初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。

 

 主観と客観

 客観についての補足

 外国人には思い遣りがガチでないという事実

 優しさ(主観的)と思いやり(客観的)

 二種類の「正しさ」

 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識

 

 ワーキングホリデーなどで日本人の若者が海外にでる事は多い。こうした若者たちの多くが現地に残る道を探したりするが、結局許可がとれず帰国するケースが多い。ここで生じる疑問は、なぜ多くの若者が日本に戻る事を嫌い、海外に残る道を望むのかである。日本は既に何度も述べてきたように、世界中のどの国よりも治安がよく、失業率は低く(仕事がある)、教育水準も高く、食事もおいしく(主観的なことだが、あくまでも多数の意見という意味で)、自然は美しく、経済力は他国の追随を許さず、科学技術力は群を抜く。であるのに、何故、日本にいると息苦しいと感じる若者や人々が多いのか。

 

 日本文化が世界でも相当特殊であることは、このブログでなんども強調してきた。そして日本文化とその他の世界を明確に分けているのは、「思い遣り」文化の有無であることも何度も述べてきた。しかしながら、実はこの思い遣り文化が、時に人々に多大なストレスを与え、人々に生きづらく感じさせているのもまた事実なのである。

 

 日本文化が「思い遣り文化」で、その他の世界が「優しさ文化」である話については、上記の過去記事を見ていただきたいが、改めて少しだけ以下の解説をお読み頂きたい。

 

 思い遣りとは、簡単に言って、他者の立場にたって物事を推し量ることである。推し量るわけであるから、それが実際に他者の気持ちと一致するとは限らないが、言葉に出さず、相手に聞かず、観察により相手の立場を想像した上で、自分がその人の立場にもしいたならと想像した上で、見返りなくその人の為のみを考えてなんらかの配慮をかけることである。優しさと違い「上から」の目線はなく、また優しさと違い他者にそれを「誇示する」こともない。思い遣りはあくまでも対等な目線から生じる他者への配慮なのである。よって、その思い遣りという配慮は終世、かけられた本人には気付かれない事もありうる。

 

 ちなみに、これは少し話がずれるが、日本が常に、その精密な技術力において他国を圧倒しているのは、別に能力に差があるからではなく、まさにこの「思い遣り」があることが理由であると筆者は分析している。細かいところまで配慮して、あらゆる角度からの視点で点検し、設計する日本の機械は、世界から見て決して真似のできない驚異の技術力なのであるが、これはまさに、目に見える範囲を超えた部分にまで配慮をしようとする思い遣りがあるからこそ為せる業なのである。

 

 しかしながら、いくら日本文化に思い遣りがあり、日本人が思い遣りをもっているからといっても、人によっては程度の差もあるし、なかなか上手に思い遣ることができない人もいる。そういう人たちは、会社や学校などで、「使えないやつ」「ダメなやつ」というレッテルを貼られて厳しく追及される。「何年やってんだ」「何度言えばわかるんだ」「なんでこんなミスするんだ」、これらの言葉は実はただ一つの言葉に集約される、それは、「お前にはなんで思い遣りという配慮がないんだ」ということである。細かいところまで配慮ができないのは、この思い遣りがないからであると判断され、思い遣りのない人間は責められるべきであるという、なんともいえない重苦しく、息苦しい空気を醸し出す。この空気に圧し潰されて自殺した日本人の数は、数えきれない。

 

 思い遣りはそれが普通に発揮されている時は問題ないし、美しくも見えるが、その程度、あるいは有無を「判断(ジャッジ)」し、他者を裁き始めると、日本人は簡単に外道に落ちる。会社のパワハラやいじめなどはまさにこの外道(畜生道)に落ちてしまった人たちの狂躁振りなのである。

 

 この重苦しい空気こそが多くの若者をして海外に逃げたがる気持ちをもたさせる。思い遣りを他人に強制して課すことで、それを理不尽に押し付けられる人々にとって、これほどの治安の良い秩序のある安定した国が、思い遣りのかけらもない外国よりも黒ずんで見えるのである。外国人には思い遣りは本当にゼロである。その辺については過去記事を参考にしていただきたいが、兎にも角にもこの思い遣りが返って日本を息苦し重苦しい国にしている側面は見逃せない。

 

 ここからは完全に筆者の主観的意見であるが、筆者は、日本人はもうすこし南米やアフリカ、中東といった非常に主観度の高い地域の人々を見習うべきだと思うのである。これらの国々に限らず、外国人は細かい事を気にしない、だからくだくだ些細なミス(書類の誤字脱字)などで他人を責めることなどあり得ない。そういう空気が、カラッとした乾いた軽い空気を生み出している。そしてその空気は、じっとりと湿って重く澱んでいる日本社会に必要な風でもある。

 

 他者への寛容さこそが、真の思い遣りであることを思い出し、些細な事で互いにいじめあい、互いに作り出す生き辛い重苦しい空気を排除できれば、日本は真に、世界の桃源郷と言える国になるであろうし、それは決して不可能な事ではないというのが、筆者の分析である。何年やっていてもミスは誰にでもあるし、何回言われても間違える事は、誰にでもあるのであるから。

 

 まずは、自分たちの文化が思い遣り文化であることを知り、その思い遣りとは一体なんなのかを、今までのように無意識に感じているだけではなく、客観的に観察し、分析する事で、くだらない苛めもなくなるし、よりおおらかな、朗らかな空気を作り出す事は、間違いなく可能なのである。

  

 今回もお読み頂き、ありがとうございます。

 


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