如意吉祥

祀り継いで千年余にもなるという”わしらが郷の大日如来”地縁が、或いは地縁を育んだ象徴・・・に思いを馳せて

今昔

2019-11-27 11:41:37 | 日記

 

 思い出話

    

 これらの写真は島田市六合(道悦)に在る八幡神社と境内に建てられた忠魂碑です。境内の東隣りには、私も通った中学校が在りましたが、昭和61年JR六合駅が新設される際、その用地に供され現在では、駅南の広場となってしまいました。

 先の大東亜戦争では、我が六合地区でも、少なからぬ人が兵士或いは軍属として戦地へ赴き、150余名が還らぬ人となられました。この英霊たちを顕彰しようと昭和53年3月六合地区遺族会で建立したのが、鎮魂の碑であります。

 鎮魂之碑建立の趣旨書きは懐かしい。と云うのはこの時、私の父親が建設委員の一人であって、この碑文の下書きを見せられ、読んだ感想を求められたのを覚えている。昭和52年頃高校3年の時だったと思う。(繁栄を願いと書くべきだったろうし、気持ちは分かるのだが一片の令状と云う表現は適切か、夢見るという語彙の遣い方が適切か)少し添削すると以下のようになる。

 

 この碑は明治維新以来先の大戦まで数々の戦役に於てひたすら祖国の安泰と民族の恒久的繁栄を願い 一片の令状で死線を超えた戦場に赴き 青春時代の情熱を注ぎ灼熱の太陽が照りつける南海の果てに 或いは又 厳寒の北野に 飢と病魔の苦しみの中で敵軍と戦い続け 懐しい故郷の山々や 愛おしい肉親との再会を夢見つつも遂に護国の華と散られた六合地区出身戦没者の尊い御霊を御祀した鎮魂の碑であります

 私共六合遺族会でこの度この御霊を安らかに合祀奉り御遺業を御顕彰申し上げて 歳月の流れと共に薄れ行くあの悲惨な戦争の教訓を末永く後世に伝えて 二度とあの悲劇を繰り返さないため 尊い平和の象徴としてこの碑を建立することを願い広く六合地区全域に呼びかけた処 全住民の皆様より深いご理解と温い御厚志を賜り 茲に立派な鎮魂之碑が建立された次第であります

 昭和53年3月 

 記事を追加しようと設楽、消えてしまった! 大丈夫か?


地球温暖化は与太話か⁈

2019-05-09 12:04:26 | 日記
 小生元来水飲み百姓の子倅であるが、古希に達した現在では、猫の額ほどの田畑を他人に預けて窮窮としている。
 宅地の一部を家庭菜園としているのだが、今年は特に天候がおかしい。今日は令和元年5月9日だというのに、朝はうすら寒いものだから袷のジャンバーを羽織ったりしている。
 曇りがちで、日が当たらない。ぎょうさんなことを言えば「真昼の朧月夜か?」と思えるほどだ。
 とにかく野菜の苗が育たない。これは偏に日照不足と低温因るものだろう。きゅうりなど葉と葉の節が全然伸びてこない。キャベツは葉だけはそこそこ大きくなったものの結球しない。トマトは立ち枯れする有様だ。里芋など何時になったら発芽するものやら。
 それでも、ジャガイモだけはモヤシのような茎ではあるが丈だけは伸びた。今後このような天候が続けば甚大な被害が案じられる。
 ”陽光に力無し”お天道様はご病気か?。空に通常の明るさが無い。お天道様の活動が鈍ると曇りがちになり植物の光合成に支障をきたす。そういうことか。

 天明の大飢饉
 江戸時代中期、天明2年~天明8年(1782~1788)に発生した近世最大規模の飢饉。おそらく1770年頃太陽の活動が減衰してのことであろうが、天候不順と冷害により農作物の収量が激減したのに加えて、岩木山と浅間山が大噴火したという。其の火山灰が更に陽光を遮ったため、東北、東日本への被害は甚大であり数十万もの人が飢餓の中で死亡したという。飢餓で死んだ人の肉を飢餓で苦しむ人が食わざるを得なかったという地獄絵がそこに在りました。飢えた地方の人たちが都会へなだれ込み、略奪、打ちこわし等が繰り広げられたようだ。

