検証シリーズ 番外編 「“放浪の殺し屋” ジプシー・ジョーを偲ぶ」 | DaIARY of A MADMAN

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毎日、ROCKを聴きながらプロレスと格闘技のことばかり考えています。


少し前のことだが、“放浪の殺し屋” と呼ばれたヒール・レスラー、ジプシー・ジョーが亡くなった。

もしかしたら、全日本プロレスなどで、椅子攻撃を背中で受けるパフォーマンスをする姿が印象に残っているファンの方が多いかもしれないが、個人的には、日本におけるジョーの全盛期は国際プロレス時代だと思っている。

扱いが“トップ” あるいは“エース外国人レスラー” だったからだけでなく、そのファイトスタイルが最も生かされたのが、国際プロレス時代であり、ラッシャー木村やマイティ井上との対戦だったと思うからだ。

私が初めてジョーを観たのは、1975~76年くらいだったか。ワールドリーグ戦の公式戦か何かでマイティ井上と大流血戦を演じ、確か両者KOとなった試合。最後は2人ともひざまずいての凄まじい殴り合いを繰り広げ、力尽きて倒れてしまったことをうっすら覚えている。

それ以外にもマッドドッグ・バションと激しい場外乱闘を繰り広げた試合や金網デスマッチでの暴れっぷりなど、当時まだ小学生だった私は度肝を抜かれたものだ。

晩年は「椅子攻撃を耐えるおっちゃん」みたいな感じだったが、それはジョーの本質を半分しか捉えていない。

無類のタフネスではあるものの、それ以外にも多くの魅力を持つジプシー・ジョーを振り返ってみたい。


1970代後半当時、国際プロレスには“流血戦上等” のヒールレスラーが多く参戦していたが、その中でもダントツに迫力があったのがジプシー・ジョーだった。

さすがにTBS時代は知らないので不勉強で申し訳ないが、私にとっての国際プロレスは、月曜日の20時に東京12チャンネル(現・テレビ東京)で放映されていた、ラッシャー木村がエースの時代ということになる。

その当時来日していた外国人レスラーの中でジョーは、キラー・トーア・カマタ、アレックス・スミルノフと並んで「私的・三大外国人レスラー」(国際プロレス編)である。

ビル・ロビンソンやジョージ・ゴーディエンコ、バーン・ガニア、マッドドッグ・バションは私が観るようになる前の常連レスラーで、「ラッシャー木村のライバル」という感じはしない。

またカール・ゴッチやドン・レオ・ジョナサン、モンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)、ブルクラ(ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー)などは「国際プロレスの」というイメージすら私の中ではない。

ディック・マードック&ダスティ・ローデスのテキサス・アウトローズやリック・フレアー、ダイナマイト・キッドらの初来日は国際プロレスなのだが、これも全日本プロレスや新日本プロレスの方が印象深いだろう(ちなみに私がリアルタイムで初来日を観られたのはキッドのみ)。

そういう意味で、私にとって「国際プロレスを代表する外国人レスラー」はジプシー・ジョーであり、キラー・トーア・カマタであり、アレックス・スミルノフやキラー・ブルックス、モンゴリアン・ストンパー、オックス・ベイカーなのである。(マイク・ジョージもいいレスラーだったが、木村と手が合ったとは言い難い)

シングル戦線だけでなく、タッグ戦線でもカマタやミスター・ヒト、ブルックスなんかと組んで盛り上げていたジョー。与えられたポジション以上の働きを必ずするところが団体から重宝された理由だろう。

以前、カマタの人柄の良さについて書いたが、彼もかなり性格がいいと推察する。それはインタビューなどをみると明らかだ。

カマタは早くに全日に転出したが、ジョーは崩壊するまで国際プロレスに殉じた数少ないトップ外国人レスラーだった。“沈みかけた船” でも、最後まで見捨てないところがジョーの真骨頂。

だからか、国際プロレスの最終シリーズ(8月9日がラストマッチ)に出場後、いったんアメリカに帰ったものの、すぐにとんぼ返りして8月後半には全日本プロレスの「サマーアクションシリーズ PART 2」に参戦している。

これは、信義を重んじる馬場さんがジョーの忠誠心を評価したんだと思う。スミルノフが新日とのダブル・ブッキングで自分の価値を測ったのとは大違いだ。


とはいえ、当初はジャンボ鶴田やミル・マスカラスのタイトルに挑戦させてもらったり、トップどころで使われたものの、次第に「ジュニアヘビー級」のカテゴリーに組み込まれてしまう。

たぶん馬場さんとシングル戦はやらせてもらっていないのではないか。大型の本格派を好む馬場さんは、ジョーやカマタの「使い勝手の良さ」は重宝したものの、それとリング上の扱いは別ということだろう。

そしていつしか“見せ場” は椅子攻撃を背中で受けることだけになってしまい、国際時代の必殺技、ダイビング・ニードロップが炸裂することも少なくなっていった。


今でこそ、金網の最上段から跳ぶのも見慣れてしまった感があるが、たぶんトップロープではなく、金網最上段から最初に跳んだのはジョーだと思う。初めて金網から舞い落ちるダイビング・ニードロップを見たときばかりは、ヒールもベビーフェイスもなく、観ている人全てが喝采をあげたものだ。

人柄は後付けだが、まずは「怖いもの知らずで破天荒」を地でいくスタイルが多くのファンから支持を得た理由だと言える。

以前にも書いたが、「レスラー仲間が認める喧嘩最強」と言われるマッドドッグ・バションが、「気持ち良く喧嘩ができる相手」と評価し、そのバションの推薦で初来日。タッグを組んだり、抗争を繰り広げたり、一躍、看板外国人レスラーとなったジョーだが、実は初来日時で42歳、全日に初参戦した時は既に48歳だった。

遅咲きの“喧嘩屋” がもし、30代の頃に日本に来ていたら、ヒールレスラーの系譜が変わっていたかもしれない。メキシコやカナダでくすぶっているうちに全盛期は過ぎ去ってしまったと考えると、とても残念だ。


全日本に出てから、馬場さん(ハーリー・レイス?)のルートでセントルイスやカンザスでトップを張ったが、ジョー自身が50歳前後で、またWWFの全米侵攻もあってNWAのテリトリーが崩壊寸前だったため、あまりいい思いをしていなかったと聞く。


晩年はW☆INGやIWAジャパンにも来ていたが、もはや「伝統芸能」の域に達していた。だって、もう60歳を過ぎていたのだ。“ヒールのケンカ屋” をやるには、さすがに無理がある。
(そう考えると、ザ・シークは本当に凄い!)


国際プロレスが発掘し、日本で大人気となったレスラーは少なくないが(世界的なスターになった選手も)、その中でも「ジプシー・ジョー」は大ヒット作品と言えるだろう。

個人的には、ラッシャー木村の最大のライバルはジョーだったと確信している。2人の闘いは、決して誰にも真似できないダイナミズムがあった。

古き良き時代の、ヒールらしいヒールレスラー。

心からご冥福を祈りたい。





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