国際関係も人間関係も、主体が国家か個人かの違いはあるにせよ、関係という意味では同じものである。

 

 周囲を見渡して、極端にペコペコとへり下る人がちらほらといると思うが、そういう人は、相手を自分より上(年齢、肩書き、能力、性別、人種、出身地、etc)と主観的に判断すると、ものすごい勢いでへり下る。そしてこういう人は、逆に自分より下だと判断すると、打って変わって傲岸不遜な態度をとる。

 

 こういう態度は、日本では度々見受けられるが、それは以前に何度も紹介した通り、亜流としての儒教文化が日本に入り込んでいる影響である。その証拠に、そうした態度は、日本社会では一般に心地よいものとしては受け止められない。日本文化の本流は、武士道であり「もののあわれ」であることを強調したが、その精神性と儒教の上下関係精神は実はあい入れあうものではない。しかし、現代では儒教文化が、社会、特に企業では強く通っている。

 

 これは国家の態度としても実にはっきりとでる。シナや朝鮮は、まんま儒教文化圏である。「三跪九叩頭の礼」を見ればわかるが、これでもかと言わんばかりにへり下る。こういう国は、相手が自分より弱いと見れば、嵩にかかって上から潰しにかかってくるのは、上下の関係に生きる人たちの行動理論にピッタリと当てはまる。

 

 個人の関係に戻すと、上に対しても「さらっ」とした感じで対応する人は、自分より目下と思われる人に対しても普通に接するのは、実はこういう人は「横の関係」に生きているからである。つまり、先ほどいった、年齢、肩書き、能力、性別、人種、出身地、etcなどで、人間に上下をつける主観的な判断をせず、基本人間に差はない、つまり平等であることを知っている人なのである。そしてこういう人は、一般に好感を持って受け止められるのは、日本文化の本流が、実は上下関係ではなく、横の関係を基調とするものであったことの証左であるというのが筆者の分析である。しかし、現代、特に企業社会では、完全に上下の儒教的関係が幅を利かせている。

 

 補足だが、こういうと、必ず皇室に関することを指摘する人たちがいるが、天皇陛下は「上」というよりも、「無私」を体現される御存在として伝統的に尊敬されているという表現が合う。会社の無能で尊大で傲慢な中味空っぽの上司が威張り腐っているのとはまるで種類が違う御存在であるのが、天皇陛下である。並べることがそもそもおかしいのである。

 

 心理学者のアドラーがいった横の関係とは、真に人間がお互いに存在を尊重し合う関係であるが、その真逆を行く国家がシナや南北朝鮮であることを、日本はしっかりと念頭に置いた上で諸所の対処をして行くことになる。

 

 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。

 

 主観と客観

 客観についての補足

 外国人には思い遣りがガチでないという事実

 優しさ(主観的)と思いやり(客観的)

 二種類の「正しさ」

 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常

 


国際政治・外交 ブログランキングへ