ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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第八章 - 合図

前回の話第七章 - 黒い恐怖

 

団地の周囲を取り囲む鉄柵も、そして外灯ポールも生い茂る草木も、まるで竜巻の只中にでもあるかのように縦横無尽に、今にもすべてが吹き飛ばされんばかりに激しく揺れ動いていた。外灯の明かりは切れかかる寸前のようにビカビカと不規則な点滅を繰り返しながら悲鳴のような光を放っている。しかしぼくの目の前で仁王のようにジッと立つラゴにも、そしてぼくの体にも、その狂ったような空気の混乱は及んでいなかった。それはおそらくラゴが言っていた、ぼくたちの周囲に張られた膜というものに関係しているのかもしれない。

 

何とか正気を取り戻しつつあったぼくが真っ先に目を向けた祖父の姿は、今さっき地面に叩きつけられた場所から忽然と消えていた。

 

祖父に付き添う尼僧も同じく消え去っていた。ぼくの周囲の目の届く範囲には、二人の姿はまったく見当たらない。

 

すると突然、鉄柵のひとつに括り付けられていた「立入禁止」と書かれた身の丈ほどの看板が不自然な軌跡を描きラゴの方に向かって吹き飛んできた。それは明らかに彼女に放たれた悪意だと感じ取れるものだった。ぼくは思わず彼女に声をあげて駆け寄ろうと、大きく一歩前に足を踏み出しかける。

 

「動くな。」

 

頭の中に響き渡ったのは、口調自体は穏やかだが地響きに似た怒号のような猿神の声だった。ぼくは一歩足を踏み出した状態で体を硬直させた。

 

巨大な中華包丁のような看板が唸りをあげるスピードでラゴの頭部めがけて激突すると思ったその瞬間、ラゴはその看板を避けることも体を動かすこともほとんどなく、赤子の手をひねるようにでもして左手の甲でそれを払い落とし地面に叩きつけた。看板は土埃をあげながらしばらく地面を滑った後、再び混沌たる嵐に巻き込まれて団地脇にある荒れ狂う草むらに突っ込んでいった。彼女の手が直接看板に触れていたかどうかはわからなかったが、それは一人間の成し得る業には到底見えなかった。

 

ぼくとラゴのほぼ正面で忌まわしく揺れ動く巨大な黒い者が、先ほど団地に響き渡ったのと同じ凄まじい咆哮をこちらに向けて浴びせかけてきた。その時黒い者の頭部らしき場所の一部には、底の見えないような真っ黒い穴が口を開いた。そしてその轟音がぼくの鼓膜を震わせた瞬間、再び凄まじい吐き気と便意がぼくを襲ったが、いまのぼくはその衝撃にも容易くは屈しない力を得つつあった。

 

しかし次の瞬間、その音圧は目に見える空気の歪みとなってスローモーションのようにゆっくりとこちらに襲い掛かってきた。

 

ラゴはその揺れ動く空気の波が身に達する直前、咄嗟に背負っているバックパックを自分の正面に抱えなおしてドスンと地面に突き立てた。ぼくにはそのバックパックから巨大な緑色をした火柱のようなものが空に向かって立ち昇ったように見えた。

 

ラゴの目前に迫ったうねる空気の波は、そのバックパックに達すると左右二つにハッキリと分断され、そのふたつの波のうねりがさらに左右に広がりを見せながらぼくの脇を凄まじい勢いでかすめてゆく。その時ぼくの両脇を通り過ぎた空気の塊は、今まで嗅いだことのないほどの悍ましい腐臭のようなものを放っていた。そしてそのうねりには直接触れていないにも関わらず、ぼくの両腕をまるで焼け焦げでもしたのかと思うような激しい熱と痛みが襲い、実際に腕の側面には軽い火傷のようなものを負っていた。ぼくの目の前では、バックパックとラゴのスーツの袖から、黒々とした煙がわずかにあがり宙を漂っていた。

 

ーーーーーー

 

不意に周囲の空気の暴挙が一斉に止み、時が止まったかのように辺りは再び沈黙に包み込まれていた。正面の黒い者は依然として吐き気のするような悪夢の様相を呈して、ビリビリとした鋭い殺気を放ちながら蠢いてはいるが、その邪悪な冷気のような殺気には反して、今すぐこちらに向けて突き進んでくるような気配は何故か感じられなかった。一方ラゴは、最初の状態から一歩も動いていおらず、まるで地に根でもはってしまったように静かに、しかし力強く佇んで黒い者の前に立ち塞がっていた。おそらくそれは、迫りくる凶々しい闇からぼくを守るためだった。

 

