世間では【邪馬台国の女王・卑弥呼】と呼ばれる古代日本の女王、
【卑弥呼】とはいったい何者なのか?――――
この問題は日本古代史上最大の難問とされているようですが、
私的にはまあ、――――既に答えがだいたい出ているわけです。
だが、世間では様々な説が俎上に載せられ、何百年もの間議論が続けられています。
それなのに未だに決着がつかない理由はと云うと――――いろいろ考えられますが、
なによりも世間の【卑弥呼】に関する認識があやふやなことが原因ではないでしょうか?
先ずは【邪馬台国の女王・卑弥呼】の認識を見直すべきだと、私は考えています。
だって、【卑弥呼】は『魏志倭人伝』に【倭女王卑弥呼】と記されているのだからね💛
長野 剛 氏のイメージした【倭女王卑弥呼】像 (2013)
では何故【卑弥呼】は世間で【邪馬台国の女王】と呼ばれているのでしょうか?
それは女王の都する所が【邪馬台国】だと『魏志倭人伝』に記されているからです。
都、即ち自ら【倭国】の首都に定めた【邪馬台国】に居城を構えていた【卑弥呼】は、
当然【邪馬台国】を統治していたはずであり、【邪馬台国女王】に違いないのです。
それでは逆に、『魏志倭人伝』に【倭女王卑弥呼】と記されるのはどういう意味か?
ここで特に理解しておかねばならないことは、
弥生期の【倭国】とは、九州北部に在る30国の小国が集まって出来た連合国
であったわけです。これについては上記リンクに詳細を記してあります。
【倭国】の都(首都)【邪馬台国】も勿論その小国のひとつです。
この辺りの問題も含め、今から【卑弥呼】について詳しく検証してみたいと思いますが、
元々、【卑弥呼】は『魏志倭人伝』に登場する人物ですから、
なによりも『魏志倭人伝』を正確に解読する必要があります。
だが昨今、所謂邪馬台国研究家の多くは『魏志倭人伝』の解読があやふやな儘で、
『古事記』『日本書紀』の登場人物に【卑弥呼】を性急に比定しようとするため、結局、
【卑弥呼】とは全然関係のない大和朝廷関連女性に間違って比定してしまうのです。
基本、『魏志倭人伝』には、【卑弥呼】に関し、以下の様に記されています。
其の国(倭国)は元々男王が治めていたが、男王の統治が七、八十年も続くうちに、
倭国は乱れ、倭国を構成する小国どうしが長年にわたり相争うようになったので、
小国王達がなんとかしようと集まって協議した結果、一女子を共に立てて倭王と為した。
その名を【卑弥呼】と曰く。鬼道(呪術)を事とし、能く衆を惑わす。
年は既に長大なれど、夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。
王と為りて以来、見る有る者少なし。婢千人を以(もち)い、身辺に侍らせていた。
ただ、男子一人有りて、卑弥呼に飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。
(女王卑弥呼の居城には)、宮室、楼観、城柵が厳かに設けられ、
常に人有りて、兵(武器)を持ちて守衛する。
以上の記事により、【卑弥呼】は次の様な特徴を持つ人物と考えられます。
① 倭国大乱時に諸国王により倭王に共立され、同時に大乱は終息した。
『梁書』が後漢霊帝光和年間(AD178-184)にあったと記す倭国大乱の終わり頃、
どうやら倭国を構成する小国の王達が何処か(天夜須河原?)に集まって協議し、
当時【邪馬台国女王】だった【卑弥呼】を【倭王】=【倭国大王】に共立したもようです。
ここで【卑弥呼】が【倭王】に共立される以前から【邪馬台国女王】であったとするのは、
【倭王】=【倭国大王】は【倭国】を構成する小国王達の中から選ばれるはずだからです。
当時戸数七万を誇る【倭国】最大の構成国に成長した【邪馬台国】の女王【卑弥呼】は、
確かに【倭女王】=【倭国大王】に共立されるに相応しい王であったことでしょう。
そうなると【卑弥呼】は【倭女王】と【邪馬台国女王】を兼任していたことになり、
これは現代で云えば、内閣総理大臣が東京都知事を兼任している様なものです。
この場合【倭女王】は各小国の王達の中から選ばれた王の中の王=大王なので、
【倭国】の首都とは云え一小国王に過ぎない【邪馬台国女王】よりも遥かに格上だから、
【卑弥呼】は本来【倭女王卑弥呼】と呼ばれるべきであるのは当然です。
実際、『魏志倭人伝』にもそう書いてあり、逆に【邪馬台国女王卑弥呼】の記載はない。
ところが世間では何故か【邪馬台国の女王・卑弥呼】とばかり呼んでいるので、
多くの人は【卑弥呼】が【倭女王】であることを忘れてしまいがちとなります。
実際、日本中に【倭女王卑弥呼】の認識を持つ人がどれ程いることでしょうか?
