手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

詩吟は保存芸能になるかもしれない

2018-05-19 19:01:58 | 詩吟関係
  詩吟の愛好者が激減している。私の詩吟の教室も一時期は三教場45人の会員まで増えたことがあった。これがピークでその後、30名台で暫く推移したが、20名を切るようになり教室も一つ減らしてきていたが、今年からは平和教場を独立してもらい、手稲だけになった。会員も8名になっている。これから会員が増加する予想は全く立たない。私の会の所属している北詩連札幌西支部も今年は前年比50名減となったといいます。団塊の世代あたりが世代の分れ目のように感じますが、新しい世代の方には詩吟の詩文は面白いとか興味が持てるとかというものでなくなっている。これは歌の世界での演歌とポップスの違いみたいな違いかもしれない。私は演歌大好きですがポップスは歌のように思えないし、歌として歌ってみようとも思わない。若い人にとって詩吟は演歌以上に遠いものになっているのだと思う。

 詩吟の詩文は古いものが多い。中国のものは唐・宗時代のものが多く、日本のものでは維新から明治にかけてのものが多い。また日本を見ると新しい漢詩作者が出てきていない。一時漢詩を作ることが盛んになったことがあった。当時は詩吟も盛んに時で、時流に乗るようにして多くの方が漢詩を作っておられた。しかし、漢詩の作法を守って作るという・・・漢詩の定型詩(絶句・律詩)を驚くことに当時の平仄法を守って作るというのです。中国ても作られなくなっている定型詩を日本人が作る。これは無理な話で、私などが見ても、ひどい!!といえるような詩を随分見てきている。しかし、日本でも松口月城や佐々木岳甫さんの詩だと現在も素晴らしいと思って吟じたりできますが、今、新しい漢詩の作詞家が出てきていると聞いていない。維新の志士たちの詩を今の若い方に勧めても、ポップスに染まったような方には一顧だにされないでしょう。それかといって、詩吟にバラードのようなものを要求しても無理だ。漢詩でなくても詩吟はできるけれど、詩の内容は限定されるでしょう。最近歌謡吟がかなり出ているけれど、漢詩は古いもので、やっぱり多くの方が好んで歌うというには遠い。詩吟をやっているとか、心得のある方はやってみようかという気持ちも起こすかもしれないけれど、普通のカオケ愛好者が飛びつくことはない。

 詩吟の行く先は現在以上に盛んになることは考えられない。次第に数少ない愛好者たちによって保存されてゆく保存芸能になる運命なのかもしれない。
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