「本音で生きる」とはどういうことかって、
多分、
「新宿から池袋に行きたいなら、山手線に乗る」
っていうことだと思うんだ。
勿論、埼京線だっていい。
なんなら、まぁ外回りの方が早く着くだろうけど、内回りに乗っちゃってもいい。
でも、中央線や総武線には乗っちゃダメだ。
どこまで行っても、池袋には辿り着かないもん。
ましてや、高尾行きとかダメゼッタイ。
池袋に行きたいなら、池袋に向かう電車に乗る。
それと、きっと同じこと。
それぞれの人生において、
ここで言う「池袋に向かう電車」っていうのが何なのかは、
本当はみんなきっと、大体分かるだろうに。
最短最速を目指さないんなら、とりあえず、
山手線にてきとーに乗っておけば、いつか辿り着く。
急いでいるなら、ちゃんと時刻表調べて、
埼京線とかも検討した方がいいかもしれない。
きっと、何でも、そうだと思うんだ。
自分らしく生きない、
本音で生きない、っていうのは、
なんか、全然違う方向に行く電車に乗っちゃうみたいなもんで。
「でも」「だって」はきっとあるだろうよ。
周りの目だったり、捨てられないものだったり、
そういうものに引っ張られて、
本音で生きられない言い訳を作るかもしれない。
ただ、そういうのは、
「本当は山手線に乗って帰るのに、上司に付き合わされて大江戸線乗っちゃった」
みたいな。
「緑色の電車に乗ると運気が落ちるって言われたから埼京線にも山手線にも乗れない」
みたいな。
(まぁその場合は丸ノ内線があるけどw)
そういう、ただそういう単純なことのような気がするんだ。
うっかり、池袋に止まらない電車に乗ってしまったなら。
ちゃんと、1回降りよう、それ。
そして、今どこの駅まで来たのか、確認しよう。
そこから改めて池袋に向かうなら、
どうやって行くのが良いのか、ちゃんと検索し直すんだ。
中央線で御茶ノ水まで来ちゃった?
そしたら、むしろそのまま神田まで行って、山手線に乗り換えよう。
大江戸線で光が丘まで行っちゃった?
練馬まで戻ってこられれば、西武池袋線に乗り換えられる。
そうやって、ちゃんと池袋に向かうこと。
本音を、「自分」を隠したまま抑えたままで生きてきた年月が長いほど、そりゃ時間かかるよ。
高尾まで行っちゃったら、戻ってくるの大変でしょ。
通勤快速とか使えば、来たときよりは早いかもしれないけど。
遠くまで来た分、大変になるのは当たり前。
それでも、ちゃんと池袋を目指して電車に乗れるかどうか、なんだ。
なお、
「目的地が分からない」
という人へ、補足説明的に。
この投稿の比喩をそのまま用いて言うなら・・・・
「池袋に行く理由」だよねー。
池袋に行く時、池袋に行く理由って、そもそも何ですか?
例えば、多分だけれども、ざっくり言えば次のような感じだと思う。
「あれが欲しい、買いたい」
↓
「どこで売ってるのかな」
↓
「調べたら池袋にお店があるらしいぞ」
↓
「よし、池袋に行こう!」
みたいな。
最初から池袋を目指して向かう、という・・・・
「場所」を目指して行くというよりは、
そもそも欲しいものがあって、それを求めているんよね。
で、それがどこに行けば手に入るのかを調べる。
その結果、池袋って出たから、池袋に向かうわけで。
「どこに行ったらいいか分からない」
っていう人は、
「何が欲しいか分からない」
っていうことだと思うのですよ。
後は、まぁ、「欲しいものは分かるけれどもどこに行ったら手に入るか分からない」もあるかもしれないですけれども。
で、「何が欲しいか分からない」って人が周りにいたとしたら、普通、なんて言う?
「どっか行きたいんだけど、行きたいところないんだよね!」
『・・・・え、じゃあ、どこにも行かなくていいんじゃね?家にいれば?』
ってなるわけです。それかもしくは、
『とりあえず家の周り散歩してきたら?』
ってくらいです。
それと同じだと思うのです。
とりあえず、目的地が分からないなら、
どこにも行かず今のまま、
「家」にいればいいのです。動く必要なんて無い。
でも、どこかへ行きたい衝動だけがあるようなら・・・・
思い出せばいいんだ、何が欲しかったのか。
「何か買わなきゃいけなかった気がするんだけど・・・・」
って思うなら、頑張って思い出して笑
思い出すための脳への刺激に、
ちょっとその辺を散歩したっていいじゃない。
そういうことー。