GWスペシャル新幹線後ろということで、
またまた過去のブログから引っ張り出してきました乙女のトキメキ
 
相模原市にある「田名向原遺跡」のまとめです↓
 
【ほぼ、記憶にないですが、再編集しています…】
約2万年前の後期旧石器時代の住居跡が発見された「田名向原遺跡」。
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まずは、その住居状遺構が保存される「田名向原遺跡公園」内へ。
 
入り口でまず目に飛び込んでくるのは、きれいに芝生が植わった谷原12号墳(円墳、復元)
 
その先には谷原14号墳(12号墳と比べると、荒れた花壇のようでした…)
 
左に進むと、縄文時代の竪穴式住居の復元があります。
ちなみに、公園中央の広場に谷原13号墳があるとのことですが、
 
まったく気づきませんでした…笑ドクロ
 
 
イメージ 2
 
さらに進むと、後期旧石器時代の住居状遺構の復元がーーヾ(@°▽°@)ノ
 
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枠からはみ出す(;^_^Aほどの大きな住居跡で、直径は10メートルほどの円形です。
円の外周には、円礫と石核(石器の素材をはがし取った石)が散らばり、その内側に炉跡が2ヶ所、柱跡が12ヶ所発見されています。この円礫は、テント状の住居を覆う皮革の下部の折り返し部分に置く錘だったのではないかという説があるようです。
 
また、写真中央の、円礫の無いヶ所部分(円礫が途切れた部分)が入り口だったのではないかと考えられています。これが住居として使われていたのなら、最古の住居跡ということになるそうです。
 
この住居状遺構に炉跡が2つあることにより、多くの人がここで生活をしていたと考えられています。また、発見された石器類が約3000点にものぼることから、ここは石器作りの工房としての機能もあったとのこと。とはいえ、3000もの石器を作ったところで、ここに住む人たちだけでは使いきれないはずなので、作った石器は流通させていた可能性があります。
 
ちなみに、石器に使われていた黒曜石の産地でもっとも多かったのが、長野県の蓼科エリア。ついで静岡県天域、神奈川県箱根、長野県和田、栃木県高原山。この時代に、すでにそんな遠くからモノが流通していたというのは、とても興味深いです。
 
縄文時代(石材を求めて遠くの集団と交流をしていた)の到来が近い、ということですねー
(・∀・)ニヤニヤ
 
 

 

さて、田名向原遺跡のすぐそばには、相模川が流れています。

 

さかのぼること2万2千~2万年前、最終氷河期という気候変動の激しい時期には、この相模川河口付近は今より海面が高かったそうです。つまり、この写真の茂みは、まだ川の中だったということですかね。
田名向原遺跡が発見された場所も、その昔は川の底でしたが、海水面の低下に伴って、人々が大地の崖側へと生活の場を移したのだそうです。
 
つまり、ここで住居を構えていた当時の人々から見た景色は、もっと川が迫ってくる感じだったんでしょうねーー(@_@)
 
 
ジャングルのような茂みに入ってみました。
尖頭器を先端にくくりつけた槍を片手に、獲物を狙う古代人が茂みを走る映像を見たせいか(学習館で見られます)、どうも想像力が働きすぎてしまい、しばらく歴史ロマンに浸っていました… 
 
水に埋まってたんですよねー、ここも…((゚m゚;)
 
 
遺跡公園の、道路を挟んですぐ目の前にあるのが「旧石器時代学習館」。
ここで田名塩田地区の遺跡について詳しく学べます。
 
入り口にはこんなにかわいいヘラジカがお出迎え!

後姿は完全にトナカイ…

 

館内は写真撮影禁止ですが、私が行った日はほぼ貸切状態でしたので、ゆっくり回れました。(数年前ですが)何箇所か映像での紹介もあり、とてもわかりやすいのでお勧めです。
 
GW、開いてるかは不明です。
 
え━━━(゚o゚〃)━━━!!!