 どうなんだろう、気温が5度も下がれば斯様な大惨事となるのだろうか。お天道様の思召すままである。

 ところで、地球温暖化二酸化炭素削減と姦しいのであるが、ある学者は、大気中の二酸化炭素の量は年々減少していると言ってませんでしたか?。

 二酸化炭素と云うよりは支那大陸界隈で質の悪い燃料を燃すときに発生する微粒子がお天道様が発する光線に無都合に干渉するのかも知れない。 

雑写画像C

2019-04-04 14:59:17 | 日記
      
 平成31年3月27日島田市遺族会で靖国神社参拝日帰りツアーに行った時の画像。
 靖国神社にお参りしたのは三年ぶりになります。こういう機会でなければなければ、昇殿参拝参拝などなかなか叶うものではない。スカイツリーも近くで初めて見ました。
 今日は、4月4日私の地域では、染井吉野がちらほら咲き始めたばかりなのに靖国神社の基準木は満開に近かった。

 とても驚いたのは、浅草寺を訪れた際、平日にも拘わらず大変な賑わいであったことと、外国人であふれていたこと、さながら人種の坩堝と云った風情でありました。更に目を奪われたのは、和装で東京の下町浅草を闊歩しているのだから、田舎の古希のぼりおのぼりさんにしてみれば、異次元の世界と云うしかない。つくづく「時代は変わった」と思い知らされました。

 これは外国人主導の「きものモダニズム」と云うべきブームなんだろう。その柄たるやケバくアザトイのであるが、外人娘たちは簡易着物なる物をそこそこ上手に着て、しぐさがことのほか和風なのが楽しい。

 正式な和装と云えば、小物類が多くて、外国人が気軽に楽しむには難が有ろう。そこで、日本人の側から、近世の小袖をベースにして、「きものモダニズム」なるものを発案し、世界中の日本好きの外国人娘たちにアピールしたらどんなもんやろ。例えば、「きものを着てオリンピックを観よう」とか。




   
 気比神社


 
 柴犬モモ3歳半


     
 蒲郡水族館 金剛寺空海像



    
 日本平パノラマ展望台



    
 天竜峡



         
 諏訪大社下社 秋宮
 


        
 諏訪大社下社 春宮



          
 諏訪大社上社 本宮




            
 諏訪大社上社 前宮 



          
 薄墨桜(岐阜県本巣市 根尾谷)
 継体天皇お手植えと云われるこの桜の古木、樹齢1500年余に及ぶという。(揖斐川の支流、根尾川の上流)

 継体天皇とは、26代日本国天皇。在位は西暦507年~531年、近江の国に生まれ高志(越)福井県に居られ天皇として迎えられたという。仲哀天皇と神功皇后の子応神天皇の五世孫とされる。この継体天皇から神代から古代となったとされる。爾後今上陛下に至るまで、その血脈は連綿と続いておられるのであります。折しも来月は、今上陛下が譲位なされ、令和元年5月1日となります。

 わがきみの千代に八千代にさざれ石のいわをとなりて苔のむすまで(古今集)
   

 

勾玉

2018-11-29 13:44:16 | 日記


 久々の投稿となります。

 勾玉造り、それは奇妙な夢(奇妙でない夢もなかろうし、所詮睡眠時のたわごとか)から始まりました。

 魏書の倭人の条を読もうと努力していた頃、奇妙な夢を見ました。・・・・・飼い犬のモモを連れて、いつもの東光寺谷川の土手を歩いていると白い小石を見つけます。なんとなく拾って歩いていると、白い貫頭衣を着た女性?に出会いました。「その石で勾玉を造りなさい」と言うのです。・・・で、作ってどうしろというのか、聞き返そうとしたら、もう姿はありませんでした。自分でも夢と自覚しつつ、変な夢だなと思いました。

 翌日、その夢の微かな記憶もあって、下を見ながら犬の散歩をしていると、五百円玉より少し大きめで、卵型の件の白い小石が落ちていました、拾ってみると、かなり風化はしているものの、ろうそくに似た感触の小石でした。
 持ち帰って、風化した表面を研いでみると、かなり光沢が出るものでありました。しかし、内部に亀裂が多く、それは、氷を水に入れたときにできる内部亀裂によく似ています。こんなものを勾玉に加工できるものやらと思いつつ、どのようにして、削り出そうかと、思案しました。

 さて、どうしたものか?。とりあえず藤枝のカインズに行って、砥石だのヤスリだの当たってみる。現在では、ダイヤモンドをコーティングしたヤスリが800円ほどで買えるので、1本購入して、例の小石を削ってみると、結構効率よく概ね勾玉の形に削り出すことが出来ました。

