『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一著の中で、「泳ぐ視線、のぞく視線、折れ曲がる視線」という小見出しを掲げて、以下の様な体験談がありました。
地下鉄に乗ったときのことだ。わたしの家は地下鉄の始発駅近くにあって、いつも数えられるほどのひとしか乗り込まない。
その日乗客はたったふたり、わたしの前に老境にさしかかった女性がひとり座っているばかりであった。
発車のベルがなり、鞄から読みかけの本を取り出そうとしたとき、ひとりのOLがあわてて駆け込んできた。
そしてふうっとため息をつきながら、わたしの斜め向かいに腰をおろした。
50代半ばくらいの女性と40代の男性と20歳過ぎの女性、わたしたちの車両にはちょうど三世代の人間がひとりずつ乗り合わせた格好になる。
中間のわたしからすれば、ふたりの女性は親でも妻でも姉でも妹でも娘でもありえない存在、つまり家族のアナロジーをどうも適用しにくい存在であって、そのせいかどうか知らないが、他人として妙に気になるところがあり、かと言って彼女たちをじっと見つめるのも失礼なことなので、なにを見るともなくうつろに視線を泳がせていた。
突然、斜め前の若い女性が、バッグのなかから短い刷毛や薄っぺらいケースやら金属製のスティックのようなものを取りだし、なれた手つきで化粧をはじめた。
それは想像していた以上に入念な作業で、メイクというのはこんなに複雑なものかとあっけにとられると同時に、女性の化粧を一部始終はじめてつぶさに見ることができるという希有な時間に溺れ、気がついたときにはもう下車駅の四条だった。
(中略)けれどもおかしなことに、妙に居心地わるくなったのはわたしのほうだった。
なぜかよくわからなかった。お行儀のわるさに辟易した、というのとはちょっと違う。
(中略)彼(筆者註:この本の著者の友人)は、電車のなかで化粧を直している女性を見たときにとにかく無性に不愉快になるのは、見ているこのじぶんが彼女にとって他人どころか、猫ほどの存在ですらないという事実を平然と突きつけられるからだと解釈しているという。なるほど、と思った(以上)。
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この本の中では、自分の中に一貫した自分を探し出そうとしても答えは出てこない、園児の自分、会社員の自分、父親である自分とは、自分自身に属する性質ではなく、環境や他者によって意味づけられているに過ぎないと言います。
「電車の中で化粧する女性を前にして妙に居心地が悪くなった」とありますが、それは他者によって意識されていない自分でいることが居心地が悪い状態なのでしょう。
ここでふと思い出されたのが、自分は逆の経験をしたことがあるということです。
つまり、他者によって意識されていない状態が居心地が良いという状態です。
私は千葉県の柏市という所に住んでいるのですが、度々東京の中央区にある築地本願寺に出向くことがあります。
電車で自宅のドアから築地本願寺までの門までおよそ1時間30分。
連日所要がある場合は築地本願寺の近くのファーストキャビンというカプセルホテルに宿泊します。
「完全に密室じゃなくて居心地が悪くないのか?」と尋ねられることがありますが、通路ですれ違う人全員知らない人なので全く気になりません。
他者によって全く意識されていない状態です。
他者によって意識されながら「この様な自分でありたい」という思いがあるのかも知れません、その思いから開放されているのか妙に気負うこともありません。
そう言えば、先日のことですが、連日開催される勉強会で一緒になった方が同じホテルでの宿泊でした。
一次会、二次会と一緒に食事をし、冗談も言える間柄です。
その方が、私と同じホテルだと分かると冗談交じりに「ホテルでは一人でいたいので見つけてもそっとしてほいてください」と仰います。
カプセルホテルでは共同トイレ・共同風呂なので多くの目にさらされますが、他者から意識されていないのであれば、一人であるのと同じなんでしょう。