忙しい日々……。
ヒマってのもねー、なんだかだよねー。
この写真、けっこうお気に入り。
アカゲラさん、瞑想中かな?
禅って、いいですよね。
好きです。
禅問答なんて、ワケがわかんなくなりますが、好きです。
10年前と今と、同じ問答をみて取り組んでみても、まったく解釈が変わっていたり。
自分の世界観によって、すべては変わり続けるんですね。
一切が変化する。
ただそれだけが不変である。
たとえば、こういう真理を携えておくと、何かあった時に迷いません。
いやいや、まだまだ先があるでしょう。
時には、こういう真理までも手放しちゃうと、完全フリー状態です。
それがたとえ真理とか法とかであったとしても、
それに囚われてしまえば不自由じゃん?
ルールなんて、いつも正しいとは限らないわけで。
写真もなんか同じですよね。
この風景にはこの機材なんて、誰が決めた?
「上手い写真」とか、誰のモノサシ?
黄金比とか、人の感覚が気持ちいい構図みたいなのがあったとして、だから?
だったりするわけですよ。
禅というか仏教かな、の、わりと基本的な感覚に、
天上天下唯我独尊みたいなのがあります。
「我」が問題ですよねー。
我をどこにかけていくか。
独尊に食いついちゃうと、我ひとりが尊いになっちゃいますよね。
これは大間違いと言っちゃっていいでしょう。
んじゃ、天上天下ぜんぶに我を当てはめていくと?
これに気づけると、ぼちぼちみたいでしょうか。
我は、独として、差別されているのではないのです。
天上も天下も、あらゆるところがもうぜんぶ我だと。
我はどこにでもいるし、どこでもあるし、誰でもあると。
この空も大地もすべてがひとつだ。
すべての存在に差がない。
一切がひとつで、そして尊く大切なのだと。
どこにどう立とうと、どこをどう撮ろうと、何をどう捉えようと、
すべてが尊くひとつだと。
写真で言えばそんな感じ?
禅は、もうひとつ「ごり押しの美学」的な面も持ちますね。
乱暴に言えば、俺がいいと思うからそれでいいのだと。
天才バカボン的でもありますか。
私はこの「ごり押し系」が嫌いです。
だって、唯我独尊が、すべてなのだと知ったら、ごり押せないもん!
特に写真でゴリゴリ来るのは、押し返ししちゃって、ポイです(笑)。
いい写真はゴリゴリ押さなくてもいい写真なのです。
それでいいのだ!
Kankan拝