 次にピカピカに磨き上げるには、耐水サンドペーパー、1500番で形を整え、2000番で仕上げました。

 この胎児の目は、安価なハンドルーターに径3mmほどのダイヤモンドビットを使って開けました。

 この自作勾玉が表題部の写真です。肉眼で見る限り乳白色ですが、写真に撮ると水色になってしまいます。水色のスペクトルを吸収するのだろうか。


 田舎の妄想家マイさんコメントありがとうございます。

 で、この石は何なんだろうかと思い、いろいろ調べてみましたところ。メノウ鉱物に一種なんだろうと思います。この川の護岸工事の際、遠方から運ばれた土に混ざっていたものだと思います。というのも,私の住んでいる大井川水系には、水成岩ばかりで、メノウ鉱物はありません。

 何処でメノウ鉱物が採れるのかと思い、瀬戸川、朝比奈川、果ては安倍川の河原に行って、探してみましたが見つかりませんでした。
 メノウという鉱物、主として、石英が長い時間をかけて水に溶け、沈殿して固まったものだろうから、白砂海岸へ行けば見つかるかも知れないと思い至り御前崎海岸へ行ってみました。灯台から東側の海岸、ここは元気な兄ちゃん姉ちゃん達が真冬でも、ウエットスーツを纏ってサーフィンに興じているとこです。
 御前崎の地質は脆い泥岩でありますが、遠州灘の荒波が運んだと思われる白砂(花崗岩の砂)が堆積しています。駿河湾の内海に比べ、海岸の石ころの相は遥かに変化に富んでいる。
 浜辺を散策してみると、メノウ石らしいものが散見されます。波打ち際で、蛍光色の小石があれば拾ってみる。加工に向く大きさと品位を有する物は中々見つからない。

 御前崎や浜岡海岸のメノウ鉱物は概ね珪化木石(けいかぼくせき)といったところか。メノウ鉱物でできた木の化石ということになります。

 数個拾ってきた小石を加工したものが以下の写真です.

 

 頭でっかちで寸詰まり、デフォルメが効いているというか、穿った形の勾玉が出来上がりました。何とか利用しようと思い、ネクタイピン代わりにタイバンドとして使っています。結構珍しがられます。

 

 竹と木の珪化木石、緑の竹の繊維と木目が程よい色調で残っています。小石を研磨して穴をあけました。キーストラップぐらいにはなりますかね。

     

 私的にはこんな感じの光を良く透過する石が材料として好ましいと思います。


     

 作品に下からLEDライトを当ててみました。


 謹賀新年
 平成を惜しみながら古希を迎えるにあたり迎春のお慶びを申し上げます
 新しい一年が多幸且つ息災でありますように
 平成31年元旦



 大いなる謎とは、縄文や弥生時代の人がどのようにして径4ミリ程度の穴を瑪瑙だの翡翠などの硬い石に開けたか全く想像できません。それは古代の超技術といえましょう。現代において私などがダイヤモンドビットの錐を電動ルーターに装着して開けても、1センチ厚の瑪瑙に貫通させるのに30分程度はかかる。それも一度使えばビットは摩耗してしまう。とにかく古代人のスキルには平服してしまいます。

 まあね、最初に適当な材料に穴を開けて、しかる後勾玉の形に削り出したんでしょうが。随分と根気のいる作業だったろうと思います。


 話の彷行定まらなくて、情けないほど漫然とした文章である。昨年3月ごろ魏書東夷伝倭人の条を読もうと奮戦していたころ、冒頭で述べたような夢を見て勾玉を造ってみました。また、地元大井川水系には瑪瑙鉱物は有りませんので、東光寺谷川の堤防改修工事の際、森戸をどこから運んできたのか興味を持ったので、御前崎海岸まで出掛けたりもしました。確かに御前崎、浜岡辺りの白砂海岸では、瑪瑙鉱物が散見されます。しかし、40キロ超の距離を運搬するなど考えられません。また、この工事を手掛けた土建業者は已に廃業しているので、確かめようが有りません。

 勾玉を造ってみて感心したことは、古代人は固い石に穴を開けるノウハウを持っていた。インターネットで調べると、管錐と云う道具があったということです。はずみ車を付けた錐を糸仕掛けで回す(子供の頃、大きなボタンに紐を通して輪にし、ボタンを中央にして、紐の両端に指を入れてボタンを回す糸が撚れ上がると今度は逆向きに回るそんな原理を使ったものらしい)。構造はすこぶる簡単であるから、篠竹の管錐を作って、空洞に研磨材(水を勾玉を造って賦した御前崎の白砂でも)装填して回して試してみたいとは思うのだが、一向に腰は上がらずといったところか。


