なお愚かな計りごと?を守って承服しなかった。

だが本来卑怯者は兄を含めた畿内軍を裏切り、東征軍に走った弟磯城のほうであり、

東征軍からしたら愚かな計りごとでも、畿内軍の将である兄磯城からしたら、

戦力で劣るかもしれぬのに、必死で自分達の土地を守護しているわけである。

この辺りも『記・紀』が天照大神の子孫が日本を支配するのが当然とする実に勝者の理論である。

ところでこのように必ず、弟が東征軍に味方し、兄は敵となって戦うのは、
兄がその土地の長であったわけで、長になれなかった弟は兄に不満を持ち、
兄を倒してその土地の長となるために、外来勢力を利用したのではないか?

椎根津彦が謀りごとを立てて神武に申しあげた。

「今はまず女軍を遣わして、忍坂の道から出しましょう。敵はきっと精兵を出してくるでしょう。

私は強兵を走らせて、ただちに墨坂を目指し、菟田川の水をとって、敵兵が起こした炭の火にそそぎ、

驚いている間にその不意をつきます。敵は必ず敗れるでしょう」
天孫(神武)はその計りごとを褒めて、先ずは女軍を出してごらんになった。

ところで女軍とは、女性の兵で出来た軍団だろうか?

そうなると東征軍に女性が参加していたことになるが、果たしてありうる話だろうか?

 

敵は大兵が来たと思って、力を尽くして迎え討った。

このあとは、皇軍は攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。

しかし、兵士たちはこの連戦に疲弊しなかったわけではない。

そこで神武は、疲れた将兵の心を慰めるために歌を作られた。

 

 楯並めて 伊那瑳の山の 木の間ゆも い行き胆らひ 戦へば

 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒 今助けに来ね

 盾を並べ、伊那瑳(いなさ)の山の木の間から、敵と行き交いながら戦ったので、

 我々は腹がすいた。島を渉る鳥、鵜飼をする輩よ、今こそ(食料を持って)助けに来てくれ

 

はたして男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、

その梟雄(たける)=兵、そして兄磯城らを斬った。

そして東征軍は遂に長脛彦命の本拠地、畿内登美(鳥見)に至る。

 

【『神武東征物語』(その六)へと続く】

 

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