玉川上水開削(1653年)の137年後の1791年に、幕府普請奉行上水方石野遠江守広通により、 江戸上水の幕府公式記録(主として、神田上水、玉川上水の建設記録)として作成されたという「上水記」が、文化の日を挟んで公開展示されています。 1年に一度ということです。 全10巻あるうち2巻目は羽村の取水口付近の原色図で、長さが3mくらいある立派なものです。 写真撮影禁止でしたが、係員によればインタネットでダウンロードできるということでした。 国立公文書館のデジタルアーカイブというサイトで上水記で検索すると全10巻が出てきました。 というのは私の早とちりでした。 水道歴史館で借りた野中和夫編「江戸の水道」という本によれば、上水記は3部作られ、1部は将軍に献上、1部は老中筆頭松平定信に進呈、1部は幕府普請方上水方の役所に納置されたそうです。 国立公文書館が所蔵しているのものは将軍に献上されたもので、しかし3巻と10巻がなく木箱もないということです。 もう一度デジタルアーカイブを検索したら、確かに3巻と10巻が出ていませんでした。 水道歴史館にあるのは、幕府普請方上水方(現在で言えば建設局兼水道局、つまり現在の水道局の前身)にあったもので、木箱と10巻全部が展示されていました。

  ↓1巻表紙
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 ↓玉川上水水元絵図並諸枠図(2巻が広げられて展示 長さ3mくらい) その中の羽村にある取水口付近の絵図
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  ↓「諸枠図」の枠とは、水を堰(せき)に誘導するため、木を組んで石の重しを入れ、川の中に沈めたものです。
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  ↓取水口構造物の配置は、羽村の同じ場所にある近代的な現在のものも基本的に同じように見えます。 つまり当時すでによく考えて作られたということではないかと思われます。
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  ↓因みに現在の取水口(Google Mapを回転させたもの)
  投渡堰(なげわたしぜき)は川の水を第一水門に誘導させるためのもので、普段は垂直の丸太で水平の木材とじゃりを止め、増水して水流が激しくなった時には破壊されるのを防ぐため、垂直の丸太を取り払い、水平の木材と砂利ごと流してしまうという江戸時代と同じ構造。小吐(こはき)水門とは、取水量が多すぎた場合や流入した土砂を多摩川へ吐き出すためのもの。
羽村取水堰航空写真回転

  ↓川の中に「玉川」、下に「羽村」という文字があります。 つまり当時から玉川という漢字があてられていたという証明です。 私の初期の疑問、なぜ「玉川」兄弟は「多摩川」兄弟ではないのかというのはこれで完全に解明されました。 「玉川」がいつから現在の河川名「多摩川」になったのかという新しい疑問が出てきましたが。 これについては、明治時代に「多摩川」に統一された様です。 川は多摩川となったものの、地名や駅名や大学名には現在も玉川となっているところがあります。
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