昨日知ったんだけど、TOKIOの山口さんが問題を起こしたらしいですね。
それに対して、物凄い過剰な・・・・謝罪会見?みたいなことをやってますね。
あーいうのをやるべきって思っている人が沢山いることは、
とても、生きにくい社会になるだろうになぁって思います。
当事者以外の人間が、騒ぎ過ぎだ。
「過ちを犯すとこういうことになるぞ!」
って、まるで見せしめ。
そんなことばっかりやってるから、
「過ちを認めてしまえば自分も周りから責められる」
っていう恐怖が、誰の心にも芽生える。
だから、「認めないようにしよう、なんとか言い逃れよう」って思うんだろうに。
大なり小なり、過ちを犯さずに生きられる人なんて、いないだろうに。
誰もがお互いに、過ちを犯したらそれを責め合う社会で、
どうやって生きやすさを感じろって言うんだろう。
「周りの人から価値観を押し付けられて生きにくい」と感じている心の裏に、
自分自身も、誰かに自分の価値観を押し付けて、生きにくくさせていないだろうか。
「ごめんなさい」を、ちゃんと言えるような人を育てるには。
「ごめんなさい」を、ちゃんと受け取れる自分であることが、大切なんじゃないのかな。
少なくとも、僕は・・・・
TOKIOは詳しくないけど好きだし、山口さんも好き。
違う人間だから、その全部を好きになれるわけじゃなかろうけど、
どんなに過ちや悪いことを犯したとしても、
これまでに彼らが成してきた、素晴らしいことまでもが無くなるわけじゃない。
今回のことも、「あぁそうかぁ、山口さん、やっちゃったねぇ」以上のことは感じなかった。
昔、TOKIOの歌がすごく好きだった時の気持ちは、少しも揺らがなかった。
このニュースに、批判的な投稿をしている人は、今のところ僕の周りにはいません。
というか話題に挙げている人すらいないから、知るのが遅くなったわけで。
だから、よく分からないけど・・・・
もし、こういうニュースを聞いて、「山口さんひどい人だ!」って思うのならば。
その上で、「日常が苦しい」「生きづらい」みたいなことも感じるのであれば。
それら2つの現象は、おそらく、繋がっているから。
他人を許せない心が、自分自身をも許していない。
ただの、自作自演の「生きづらさ」なんじゃないかなぁ。
自分が許されるためには。
自分が自分らしく生きることを、
周りの人や世界に認めてもらえるようにするためには。
まず、自分が、赦すことから。
自分に関係ない他人の過ちくらい、
「ふーん」で済ませられるようにすることから。