こんにちは。
笑いと癒しの音楽クリエイター、セシリアみつよです。
『無音の調べ 433 ②』はこちらです この記事
ジョン・ケージは無音を体験しようとして入った場所で、なお音を聴いたことに強い印象を受けました。
『私が死ぬまで音があるだろう。それらの音は私の死後も続くだろう。だから音楽の将来を恐れる必要はない』
自分が生きてても死んでても、そこに音は有り続ける。
大いなる変転の微細な一部でしかない自分。
自分がいてもいなくてもいい、という意味ではなく、どれだけちっぽけな自分であろうとも、宇宙を構成する一部であることに違いはなく、その一部を除いたら完璧な宇宙は存在しない。
だからそこに自分の存在する意味があり、安心に身をゆだね、次世代に譲り渡していけるのだ。
同時に、そこには恐れもなく不安もなく、ただ均衡のとれた精神があり、そしてそれは『空』であり、『無』なのである。
…な~んて考えたりなんかしてのぅ。
実はこれは、再掲載の記事。
でも、この③はまだ書いてませんでした。
再掲載するにあたって読んでみたら、な~んとなくそういうのが浮かんだので、あそういう事か、と書きました。
卒論で作品を作るときに、ちょうど父が亡くなったので父へのレクイエムのつもりで少しずつ書いていました。
『ピアノと打楽器のためのMYSTERIOUS』といいます。
その時はまだ題名はないです。卒論提出の時に付けました。
武満徹の『弦楽のためのレクイエム』をよく聴いてた時なので、それの影響か、武満っぽい感じでした。
ほかにいろいろ何か音がないか、集中するときがありました。
お風呂に入ってる時に、手でポチャンと1滴落としました。
そのポチャン、「いい音やな」と思って、手で湯をすくってポチャポチャと落としました。それをじっと聞いて、頭の中で五線譜上に置き換えたりしました。
その五線譜に置き換えていく瞬間の聴覚への集中。
その瞬間は、自分は「ない」のです。
いつも、「これが私や」と思ってる「私」はいません。
そこにいるのは、身体もなく思考もなく、ただの聴覚器官だけ。
もし追い炊きで熱くしていってたとしても、ある程度までは気づかないと思います。
あぶないな~。
これが心頭滅却すれば火もまた涼し…という事なんかな。
そらそやな。思考も心もなかったら、熱いも寒いもないもんな。
そこには「無」しかないもんな。真理や。
結局その日は湯をピチョンピチョン落としたり、ジャバッとかしたりして色んな音を作ってたけど、結局使わなかった。
6年程上の先輩がそれを使って書いてたから。
その卒業作品、卒業演奏会でピアノをタカコ・アサヒナ、マリンバを今もずっと付き合いのある親友が、そして打楽器をアイドル(?)のK.R君のお父様(K.R君、お父さんの若い時ソックリやわ)が、してくれました。
一番最後、ドンデンバンデン、ジャカジャカ 賑やかにした後、ビブラフォンのみで静かに和音が響きます。
そして、一番最後にポ~ン…と1音で終るのですが、ビブラフォンって、結構うなりがありますやん。
それを音が途切れるまでずっと延ばしてもらって終わりですが、そのうなりが終わるまで、聴いてる人々が聞き耳を立てて緊張が生まれる…。
そして終わった時の、ホッとするようないろんな音のはじけ方、まじわり方。拍手。
『緊張と緩和』。
まぁね、私のひよっこ時代の曲なんで、ケージのような大御所と一緒に語ったらちゃんちゃらおかしいけど、『音を音として開放する』ってこういう事かなぁと思います。
ビッグ・バンも、ドカ~ンといく前は、すごい緊張をはらんでたと思うし、やっぱり二元性か。上手い事出来てますよね、この世は。
ただ考えるのは、宇宙はどこかで星は死んでるけど、どこかで星は生まれてて、循環していますが、やがてすべての死=無はくるんでしょうか
私が生きてる間はないやろけど、ずっとずっとず~っと先に、すべてが生まれない「無」は来るのかなぁ
と、平和な鳥あたまは、採譜の仕事も手を着けず空想にふけるのでした。
今日「そろそろしてや~」の催促来たよ。
明日からするあるよ。
