* 箱舟、星の船 *

* 箱舟、星の船 *

生き物には、その生き物が一番呼吸のしやすい場所がある。

自分のやりたいことって何だっただろう。
本当の自分ってどんな姿だっただろう。
どんなふうに生きていたかったんだろう。

そんなふうに迷い悩む普通の人たちを、本当の場所に導いていく、舟でありたい。

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昨日知ったんだけど、TOKIOの山口さんが問題を起こしたらしいですね。
それに対して、物凄い過剰な・・・・謝罪会見?みたいなことをやってますね。
 


あーいうのをやるべきって思っている人が沢山いることは、

とても、生きにくい社会になるだろうになぁって思います。
 
当事者以外の人間が、騒ぎ過ぎだ。
 
「過ちを犯すとこういうことになるぞ!」
って、まるで見せしめ。
 
そんなことばっかりやってるから、
「過ちを認めてしまえば自分も周りから責められる」
っていう恐怖が、誰の心にも芽生える。
 
だから、「認めないようにしよう、なんとか言い逃れよう」って思うんだろうに。
 
 

 

 
大なり小なり、過ちを犯さずに生きられる人なんて、いないだろうに。
 

 

 
 
誰もがお互いに、過ちを犯したらそれを責め合う社会で、

どうやって生きやすさを感じろって言うんだろう。
 
「周りの人から価値観を押し付けられて生きにくい」と感じている心の裏に、

自分自身も、誰かに自分の価値観を押し付けて、生きにくくさせていないだろうか。
 
 
 
 

 

「ごめんなさい」を、ちゃんと言えるような人を育てるには。
 
「ごめんなさい」を、ちゃんと受け取れる自分であることが、大切なんじゃないのかな。
 
 
 
 
少なくとも、僕は・・・・
 
TOKIOは詳しくないけど好きだし、山口さんも好き。
 
違う人間だから、その全部を好きになれるわけじゃなかろうけど、

どんなに過ちや悪いことを犯したとしても、

これまでに彼らが成してきた、素晴らしいことまでもが無くなるわけじゃない。
 
今回のことも、「あぁそうかぁ、山口さん、やっちゃったねぇ」以上のことは感じなかった。
昔、TOKIOの歌がすごく好きだった時の気持ちは、少しも揺らがなかった。
 
 
 
 
このニュースに、批判的な投稿をしている人は、今のところ僕の周りにはいません。
というか話題に挙げている人すらいないから、知るのが遅くなったわけで。
 
だから、よく分からないけど・・・・
 
もし、こういうニュースを聞いて、「山口さんひどい人だ!」って思うのならば。
その上で、「日常が苦しい」「生きづらい」みたいなことも感じるのであれば。
 
それら2つの現象は、おそらく、繋がっているから。
 
他人を許せない心が、自分自身をも許していない。
 
ただの、自作自演の「生きづらさ」なんじゃないかなぁ。
 
 
 
 
自分が許されるためには。
自分が自分らしく生きることを、

周りの人や世界に認めてもらえるようにするためには。
 
 
まず、自分が、赦すことから。
 
自分に関係ない他人の過ちくらい、

「ふーん」で済ませられるようにすることから。

 

この世界は、誰にとっても、「素敵なもの」と「くだらないもの」で溢れている。


その中で、どれだけ「素敵なもの」を選んでこられるかで、幸せは決まるんじゃないかな。

 

 

 

 

「素敵」「くだらない」を、ジャッジしないでいられる人なんて、いやしない。
いるとしたら、それは『病気』です。
 
それをジャッジする「基準」は十人十色でみんな違うけれども、

「ジャッジする」という行為は、生物である限り、必ずみんながおこなっていること。
 
そもそも生き物は、

「食べられるものor食べられないもの」

というジャッジを出来なかったら、生存できないのです。
 

人間くらいに複雑な生き物になると、そこまで単純ではないにしろ、

生きていくために、色んなものを「比較」して、選ぶように本能的に作られているのです。
 
 
生存の基本が満たされている状態の人間が、

じゃあその上で何を選ぶのか。

どう比較して、どうジャッジするのかの基準はきっと、
 
「素敵」か、「くだらない」か。
 
「価値を感じる」か、「感じない」かということ。
 
 
 
