徒然草紙

読書が大好きな行政書士の思索の日々

太平記2

2017-11-19 16:05:48 | 読書

 『太平記』の二巻を読みました。鎌倉幕府の滅亡から、建武の中興、足利尊氏の謀反と続き、新田義貞を中心とする宮方の反撃によって尊氏が九州へと落ち延びるまでが描かれます。

 建武の中興は、武家の利益にかなったものではありませんでした。その目指すところはあくまでも公家中心の社会の実現にありました。『太平記』には恩賞や土地の帰属をめぐる武家の不満などがいくつか登場します。実際に手を砕いて建武の中興を実現したのは武家なのですから、彼らが恩賞についても優遇されると考えたのは当然のことでしょう。しかし、結果は武家の期待とは正反対のことが行われました。恩賞は公家には厚く、武家には薄くということが公然と行われたわけです。これでは、武家の心が建武政権から離れるのは当然です。足利尊氏はそんな武家の期待をうまく取り込んでいきます。この後に始まる戦いで、尊氏が何度負けても、武士達が彼のもとに集まってくるのは、このような背景があるからなのですね。

 新田義貞には人望がなかったようです。これは彼の性格的な欠点というよりは、社交的なセンスがなかったからでしょう。短期間に鎌倉幕府を滅ぼした軍事的才能を武器に周囲に味方を作ることがうまくできなかったのです。また、同じ源氏の嫡流といっても、尊氏に比べてその地位は低く、政治的駆け引きにも通じていなかったことも彼にとってマイナスとなりました。それでも、軍事面で彼に全面的な権限が持たされていれば、その後の展開も変わったかもしれませんが、現実には戦の駆け引きなど全くわからない公家の横やりによって、箱根・竹下の大事な戦いに敗れてしまうのです。義貞は勇猛果敢であるだけではなく、戦の駆け引きにも通じた名将ですが、公家といった荷物を抱えていたためにその才能がうまく発揮されなかったのでした。
 
 さて、京都を舞台にした武家方、宮方の戦いは一進一退を繰り返します。それでも、宮方は豊島河原、打出の戦いに武家方に圧勝し、尊氏を九州へ追いやることに成功。京の都には一時的に平和が甦ります。この一連の流れの中で、尊氏は後醍醐天皇の代わりとなる天皇の擁立を画策し、そのことが後の南北朝の争いに発展していくのです。
 

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