最近色々な舞台を拝見していて、私が改めて再確認させられている事があります。
それは「"深み"が感じられないものには、人は感動しない」という事です。
( ・・) ~ ☆彡 or ★彡


この「深み」が何から来るかと言うと、それは作り手が意識するしないに関わらず、「自然界の本来の在るべき姿」に沿ったもの、強いては「宇宙の秩序」という真理に則った"普遍的"なものが含まれているかどうかから生まれて来るものだと私は思います。

この世は、絶えず色々な所で常に「ブーム」や「流行」というものが生まれ、そしてその多くは時間と共にすぐに廃れてしまい消えて行きますが、そういう中で時間や世代を越えて人々の心に残って行くものというのは、そういう「普遍性」のあるものだけであり、

例え一時的に凄いブームになったとしても、その様な「深み」が無いものというのはすぐ飽きられ、人々の記憶の片隅には残っても、ハートの奥深くには届かないものなのだという事です。
( 一 一)・・・

私は最近演劇を少々学ぶ様になってから、この世界では良く聞く事の一つに、「演劇の世界は何でも有りの世界だから…」というものがあります。

私はそれを聞く度に、それは「人の数だけ、違う解釈や表現が有る」という事で、確かに間違ってはいないと思うのですが、そういう事を主張される方達の多くが、何か大事なものも見落としてはいないだろうか?という事も同時に感じさせて頂く事もとても多いのです。

だってこういう思考は、人によっては「自分を甘やかす為の言い訳や誤魔化しから来る解釈の歪み」にも通じますからね~。
(^^;;

表現は自由。感じ方も自由。

確かにそれは私達人間各自全員に与えられた特権であり、だからこそ私達は生きていて喜びや楽しさ、そして苦しみや哀しみや孤独感も味わえる訳なのですが、でも演劇を始めとする遊びや芸術にしても、人間というものにしても、

どの世界にも"格の違い"というものは確実に存在すると言う事を、そういう事を声高に主張される方達の中で、果たしてどの位の方達が認識されているのでしょうか?という事を思います。
( ・・) ~ ☆彡



この"格"というものは、個人的な好みというものを超越してしまう領域なので、見る者がそれを好きであろうと無かろうと、例え嫌いであったとしても「良いものは良い」と人を納得させてしまう、或いは「黙らせてしまう説得力と気迫」というものがあります。

そういう現象を生み出す、この"格の違い"というのは「一体何から来ているのか?」ですが、それは数え切れない前世から引き継がれた、その方の"正しい努力=宇宙の秩序に沿った精進"という「長年の徳の積み重ね」という貯金から得た財産に他ならないという事です。

格の高い方達に共通するのは"知性"と"品格"です。

これは一夜漬けでは決して手に入れる事ができないものであり、又他人が真似をしたり、その人から奪う事が決してできない各人固有の得難い人間の美しい財産です。

絶えず進化し成長し続けるこの宇宙の源には、全ての存在に平等に与えられる因果応報という規律を「一分の狂いもなく、厳格に正確に守り秩序を保つ」という性質が在る為に、

その宇宙の中で生まれた私達人間という存在も宇宙同様、「絶えず成長し続けなければ、幸せを感じない様に生まれ付いている」ので、この人間が持つ事ができる"知性"と"品格"という資質は、私達人間界への貢献に繋がる資質でもあるのです。

これは正に、「それがこの宇宙を創造した存在の本質そのものだから…」という事です。


人格・霊格が成長するほど、そういう誠実さや厳格さという資質を兼ね備えて行き、自他共に"愛"というものに対してより繊細に微細な感覚を持つ様になるという事実を観ても、

そういうものを私達人間が身に付ける為には、"手抜きから得られるもの"や"飛び級"というものが無いという非常に現実的な事実含めて、それがこの宇宙の平等で厳然たる秩序なのだと私は感じます。
☆_(_☆_)_☆



