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南京大虐殺の最中にも赤ん坊を串刺しにしていた日本兵

ネットではもっぱら「反日」中国のプロパガンダだ、でっち上げだと主張されている「日本兵が赤ん坊を銃剣で串刺しにした話」だが、中国でもフィリピンでも、実際にそういうことが行われた、という証言がいくつもある。

先日、そうした事例を集めて上の記事にまとめたのだが、もう一事例見つかったのでメモ。

こちらは、南京大虐殺の真っ最中に行われた事例についての目撃証言である。目撃したのは張秀紅さん(女性・当時11歳)、時期は1938年2月頃、場所は南京城の西南郊外である[1]。

 趙家苑に逃げるとき、ふとんや米を持っていきました。冬なのでクリークの中は水が少なく、そこに隠れていました。夜になるとごはんを作り、布の袋に入れておき昼にお腹がすくとその袋の中から出して食べ、のどが渇くとクリークの水を手ですくって飲みました。クリークの中で十日間以上いました。その期間中に二~三回日本兵が若い娘を強姦するのをこの目で見ました。クリークから出て見ると大きな広場に、鍋底の墨を顔に塗り、古い綿入れの服を着た数十人の若い娘を並べ、日本兵がきれいな顔をした娘数人を選んで顔を洗わせ別の場所に連れていきました。残った娘はその場で機関銃で撃ち殺されました。
 もうひとつクリークから見た日本兵の暴行があります。三~四人の一歳にも満たない赤ちゃんを日本兵が面白がってお尻から銃剣をさしこんで持ち上げました。空中で振り回し赤ちゃんが泣き叫ぶと別の見学していた十数人の日本兵たちが笑い、拍手していました。赤ちゃんが(死んで)泣き止むと、放り投げて捨てました。また、他の赤ちゃんを刺し貫き持ち上げて遊んでいました。こういうことを三~四人の赤ちゃんにつづけてやりました。

張秀紅さんは、数々の残虐場面を目撃させられただけでなく、まだ11歳だったのに日本兵に強姦された性暴力被害者でもある[2]。

 しばらくすると村のみんなから沙州圩の方が安全になったと聞いて、村の人たちと一緒に戻りました。ある日突然日本兵が家にやってきました。私はまだ子供ですからおじいさんが私を守るために私を抱きしめ日本兵に渡すまいと抵抗しました。日本兵はおじいさんの背中を銃剣で突付きました。「もう離して、離さないと二人とも殺される」。私は子供だからおじいさんが殺されたら私も生きていけない、助かるわけがない、ふたりとも殺されるなら一人のほうがまだましだから……と思い、私は日本兵にとなりの空き家になっている部屋に連れて行かれました。日本兵は私をベッドに倒すと服を脱がせました。日本兵は無理やり股(性器)を強く開きました。苦痛でした。私は気絶し強姦されました。日本兵が去って行ったのも知りませんでした。とおじいさんは血がいっぱい出ている私の足を閉じて縄で股をしっかりしばり、お腹をさすって揉んでいてくれました。意識が戻ってくるとおじいさんは、私を抱きしめてこんな被害を受けて、と泣きながら一生懸命言ってくれました。長い間足は全然動けない状態でした。七十年も経っても天気の悪い日には後遺症が出て痛みます。座っていると立ち上がれません。まだあの時は十一歳でしたから、あまりにも傷が大きかったのです。

張秀紅さんは事件から70年後の2007年、ようやく南京大虐殺の生存者として名乗り出た[3]。日本での証言集会でも話をしているが、最初は「日本に行ったら殺される」と固辞していたという。そして2016年、90歳で亡くなられた。

70年もの間語り得なかった、日本軍によって強いられた少女時代の過酷な体験が彼女の人生をどれほど辛いものにしたか、「普通の日本人」には想像もつかないだろう。

[1] 松岡環 「南京 引き裂かれた記憶」 社会評論社 2016年 P.156
[2] 同 P.156-157
[3] 「南京大虐殺70周年記念会議開催 生存者の証言も」 人民網日本語版 2007/11/24

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