「今の子どは指示待ちばかり」
「今の子は自発的に考えようとしない」
「今の子は受身が多い」
こういった発言は、大人からはよく聞く言葉である。
むろん、その大人が子供の時代にも言われたセリフでもある。
確かに学校現場などで観察をしていると、今の時代の子供は受身のように感じる機会が多い。
しかし、子供たちのそれはすべてホンネだろうか。
例えば、「感想文」なるものがる。
これは学校で様々な行事や体験が行われると、お約束のように生徒に用紙が配布され、書かされるものである。
その是非は別として、この感想文を書く際に、多くの生徒は自発的な行動に出るのである。
それは、教員にとって気に入られるな内容、注意を受けないような内容を書くということだ。つまりは忖度するのである。
心にもないことを自分で考え、どうしたら状況に対し適合するか(何度も言うがいい悪いではない)、そんなことを考えて文章を組み立てる。
そうした場合、悪く言えば、おおよそその内容は「嘘」になる。
これは感想文の是非を言っているのではない。
子供が単に受身であれば、素直に思ったこと、つまりは「つまらなかった」と書くのではないだろうか。
そこには自己防衛のための知恵が働き、自発的に、さらに生徒間で相談することもなく、独自で先生受けする文面を構築するのである。
最近思うことは、学校現場でどのような手法を使ってても、そこには必ず指導者の意志が働き、生徒はその意思を忖度するということである。
それは、評定と言った成績、さらには推薦といった生徒にとっての決定的な弱味があり、生徒はもとより自発的な行動をとりずらい背景があるからだ。
この問題は悩ましい。
自分の意志で考え行動することは素晴らしいが、それが時に学校にとって「そぐわない」と判断されれば、その意志は「身勝手」「非常識」と判断され、決して容認されない。
しかし、それは時に「個性」であり、「自己の表現」であるとも十分に考えられる。
上記の感想文などは、そういう意味では「自己の主張無き自分の考え」であり、それは教育の求めるところではない。
この矛盾は、学習指導でも常についてまわり、多くの場合に学校とは生徒や保護者の需要とは一致せず、だからこそ塾は必ず必要になる。
そうした環境のなかで、現代の生徒は生きている。
そこでもし受身でいれば、それはもう生きてはいけないだろう。
いい意味で目立たぬよう、教員の気持ちを忖度し生きていくには、それこそ「自発的」に考え、「自分の意志」で行動しなければならない。
いつの時代でもそうだが、大人が思うほど子供は愚かではない。
いや、愚かかもしれないが、それは決して受身の愚かではない。
生徒とは大人が思っているよりかなりしたたかで、思っているより結構複雑で、考えられる以上に自分で考えているのである。