 
この世界には、自分にとって、「価値を感じられないもの」だって沢山あると思う。
 
自分が知っているか知らないかの違いだけで、

色んなことが、世界では起きているんだもの。
 
ただそれを、自分が見るか見ないかは、選ぶことができる。
 
 
どんなことが起きていたとしても、

「自分にとって価値の感じられないものは見ない」と決めて生きていたら、

その人の人生は、「素敵なことしか起こらない」日々になる。
 

 
それは、「見ないフリ」なんかではないのよ。
見えてることを自覚してて視界に入れないようにするのは、

もうそれ、意識しちゃってるもの。「見てる」もの。
 
そうじゃなくて、本当に、意識にも入れるか、入れないか。
 
 
 
人間の脳は、複雑なようで単純だから、

実はこれくらいは、自分自身の意思で選べちゃうのです。
 

 

 
お店の立地コンサルをやっていると、

「人間の脳や五感が物体をどう知覚しているか」まで、

しょっちゅう言及することになります。
 
だから、よーく知ってます。
 
人間が、いかに「自分で見るものを選んでいるか」っていうこと。
 
その証拠に、

「物理的には見えるはずなのに、通行人に全然認識されないお店」

なんてものは、実は腐るほどあるのですよ。
 
 
 
人間が、ただただ、

「見えているものを見えているまんま認識する生き物」

だったら、もっと繁盛するお店は沢山あるだろうに。
 
あ、でもそれ以前に、そんな脳構造をしていたら、

生き物として生きてはいけないか(笑)
 
 
とにかく。
 
 
人は、自分で見るものは、自分で選んで見ることができる。
 
この世界に、たとえどんなものがあろうが、

視界にどんなものが入ってこようが、

それを、「見るか見ないか」は、自分で選べるのです。
 
 
 
自分にとって、価値を感じないものを、いかに見ないでいられるか。
 
それは、自分にとって価値を感じてやまない素敵なものを、

いかにいっぱい見ていられるか、っていうことでもあります。
 
脳が、価値の感じないものを知覚する余裕がなくなるくらい、

そのキャパシティを、素敵なものを知覚することで埋め尽くすことができるか。
 
 
そういう意味でもあると思うのです。
 
 
 
楽しいなぁ、嬉しいなぁ、素敵だなぁ。
 
そう感じるもので、自分の視界が溢れている人は、

きっと、それだけ素敵な人生だと思うのです。

 

 

「本音で生きる」とはどういうことかって、
 
多分、
 
「新宿から池袋に行きたいなら、山手線に乗る」
 
っていうことだと思うんだ。
 
 
勿論、埼京線だっていい。
 
なんなら、まぁ外回りの方が早く着くだろうけど、内回りに乗っちゃってもいい。
 
でも、中央線や総武線には乗っちゃダメだ。
 
どこまで行っても、池袋には辿り着かないもん。
 
ましてや、高尾行きとかダメゼッタイ。
 
 
 

 
池袋に行きたいなら、池袋に向かう電車に乗る。
 
それと、きっと同じこと。
 
 
それぞれの人生において、

ここで言う「池袋に向かう電車」っていうのが何なのかは、

本当はみんなきっと、大体分かるだろうに。
 
最短最速を目指さないんなら、とりあえず、

山手線にてきとーに乗っておけば、いつか辿り着く。
 
急いでいるなら、ちゃんと時刻表調べて、

埼京線とかも検討した方がいいかもしれない。
 
 


 
きっと、何でも、そうだと思うんだ。
 
自分らしく生きない、
本音で生きない、っていうのは、
なんか、全然違う方向に行く電車に乗っちゃうみたいなもんで。
 
 
「でも」「だって」はきっとあるだろうよ。
 
周りの目だったり、捨てられないものだったり、

そういうものに引っ張られて、

本音で生きられない言い訳を作るかもしれない。
 
ただ、そういうのは、
 
「本当は山手線に乗って帰るのに、上司に付き合わされて大江戸線乗っちゃった」
 
みたいな。
 
「緑色の電車に乗ると運気が落ちるって言われたから埼京線にも山手線にも乗れない」
 
みたいな。
(まぁその場合は丸ノ内線があるけどw)
 
