禅のアカゲラ | フォトダマ

フォトダマ

写真家Kankanのブログ。伊勢神宮の電子書籍好評発売中!
Amazon Kankan と検索を!

忙しい日々……。

ヒマってのもねー、なんだかだよねー。

 

この写真、けっこうお気に入り。

 

 

 

アカゲラさん、瞑想中かな?

 

禅って、いいですよね。

好きです。

 

禅問答なんて、ワケがわかんなくなりますが、好きです。

10年前と今と、同じ問答をみて取り組んでみても、まったく解釈が変わっていたり。

自分の世界観によって、すべては変わり続けるんですね。

 

一切が変化する。

ただそれだけが不変である。

 

たとえば、こういう真理を携えておくと、何かあった時に迷いません。

 

いやいや、まだまだ先があるでしょう。

 

時には、こういう真理までも手放しちゃうと、完全フリー状態です。

 

それがたとえ真理とか法とかであったとしても、

それに囚われてしまえば不自由じゃん?

 

ルールなんて、いつも正しいとは限らないわけで。

 

 

写真もなんか同じですよね。

 

この風景にはこの機材なんて、誰が決めた?

「上手い写真」とか、誰のモノサシ?

黄金比とか、人の感覚が気持ちいい構図みたいなのがあったとして、だから?

 

だったりするわけですよ。

 

 

禅というか仏教かな、の、わりと基本的な感覚に、

天上天下唯我独尊みたいなのがあります。

 

「我」が問題ですよねー。

 

我をどこにかけていくか。

独尊に食いついちゃうと、我ひとりが尊いになっちゃいますよね。

これは大間違いと言っちゃっていいでしょう。

 

んじゃ、天上天下ぜんぶに我を当てはめていくと?

これに気づけると、ぼちぼちみたいでしょうか。

 

我は、独として、差別されているのではないのです。

 

天上も天下も、あらゆるところがもうぜんぶ我だと。

我はどこにでもいるし、どこでもあるし、誰でもあると。

 

この空も大地もすべてがひとつだ。

すべての存在に差がない。

一切がひとつで、そして尊く大切なのだと。

 

どこにどう立とうと、どこをどう撮ろうと、何をどう捉えようと、

すべてが尊くひとつだと。

 

写真で言えばそんな感じ?

 

禅は、もうひとつ「ごり押しの美学」的な面も持ちますね。

乱暴に言えば、俺がいいと思うからそれでいいのだと。

天才バカボン的でもありますか。

 

私はこの「ごり押し系」が嫌いです。

だって、唯我独尊が、すべてなのだと知ったら、ごり押せないもん!

 

特に写真でゴリゴリ来るのは、押し返ししちゃって、ポイです(笑)。

いい写真はゴリゴリ押さなくてもいい写真なのです。

それでいいのだ!

 

 

Kankan拝   

 

 


ポチッ→ にほんブログ村 写真ブログ 野鳥写真へ人気ブログランキング