私はこのあやふやな認識が【卑弥呼】を誰か解らなくした大きな要因と考えています。
② 鬼道(呪術)を生業とし、大衆を魅了する能力が高かった(高カリスマ性)。
③ 帯方郡使・梯儁らが邪馬台国を訪問したAD240頃には既に高齢だった。
④ 高齢であるも夫や婿(むこ)はいない。一生独身だったようである。
⑤ 弟があり、姉の卑弥呼を佐(たす)けて国政を執り行っていた(ヒメヒコ制)。
⑥ 【倭王】となった後は官室に引き籠り、実際目にした者は滅多に居なかった。
⑦ 男性は一人だけ(弟?)が官室に出入りし、飲食を給し、辞を伝えていた。
➇ だが婢千人も数名ずつが交代で官室に入り、卑弥呼の世話をしていたようだ。
【卑弥呼】が【邪馬台国女王】や【倭女王】=【倭国大王】に選出された理由は、
彼女の鬼道が異様に幻惑的で大衆を魅了し、神の如く崇められていたからでしょう。
【卑弥呼】の名称の由来は日輪神を祀り、鬼道を執り行う太陽の巫女【日巫女】、
或いは天候を司る日輪神の分身とされる太陽の御子【日御子】だと思われます。
【ヒミコ】が中国人の“倭人蔑視”により“蔑字”で表されると【卑弥呼】となるわけです。
たぶん【卑弥呼】の鬼道では太陽を映し出す【銅鏡】が用いられていたのでしょう。
弥生時代の農耕生活を営む社会においては、天候の良し悪しは死活問題であり、
当時【倭国】の人々は天災・飢饉を恐れて、必然的に太陽を信仰していたのでしょう。
【卑弥呼】が【邪馬台国女王】に就任したのは【台与】同様13歳位の時と思われます。
【卑弥呼】が【倭女王】に共立されたのはその数年後、およそ20歳位の頃でしょう。
【卑弥呼】が光和年間最終年(AD184)に20歳だったとすると、AD164生まれとなり、
正始元年(AD240)に帯方郡使・梯儁らが拜假(謁見)した時は76歳、
正始八年(AD247)に亡くなった時は、83歳だったことになります。
また、朝鮮の史書・『三国史記』中の『新羅本記』には【倭女王卑弥呼】が
新羅の第八代・阿達羅尼師今の二十年(AD173)夏五月に使者を遣したと記されます。
新羅建国はAD356辺りなので、【卑弥呼】時代に新羅はまだ無かったはずですが、
『魏志倭人伝』に「王が使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣で」とあることから、
【卑弥呼】が新羅でなくとも当時の辰韓に倭使を遣わした事績は確かに有るはずです。
だが、【卑弥呼】がAD164辺りの生まれだとすると、AD173にはまだ7歳位なので、
【倭女王】どころか【邪馬台国女王】でもなかったはずなのです。
つまり、AD173当時の【卑弥呼】は、まだ【倭王】として外国に使を遣わす立場になく、
『新羅本記』の記載は遺使の時期・国名共に信憑性に欠けます。
ところで【卑弥呼】は年既に長大なるも夫婿なしと記され、即ち一生独身でした。
⑨ 卑弥呼の宮殿は城柵に囲まれ、楼観(見張りの櫓)が設けられていた。
⑩ 宮殿の周囲は見張りの者が兵(武器)を持ち、常に監視して回っていた。
この辺りの【卑弥呼の宮殿】の記載は如何にも【吉野ケ里遺跡】を彷彿とさせます。
次に【卑弥呼】魏朝献時の記載
景初二年六月、太夫難升米(なしめ)等が帯方郡(現在のソウル近辺)に到着する。
彼等は帯方郡を魏が奪取した情報が倭国の首都・邪馬台国に伝わると、
【倭女王卑弥呼】が魏帝に朝貢しようとして、早急に遣わした倭国の使者であった。
帯方太守【劉夏】は吏を遣わし、司馬懿が公孫氏と戦闘中の遼東半島を避け、
帯方郡から山東半島へ至る海上ルートを用いて、倭使を洛陽に送り届けた。
其年の十二月、魏明帝は倭使に謁見し、詔書を報じて倭女王に伝えている。
『親魏倭王卑彌呼に制詔す』
これは実に明帝の亡くなる一月程前のことであった。
このため魏は、景初三年中明帝の喪に服したが、倭使は倭国に還し遣わされている。
以上より、【卑弥呼】の魏朝献を景初三年とする説は間違いである。
正始元年、帯方太守・弓遵(きゅうじゅん)は建中校尉・梯儁(ていしゅん)等を遺して、
詔書と印綬を奉じて倭國に詣り、倭王に拜假(皇帝に代わって謁見)する。
並びに詔書を齎し、金帛(きんぱく)・錦罽(ぎんけい)・刀・鏡・采物を賜う。
倭王、使に因りて上表し、詣恩(けいおん)を答謝(とうしゃ)す。
⑪ 景初二年(AD238)卑弥呼は魏に朝献し、明帝から【親魏倭王】に制証された。
⑫ 更に卑弥呼は明帝から【親魏倭王】銘の入った金印も戴いています。
倭女王卑弥呼が魏明帝から戴いた【親魏倭王】銘の金印(未出土)
⑬ 正始元年(AD240)帯方郡使・梯儁らが実際に倭国の首都・邪馬台国を訪問し、
倭女王卑弥呼に拜假(皇帝の代理として謁見)している。
この時ばかりは卑弥呼は官室の奥から顔を出し、梯儁らと謁見したようだ。
邪馬台国を訪問した梯儁以下の帯方郡使は魏皇帝の代理だから当然である。
以上、【卑弥呼】はこれぞ如何にも【倭女王】=【倭国大王】と云った感じですね。
単なる地方の巫女的女王ましてや熊襲の女酋と卑下するわけにはいかないようです。
普通、此処迄で【卑弥呼】はいったい何者なのか?についてはほぼ解りましたが、