ぴいのの羽がすごく抜ける( ⁰⊖⁰)/もやもやりと自己解決までの道 | Pino LOVES LIFE.

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オカメインコとの生活に憧れていたオカメインコ初心者がネットの力を借りてオカメインコの子育てを始めました。

わからないことだらけですが、うちのオカメインコの"ぴいの"共々よろしくお願いいたします(・8・)

 


↑残像。



 

怖いほど抜ける。

自宅に帰って1時間ほど放鳥した後、抜けた羽を集めてみたらこんなに。

冠羽も3本抜けてる。冠羽が抜けてるのみつけたら「くるんってなっててかわいいねぇ!レアものだ!レアもの!」と思っていたのに、この1時間で3本って何事だ。

ぴいのと暮らし始めて1年半。

今まで抜けた冠羽をちゃんと見たのは1回だけ。

夫が「〇〇ちゃん!頭の羽抜けた!」と喜んで見せびらかしに来た時にみただけで、あとは見たことない。

そんなレアな羽がそんな短時間で抜けたことにちょっとびびってます。

地肌が見えたりとかはないから大丈夫…だとは思っているのですが…。

 

 

 

そして精神的不安定の話。

 


 

 

 

 

 

 

最近自死遺族の方のブログを読んでます。

本格的に終活に入ろうとして積極的に身辺整理の仕方を調べている時に何気なく目に留まったのが「自死遺族のブログ」。

 

生きる目的がわからない→自殺を考える→どうやったら被害を最小限にとどめて綺麗に死ねるかを調べるという死ぬために今生きる目的を見つけるという倒錯した状況。

 

自死遺族の方のブログを読んで、私が自殺することで周り、家族にさらに負の連鎖が起きると改めて自覚した次第です。

 

どちらにしろ生きる理由としては消極的ですけどね。

 

夫は仕事大好き…というか自分で立ち上げた会社が大好きでってそれも当たり前ですね。

自分を犠牲にしてでも会社会社っていう仕事の仕方をしていたので

「何のために仕事して、何のために会社大きくしたいの?」と聞いたら

「俺が死んだあとも会社が残り続けるし、俺の名前と俺が生きてた証を残すためにがんばってる!」

という答えでした。

 

自分が死んだ後に名前が残るっていったってその時自分死んでるし、名前が残すために今生きている自分を犠牲にするということはどういうことか理解できないと正直思いました。

今もまだ私には全然意味は理解できないのですが、とにかく夫は自分の生きた証を残したいんだと思いました。

 

会社設立して5年間、夫の名前でインターネット検索すると、夫の会社のホームページと夫が亡くなったという事故のニュース。

 

こんなはずじゃなかったよね。

 

夫の会社も「代表が亡くなりましたので会社しめます、いままでありがとうございます」という文言をトップページに書いて、こちらから連絡取れてない関係会社様が調べられるようにとホームページをそのまま置いていましたが、そろそろホームページもとじなくちゃ。

おそらくホームページ制作会社様のご厚意でサーバーなどもまだそのまま使わせていただいてるんだけど、たぶんサーバー使用料かかってるはずなんですよね。

夫がこだわってた、自分が生きた証、何よりも大事にしていたものをなくすのにとても抵抗があります。

グーグルの検索にひっかかりやすいようにとマメに書いてたブログは2014年からほぼ毎日更新されてて、ブログ一覧のページ数が170ページとかそんなのすごいページ数になってました。

亡くなる前日も真面目にブログ更新してから旅行にいったんですよね。

「あいつのブログすごかったね毎日よくそんなに書くことあるなぁって思ってた」とお仕事関係の方が仰ってたけど、結構毎日必死になって絞り出して書いてたの知ってたし、小難しいこと書きすぎて問合せのあったお客様から「先生」って呼ばれてた時もあったね。

休日にかかってきた新規の電話問合せに1時間ほど対応してて、「良いお仕事になりそう?」って聞いたら「全然おかねにならない話やったよ」って。

「全然お金にならないのにそんなに電話してたの!?」って聞いたら「いや、答えられる範囲なら答えてあげようと思って」って、こんな人なんですよ。おひとよしめ。

そんな人なのにあっけないよね。大事にしているものが少しづつなくなって、私だけは最後までちゃんと彼が生きた証を覚えていよう、残しておこうってって思ってブログ書いてるという意味もあります。

 

今までは大海原の真ん中でももうちょっと先に小さい島(希望)がところどころに見えてて、仕事っていう荷物や色々な抱えていかなきゃいけない人達を「よっしゃ任せろ!」って感じでかき集めて背負って、邪魔してくる鮫とかモンスターを蹴散らしながら「次の島まで行くぞ!」って泳いでいる、そういう感じで前向きにいれたのですが、今その希望である島がなくなって、方向もわからなくなってどこまで泳げばいいのかわからなくなって、その中で荷物が単純に3倍に増えて、背負う人も増えて、背中がいっぱいになって、手にも足にも荷物がいっぱいになって、でも完全な身内にしか助けてって言えなくて、言えないから「あ、この人まだまだ大丈夫だ」ってさらに荷物が増えてっていうスパイラル。自分が必死になって助けたい、一緒にがんばりたいと思ってる人にも横からぼこぼこに殴られてる感じで、「大丈夫なふりができてるぐらいなんだからほんとにほんとはまだまだ大丈夫なんでしょ」ってのしかかられてる感じ。

自死ブログで拝見しているとあの時こうしていればっていうお話があるけれど、最後の「助けて!」を聞いても「いやいや、まだだいじょうぶでしょ」って思いながら、後になって「ああ、あれが限界で助けを求めてた声だったのか」って気付く。

私の場合、夫に会えるから毎日仕事がんばれた。週末になれば一緒に過ごせる時間ができるから次の週末までがんばろうって思えた。

「あそこまで頑張ろう!」の目的地が消失してしまった後、永遠に終わりが見えない大海原の真ん中で溺れないようになんとかかんとか必死にもがいてます。

 

ここまで書いて気づいたんですが、荷物が重いなら荷物を他の人に一時預かってもらってもいいし、それを捨ててしまってもいいし、私が抱えなきゃと思ってた人も実は自分で泳げるのかもしれないし、荷物重くて必死にもがいて溺れそうって思うぐらいなら一旦手放して次の島が見えるまでちょっとぷかりと浮かんでみるのもいいかもしれないですね。

 

これを自己完結という。

 

悩んで抱え込んで、そしてあっさり手放すB型。

 

なんだか自己解決できたような気がします。

 

私がやらなきゃ、私が抱えなきゃというのを本気で放棄してちゃぶ台返しちゃおうかな。