「厳然」というと堅苦しいイメージしか持たれない方達が世の中には大変多い様ですが、この宇宙がそういう厳格さ(※慈悲)に守られているからこそ、私達は安心して自由を謳歌し遊ぶ事もできる訳で、

そういう事を理解して、初めて私達人間は自己責任に於いての本当の意味での「何でも有り」という世界を各自で創造する事ができるという、この世の最大の遊びを堪能できる訳ですね♫
(*^^*) ~ ♡



つい先日も私は或る演劇の舞台(※アマチュアの方達が作られた舞台)を観て来たのですが、特に今回の舞台から透けて視えて来たものは、劇の台本を書かれた作家の方が内面に持っている人間としての質や格というものでした。

…という事で、今回は私がその舞台の感想として書かせて頂いた一部をご紹介させて頂こうと思います。
☆_(_☆_)_☆




【私の感想】 (※一部抜粋したものを、今回のコラムの為に加筆修正しています) 

今回の公演の中の、特に後半に演じられた二作品は、同じ作者の方が書かれた台本という事で、私にはその根底に流れる作者の方の精神性の様なもの、人間というものに対するネガティブでシビアな見方や、それを表現する方法のくどさや暗さといったものに共通点を感じます。

そしてこの二作品から放たれる波動が、とても低く重い上に執拗に長いので、観ている方は段々テンションが下がり、ラストに行き着くまでには「見たい!」というより「見なくては…」という様な義務的な気持ちにさせられ、人によっては欠伸を噛み殺したりする様に"飽きてしまう"という現象も引き起こされています。

作者の方の狙いが「ブラックジョーク」で表現するというコンセプトなのは理解できますが、そういう事から私は台本の面白さより、ダークで不快な気持ちにさせられる時間を長く味わわされる感じが強く致しました。

特に最後に演じられた作品は、私的には今回最も精彩を欠いた作品であると感じてしまった理由は、その根底に流れているものが、「人の不幸(※演出上の出演者である熟年夫婦に取っては"死")をベースに、自分達を幸せだと感じようとする」という、その愛の欠如からです。

この劇の登場人物である熟年夫婦は、本当は「自分達の人生は、一体何だったのだろう?」とか、本当はさほど幸福を実感してはいないのに、

 

自分達より社会的地位が上で、絶えず心の中で嫉妬や不条理を感じさせられて来た自分の人生の密かなライバルとも言える存在が、自分達より早死にしたという事で、それを不幸と捉える事から自分達の人生を比較し、

無理矢理「自分達は(自分達より早死にしてしまった人間よりも)幸福だったと思い込もうとする様な思考(※まぁ、これは覚醒していない多くの人間が、絶えず無意識に脳内で行っている事ですが…)には、私は愛も知性も感じられず、

そういう「愛の無いアイロニック」というものには、私は全然感動致しませんでした。

ですので私に取って今回の会は、やはり「深みや愛が不在なものには、人は感動しない」という事を再確認させて頂いた会になったのかもしれません。

今回の演劇を観て、「演劇って良いものだな~」とか、「演劇をやってみたい!」と思われた方が、果たして何人いらっしゃるでしょうか?という事も、正直思いました。




以上が、今回の演劇を観させて頂いた私の、忌憚の無き感想でございました。
☆_(_☆_)_☆

ブラックジョークというものは、知性が無ければ生まれないものですが、それを書かれる方が「宇宙の秩序から生まれる慈愛と慈悲」や「人間というものの本質」というものをどれだけ深く理解しているかで、同じ「ブラック」でも、観客に届くものが変わって来る様に私は思います。

(※今回の舞台を非常に楽しみにされていた方達でも、見終わった後に言い様のないどんよりとした疲れを感じたという方は多いのではないでしょうかと私は思います)

反対に、もし作り手がそういうものを理解できていなくても、その作品の根底に流れているものが宇宙の秩序に沿ったものであれば、受け取る側の心に届くという現象も起きるのですね。(※そういうものでしたら、受け取り側が自分の思いをそこに乗っけたり、気付きに繋がる事ができるからです)
( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡



