新庄嘉堂残日録

孫たち世代に語る建築論・デザインの本質
孫たち世代と一緒に考えたい謎に満ちた七世紀の古代史

◆森友学園と建築家

2017年03月17日 | 建築家論・建築家職能論
◆森友学園騒動が喧しい。テレビは連日、賑々しく取り扱っている。その中で、ベンガラ色に塗られた小学校の校舎が竣工寸前で「壊される?」という話が浮上している。小学校設立が不認可になれば、その校舎用地は更地にして買い戻されることになるというのだが。
これをブログ再開の最初のテーマにしてみたい。凡そ、誰も言わないことであろうがわたくしは「建築設計とはなんなんだろう?」「建築を設計するものの役割はなんなんだろう?」ということがたいへん気になるのだ。経済的合理性という観点ではなく、建築設計者の職能、ひいては建築家の職能ということについてである。竣工と同時に人為的に壊されるなどという話は姉歯事件以降、寡聞にして知らない。この森友学園の新しい校舎の設計を担当した設計者は何を考えているだろうか? よく言われるように、所詮は建築とはただの函(ハコ)なんだろうか?ただのハコなら、スクラップアンドビルドが繰り返されてもいいのかもしれないが。釈然としない。
建築とはそんなもんだろうか?

◆建築とは何か?建築家の職能とは何か?ということを考えるのに良い題材だと思う。テレビで映される校舎の映像を見るたびに、建築の本質、あるいは建築家の職能の在り方が問われているように思えてならない。言ってみれば、あの紅い校舎自身が「俺は何だ!?」と言っているように見える。世間は恐らく「ただのハコよ」と一刀両断するのだろうが。
壊されるとはどういう意味なんだろう。今までたびたび話してきたように、建築は都市形成の部材であること、建築家はその時代に、都市の歴史のほんの一端を担う役割として建築を都市に植え付ける。建築の役割はその時代を超えて、その初期の用途を超えて生きて都市の部材になって行く、そういうものだと述べてきた。だから、建築とは今の用途を超えた存在であるべきなのだが。それが今回は壊されてしまうという。壊されるということは、歴史に積み重なるような高尚な建物ではないよ、ということだろうか。設計者は声を上げないのだろうか?諦めてしまったか?あるいはハコだと自ら認めているのだろうか?設計料さえ貰えばそれで良しなのだろうか。それなら建築屋の風上にも置けないが。

◆では、建物だけは残そうよ、という建築の都市形成論に寄与するような設計ならどうだろう。「残そうよ!」という運動に結びつくためのキーは何だろうか? 用途が変わっても、活かす方法を考えようよ、となるためのキーは何だろうか?建築家に求められるもの、それはこの段になってもなお、生き続けよ!という声が上がる建築ではないのか? 壊される段階になって初めて、建築家の何者であるかがわかるのではないのだろうか。この問題は建築の保存運動にも一脈通じるものだろう。

2017/03/17

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