 箸墓古墳
 箸墓古墳は、奈良県桜井市b箸中にある古墳形状は前方後円墳。実際の埋葬者は明らかではないが、宮内庁により「大市墓」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の陵墓とされている。この古墳が脚光を浴びているのは、纏向遺跡内にあって、3世紀中期の築造らしいということで、件の姫巫女「卑弥呼」の墓かも知れないとの憶測が絶えないからだろう。しかし、孝霊天皇は西暦換算で紀元前290年頃のお方であるから、真相は藪の中でありますが、そのおくり名からして、邪馬台の跡目を継いだ百戦練磨の姫と云うのも勇ましい。百=桃=吉備と云う香りがする姫であります。まあ、このお方が「卑弥呼」ではないだろうが、卑弥呼の宗女「台与」である可能性は大いに有りうると思います。

 ヤマト=邪馬台=倭と云う漢字がおくり名の中に入っているのも、魏書倭人の条が書かれた頃の名残が残っているのだろう。
 倭人の条でも既に大倭(おおやまととでもいうのか)の文字が見出されます。倭という漢字が好ましくないということで和に改め大和=ヤマトとしたのが台与だったとしたら、皮肉なことです。

 倭姫命(やまとひめのみこと)
 遺族会島田支部の会長、市会議員のYS氏には感謝申し上げるのですが、昨年3月24日の伊勢参拝日帰り旅行を企画して下さり、私も有り難く参加させていただきました。大神楽拝見、御垣内参拝と初めての経験でありました。私はこの時初めて「倭姫命」を知りました。倭姫宮(やまとひめのみや)への参拝は有りませんでしたが、隣接する神宮徴古館へは入館しました。
 
 ところで、この倭姫というお方、第11代垂仁天皇の第4皇女だという。根拠が有るか無いか分かりませんが、西暦換算で、西暦元年頃のお話である。記紀での取り扱いは神代であります。皇租神天照大神を伊勢の地に祀った命である。
 不思議なのは、この倭姫は伊勢神宮創建の功労者であるにも関わらず祀られなかった。倭姫宮の設立は宇治山田市(現在の伊勢市)住民の請願によるものだという。創建は1923年(大正12)と云うから、最近できたばかりの神社である。にもかかわらず、和姫とは表記せず倭姫のままであります。ここでも亦「古代支那の呪縛」から逃れられなかったようだ。古代支那人は和人(日本人)のことをザックリ倭人と表記した。ところが、倭人にも「苔の一念」と云うかプライドが有って、倭=ヤマト(邪馬台)と主張した。だから、魏書倭人の条ではたった一度だけ「この者たちは倭を邪馬台(ヤマト)と言って譲らない奴らだ」と仮名漢字にして記して置いたのだろう。

 倭姫は神宮創建の功労者でしたが、初代斎宮と云う立場でもありました。爾後皇室から未婚の女性が神宮に差し向けられ、天照大神に御奉仕する習慣の租出もありました。従って、あくまでも奉仕する人という扱いだったのだろう。

 

魏誌烏丸鮮卑東夷伝倭人条

2018-01-18 15:01:56 | 日記
 

 倭人、帯方郡の東南大海中にこれ在り。山島に依り国邑を為す。昔、漢の時代、百余国であったとき、朝見者有り、現在、使訳が通じる所30国。
 帯方郡から倭に至るには、韓国の海岸を循って水行し南に行ったり東へ行ったりを繰り返し、倭国の北岸の地、狗弥韓国に至る。その行程7千余里。

 始めて一海を渡ること千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗(ヒコ)副官を卑奴母離(ヒナモリ)と云う。彼らの駐在する所は絶島なり。およそ周囲400里の4角形の範囲である。土地山険しく深林多し、道路は禽鹿の径の如くであり、千余戸が有り、良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に交易している。

 又、南に、翰海(カンカイ)と云う名の一海を渡ること千余里、一大国(イキコク)に至る。官を亦、卑狗(ヒコ)、副を卑奴母離(ヒナモリ)と云う。およそ周囲300里の4角形の範囲である。竹木叢林多く、3千ばかりの家と僅かな田地耕田が有るとは言え、猶、食不足であり、亦(対馬国と同様に)南北に交易して(糧として)いる。