演劇に限らず、人であっても何かを表現する作品であっても、そこに本物の慈愛と慈悲が存在し、加えてそれを発信する者の情熱というエネルギーの息吹が感じられるものは、飽きられるという事がありません。

よっぽど捻くれていて歪んだ者でない限り、人間というものは本物の慈愛と慈悲が存在するものを心地好いと感じたり惹かれたりする動物であり、それが私達の本質なのです。

この世には「波動の重さ・軽さ」というものが存在しますが、愛が不在の時は波動は暗くて重く、慈愛と慈悲が存在する時は明るく軽い波動が放たれるものですので、

どの様なもの(※それが例え皮肉やブラックジョークを基盤に表現されたものや、質を問われる喜劇)であっても、それが私に取ってのバロメーターになります。
(^^✿

そして、今まで私達が無知故に無意識に放って来た"重たい波動"で疲弊し切っている、この過渡期の地球に今最も必要とされているものは、「明るく軽い波動」だという事も私は感じているのです。
( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡

 

 

 

 

 

私の好きな曲の一つに「The Rose」という名曲があります。

(※「ローズ」(原題:The Rose)は、アメリカ映画『ローズ』(1979年11月公開)の主題歌。同作に主演したベット・ミドラーが歌い、1980年にはシングルとして全米3位、『ビルボード』誌のアダルト・コンテンポラリー・チャートでは1位のヒットを記録した名曲で、多くのアーティストによってカヴァーされている)

 

この歌の根底には、私達人間が生きる指針(※人生というものへの深い慈愛と慈悲=宇宙の秩序)が流れているからです。
( ・・) ~ ♡



宇宙の秩序に沿う資質や才能というものは、私達が生きる上で一つの基準にしている、今世のみで考える"肉体の年齢"から来るものではないので、

この世での"肉体の年齢"だけを基準にされて人を見る方達は、その間違った先入観から見落としてしまいがちな事でもあるのですが、

人の心を感動させる事ができるのは、前世からの長年の精進・努力という"徳"から積み上げられた種を持つ"魂の年齢が高い存在"なのです。(※ですから、若い方達の中にもそういう種(※才能・資質)を持たれた方達はいるのです)

この世には神童とか天才と言われる人間がいる様に、「才能と肉体年齢は関係ない」と捉えられるのも、そういう真理から来ています。

(※但し、必ずしも才能と人格が一致しないという側面を持つのも、人間という者がそれぞれ成長する為に与えられる過程の複雑さと面白さでもありますね~♫ 与えられた才能を何にどう使うかで、徳・不徳になるかは変化致します故…) 

つまり「数え切れない前世で、徳(※正しい努力=宇宙の秩序に沿った精進)を積んだ存在=魂レベルの高い人」が即ち「"格"を持った存在」に成る得るという真理です。

そういう特質・資質を含んだものは、「大宇宙の中の小宇宙」という"調和の在る完璧な一つの世界(種)"が内包されているので、観客の心を高揚させるので飽きるという事がなく、

故に、何度繰り返し観ても聴いても人々の心に残って行く様な「魅力的な人間が創造する上質な作品」に成るのだと私は思いますし、

反対に、この宇宙の法則を理解されていない方が生み出す作品というものは、作品の中に最初から最後までその作品の中に貫くべき"一つの芯"や"一本の筋"というものから生まれる「格」が欠如している為に、

表面上はそれなりに「賢く見せる」或いは「作者が何かを知っている様に装う」事から「何か含みを持たせた様に観客に思わせる」という様な小手先の小細工ができたとしても、

そういう作品はどこか曖昧で未消化故に、説得力が感じられない=感動まで至らないモヤモヤとした中途半端な作品に成ってしまうのだろうと思いますし、

同じブラックジョークでも、作者や演出家が"人間の本質"というものをどう見ているかで、観客に伝わる波動というものは全く違ったものになるのだと私は思います。
☆_(_☆_)_☆

 

 
 
 
 
以下のランキングに参加しております♪
応援して下さると嬉しいです♡ (*^^*)