「予想とはずいぶん違うじゃないかと思ってるだろうが、こんなものは軽く想定内だ。ビビって小便の一リットルでも漏らして、最後にゃ腰抜かして泣き出すかと思ってたけど、なかなかやるじゃないか。ただの小僧っこがここまで耐えられて自分の足で立っていられるなら、それだけで上出来だよ。見ての通り長話をしてる暇はないが、目の前にいるやつは、今はこれ以上あたしたちに手は出してこないだろうね、ただ甚振って遊んでやがるだけだ。下っ端にありがちなささやかで馬鹿げたプライドでね、自ら直接最終的な手を下したりはしないのさ。だから、この後の第二幕ではね、もちろんハーフ登場ってわけだ。そして、計画にほぼ変更はない、ゴールまで突っ走っとくれ。いまはそれまでのちょっとした小休止を楽しみな。それとね、念のため、あんたの爺ちゃんは無事だ、あたしの知ってるハンゾウさんはね、あんなことくらいじゃかすり傷も負いやしないよ、すでに先の幕をお楽しみ中だ、安心しな。話は以上だ。」

 

頭の中からラゴの声が消え、静まり返った団地周辺にゆっくりと慎重に目を配らせていたぼくは、団地右奥の凪いだ草の波の上に、顔の鼻から上だけを覗かせてこちらを凝視している人間の頭らしきものが外灯の明かりに薄ぼんやりと照らされていることに気が付く。今この悪夢の中にあって、真正面の巨大な黒い者以外にぼくとラゴに殺気立った視線を向けているものがいるとするなら、それがハーフであれなんであれ、ぼくらの首を引き千切ろうとして指を鳴らしているものに違いなかった。

 

「一服の休憩もくれやしないかい、おいでなすったよ。」

 

草の上の顔は視線をこちらに据えたまま音もなくものすごい速さで移動し、草むらが途切れて土の地面に変わる寸前でピタリと動きを止めたかと思うと、そこからゆっくりと滲み出すようにしてその全身の姿を現し始めた。

 

斑にシミ汚れが付着した大きな黒い布切れを涎掛けみたいに首に巻き、赤黒い何かの飛沫に塗れた上下薄ピンク色のパジャマに身を包んだ佳子ちゃんが、草むらの中から奇妙な体勢の四足になって一歩ずつ一歩ずつ、まるで肉食昆虫が獲物に忍び寄るようにしてジワジワと這い出てきた。その両腕と両足は人間のものだとは考えられないほど長く細く伸びて骨と皮だけになり、関節は変形したコブのように膨らんでおかしな方向に折り曲がっていた。まさにそれは地を這う虫の体に人間の首をすげ替えたような異様な姿だった。

 

こちらに向けられた顔の半分は叫びのような表情に歪み、もう半分は溶けたように笑っていた。

 

そして佳子ちゃんは、ぼくの方に歯をむき出して大きく口を開け、異常に長い舌を地面に擦り付けるようにして垂れ下げて、変貌してしまった聞きなれない声を上げた。

 

「べ〜べ〜、べ〜べ〜、カガリさん、べ〜、舌、ねえ、べ〜、ほら、ほらほら、べ〜、あたしの舌ナメて、こっちに来て舌ナメべ〜、はやくはやく、べ〜、あたしの舌ナメたいんでしょ、べ〜べ〜、カガリさん、あたしもカガリさんの、べ〜、舌ナメたいよ、舌ナベたいから、すぐ、べ〜、すぐそっちに行くね、我慢できなくなっちゃったから、べ〜、ナベたいよお、おまえのナベさせろよ、カガリさん、おまえのジタがにおうよ、はやくジタはやくだせよ、すぐバベてやるよ、キャハハハハッ!ギャハハッ、グエ、グゲエェッ、ジダボジィヨオ、」

 

その声は徐々に大きさと混沌を増し、最後には狂ったような笑い声から嗚咽のようなものに変わっていった。

 

ぼくの中に激しい嫌悪感と悲しみを含んだどす黒い恐怖が押し寄せた。かつて何度も言葉を交わした佳子ちゃんの顔が頭の中で膨れ上がった。ぼくは何度も何度もそれを押しつぶしたけれど、その顔が後から後から湧き上がっては膨れ上がり、ぼくの頭を埋め尽くして破裂させようとしていた。だからぼくは顔を押しつぶすことをやめなかった。そして顔を押しつぶすと、その口や鼻や耳からは、悪臭を放つ真っ黒い血のようなものが吹き出した。その顔はすべて、ぼくの知る佳子ちゃんの顔ではなく、偽物だったからだ。

 

ぼくはその恐怖を振り払うために、周囲の空気を目一杯鼻から吸い込む。

 

「あんたが獲物として捕捉されたよ、やることはひとつだ、忘れちゃいないだろうね。」

 

ぼくはその声にうなずきながら、ゆっくりと息を吐き出した。

 

「いま膜を取り去った、あっちも気付いたよ、いいね、来るよ、よーいドンっ!」

 

異形の姿に変貌した佳子ちゃんが目を見開いて両腕を振り上げ、子供がはしゃぐみたいにして奇声を上げながら、空中に飛び上がった。

 

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月白貉