笑いと癒しの音楽クリエイター、セシリアみつよです。
『無音の調べ 433 ②』はこちらです この記事
ジョン・ケージは無音を体験しようとして入った場所で、なお音を聴いたことに強い印象を受けました。
『私が死ぬまで音があるだろう。それらの音は私の死後も続くだろう。だから音楽の将来を恐れる必要はない』
自分が生きてても死んでても、そこに音は有り続ける。
大いなる変転の微細な一部でしかない自分。
自分がいてもいなくてもいい、という意味ではなく、どれだけちっぽけな自分であろうとも、宇宙を構成する一部であることに違いはなく、その一部を除いたら完璧な宇宙は存在しない。
だからそこに自分の存在する意味があり、安心に身をゆだね、次世代に譲り渡していけるのだ。
同時に、そこには恐れもなく不安もなく、ただ均衡のとれた精神があり、そしてそれは『空』であり、『無』なのである。
…な~んて考えたりなんかしてのぅ。
実はこれは、再掲載の記事。
でも、この③はまだ書いてませんでした。
再掲載するにあたって読んでみたら、な~んとなくそういうのが浮かんだので、あそういう事か、と書きました。
卒論で作品を作るときに、ちょうど父が亡くなったので父へのレクイエムのつもりで少しずつ書いていました。
『ピアノと打楽器のためのMYSTERIOUS』といいます。
その時はまだ題名はないです。卒論提出の時に付けました。
武満徹の『弦楽のためのレクイエム』をよく聴いてた時なので、それの影響か、武満っぽい感じでした。
ほかにいろいろ何か音がないか、集中するときがありました。
お風呂に入ってる時に、手でポチャンと1滴落としました。
そのポチャン、「いい音やな」と思って、手で湯をすくってポチャポチャと落としました。それをじっと聞いて、頭の中で五線譜上に置き換えたりしました。
その五線譜に置き換えていく瞬間の聴覚への集中。
その瞬間は、自分は「ない」のです。
いつも、「これが私や」と思ってる「私」はいません。
そこにいるのは、身体もなく思考もなく、ただの聴覚器官だけ。
もし追い炊きで熱くしていってたとしても、ある程度までは気づかないと思います。
あぶないな~。
これが心頭滅却すれば火もまた涼し…という事なんかな。
そらそやな。思考も心もなかったら、熱いも寒いもないもんな。
そこには「無」しかないもんな。真理や。
結局その日は湯をピチョンピチョン落としたり、ジャバッとかしたりして色んな音を作ってたけど、結局使わなかった。
6年程上の先輩がそれを使って書いてたから。
その卒業作品、卒業演奏会でピアノをタカコ・アサヒナ、マリンバを今もずっと付き合いのある親友が、そして打楽器をアイドル(?)のK.R君のお父様(K.R君、お父さんの若い時ソックリやわ)が、してくれました。
一番最後、ドンデンバンデン、ジャカジャカ 賑やかにした後、ビブラフォンのみで静かに和音が響きます。
そして、一番最後にポ~ン…と1音で終るのですが、ビブラフォンって、結構うなりがありますやん。
それを音が途切れるまでずっと延ばしてもらって終わりですが、そのうなりが終わるまで、聴いてる人々が聞き耳を立てて緊張が生まれる…。
そして終わった時の、ホッとするようないろんな音のはじけ方、まじわり方。拍手。
『緊張と緩和』。
まぁね、私のひよっこ時代の曲なんで、ケージのような大御所と一緒に語ったらちゃんちゃらおかしいけど、『音を音として開放する』ってこういう事かなぁと思います。
ビッグ・バンも、ドカ~ンといく前は、すごい緊張をはらんでたと思うし、やっぱり二元性か。上手い事出来てますよね、この世は。
ただ考えるのは、宇宙はどこかで星は死んでるけど、どこかで星は生まれてて、循環していますが、やがてすべての死=無はくるんでしょうか
私が生きてる間はないやろけど、ずっとずっとず~っと先に、すべてが生まれない「無」は来るのかなぁ
と、平和な鳥あたまは、採譜の仕事も手を着けず空想にふけるのでした。
今日「そろそろしてや~」の催促来たよ。
明日からするあるよ。