 
 
そういう、ただそういう単純なことのような気がするんだ。
 
 
 
 
うっかり、池袋に止まらない電車に乗ってしまったなら。
 
ちゃんと、1回降りよう、それ。
 
そして、今どこの駅まで来たのか、確認しよう。
 
 
そこから改めて池袋に向かうなら、

どうやって行くのが良いのか、ちゃんと検索し直すんだ。
 
中央線で御茶ノ水まで来ちゃった?
そしたら、むしろそのまま神田まで行って、山手線に乗り換えよう。
 
大江戸線で光が丘まで行っちゃった?
練馬まで戻ってこられれば、西武池袋線に乗り換えられる。
 
 


 

そうやって、ちゃんと池袋に向かうこと。
 
本音を、「自分」を隠したまま抑えたままで生きてきた年月が長いほど、そりゃ時間かかるよ。
 
高尾まで行っちゃったら、戻ってくるの大変でしょ。
通勤快速とか使えば、来たときよりは早いかもしれないけど。
 
遠くまで来た分、大変になるのは当たり前。
 
 
 
 
それでも、ちゃんと池袋を目指して電車に乗れるかどうか、なんだ。
 

 

 

 

 

なお、

 

「目的地が分からない」

 

という人へ、補足説明的に。
 
 
この投稿の比喩をそのまま用いて言うなら・・・・
 
「池袋に行く理由」だよねー。
 
 
池袋に行く時、池袋に行く理由って、そもそも何ですか?
 
 
例えば、多分だけれども、ざっくり言えば次のような感じだと思う。
 
 
「あれが欲しい、買いたい」

「どこで売ってるのかな」

「調べたら池袋にお店があるらしいぞ」

「よし、池袋に行こう!」

 
みたいな。
 
 
最初から池袋を目指して向かう、という・・・・

「場所」を目指して行くというよりは、

そもそも欲しいものがあって、それを求めているんよね。
 
で、それがどこに行けば手に入るのかを調べる。

その結果、池袋って出たから、池袋に向かうわけで。
 
 
「どこに行ったらいいか分からない」
 
っていう人は、
 
「何が欲しいか分からない」
 
っていうことだと思うのですよ。
後は、まぁ、「欲しいものは分かるけれどもどこに行ったら手に入るか分からない」もあるかもしれないですけれども。
 
 
で、「何が欲しいか分からない」って人が周りにいたとしたら、普通、なんて言う?
 
 
「どっか行きたいんだけど、行きたいところないんだよね!」
 
『・・・・え、じゃあ、どこにも行かなくていいんじゃね?家にいれば?』
 
ってなるわけです。それかもしくは、
 
『とりあえず家の周り散歩してきたら?』
 
ってくらいです。
 
 
 
それと同じだと思うのです。
 
 
とりあえず、目的地が分からないなら、

どこにも行かず今のまま、

「家」にいればいいのです。動く必要なんて無い。
 
でも、どこかへ行きたい衝動だけがあるようなら・・・・
思い出せばいいんだ、何が欲しかったのか。
 
「何か買わなきゃいけなかった気がするんだけど・・・・」
って思うなら、頑張って思い出して笑
 
思い出すための脳への刺激に、

ちょっとその辺を散歩したっていいじゃない。
 

 

 

 

そういうことー。

 

 

 

 

 

自分の得意なことや秀でてる才能が分からない、
 
っていう人は、まず、
 
自分の両親をよく観察してみたらいいんじゃないかなぁ。
 
お父さんのいいところ、
お母さんのいいところ、
自分の才能はきっとそこから来てるはずだから。
 
 
 
2017年10月10日 Facebookつぶやきより
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浅い場所の気持ちよさも、
深い場所の心地よさも、
それぞれの素敵さがあり、
そこを居場所にする人たちがいる。
 
そして僕は、その両方を行き来していたい。
 
 
 
2017年10月10日 Facebookつぶやきより
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