 又、一海を渡ること千余里、末盧国に至る。4千余戸有り、山、海に浜して居る。草木が盛んに茂り、行くに、前の人が見えずといった風情である。魚鰒を捕えるを好み、水が浅かろうと深かろうと沈没して之を採る。

 東南に陸行5百里で伊都国(イトコク)に到る。その官を爾支(ニキ)と云い、副を泄謨觚(セモコ)、柄渠觚(ヘキコ)と云う。千余戸あり。王有るも幾代かに亘り、皆女王国に統属されている。帯方郡の使者が往来し、常駐する所である。

 東南に百里、奴国(ナコク)に至る。官を兕馬觚(シマコ)と云い、副を卑奴母離(ヒナモリ)と云う。2万余戸有り。東へ行くこと百里、不彌国(フミコク)に至る。官を多模(タモ)と云い、副を卑奴母離(ヒナモリ)と云う。千余家有り。

 南に、水行20日投馬国(トマコク)に至る。官を彌彌(ミミ)、副を彌彌那利(ミミナリ)と云う。5万余戸ばかりか。

 南へ、水行10日、陸行1月、邪馬台国(ヤマトコク)に至る。女王の都する所なり。官に伊支馬(イシマ)有り、次官は彌馬獲支(ミマワキ)と云う、次を奴佳鞮(ナカテ)と云う。7万余戸ばかりか。

 女王国より北については、その戸数、道のりの略載を得ることは可能であるが、その余の旁国は遠絶にして詳しくは分からずである。

 次有斯馬国、次有己百支国、次有伊邪国、次有都支国、次有彌奴国、次有好古国、次有不呼国、次有姐奴国、次有対蘇国、次有蘇奴国、次有呼巴国、次有華奴蘇奴国、次有鬼国、次有蔿吾国、次有鬼奴国、次有邪馬国、次有窮臣国、次有巴利国、次有支惟国、次有烏奴国、次有奴国

 此れ女王の境界其れ尽きる所である。

 南に、狗奴国有り、男子を王と為す。その官に狗古智卑狗(ココチヒコ)有り、女王に属さず。

 帯方郡から女王国に至るに1万2千余里なり。

 これが所謂「邪馬台国論争の根源の文面」であります。私は、そういう面に関しては、全くの素人でありまして、物言うのも憚られるのですが、これを素材に「ヤマト国が何処にあったか」などと論争するのは不毛なことだと思います。
 まあねえ、この文を読んで、思うことは、3世紀中ごろの倭人は、以外な程、文明的だったんだと驚きます。朝鮮半島の南端まで倭人の勢力が及んでいたとは、初めて知りました。当時の支那人はそう認識していたのですね。小国が散在していて、各々に統治機構が成立していた。
 この時代、対馬、壱岐の人々は、さながら海の運送業者だったようで、すでに、相当な航海術を会得していたのだろう。黒潮の分流である対馬海流がどれだけの勢いで流れているのか知るところではあませんが、それを横断するには、相当な大きさの丈夫な船とスピードが必要だろう、さしずめ8人程度の漕ぎ手で対応したのかな。

 伊都国と云う特別な国があって、そこを帯方郡からの使者がかなりの頻度で往来していたようだ。常駐する施設があったのかは定かではないが、次の不彌国までの記述はそこそこ確かなことだろう。ここまでは郡の使者も訪れることも有ったろうと思います。

 ところが、次の投馬国の事となると、珍紛漢紛、五里霧中となってしまう。
 「オマエね、南に水行20日などと、琉球か台湾か、はたまたフィリピンのことか?」「いえいえ、陳寿先生、私も実は彼の国には参ったことは御座いませんで、風聞に依って居りますんで、ハイ」「左様か、されば、帯方郡から直接船で行けば、20日を要するとしておこう」。

 邪馬台国はというと、帯方郡から南に1万2千余里ということで、郡からヤマト国に至る日数及び行程が水行10日、陸行20日と解するのが、一番素直な解釈ではないかと、この素人は、考えます。

 次に、倭人の習俗であるが、これまた奇怪なことが書かれている。

 男子は、身分の上下を問わず、皆鯨面文身(げいめんぶんしん=顔と体に入れ墨)している。

 古来より、その使者が中・国に詣でるに、皆自らを大夫と称した。

 夏后少康の子が会稽に封じられた折、断髪、文身し、以って蛟龍(こうりょう)の害を避けたという。
 今、倭の水人沈没して魚蛤を捕うを好む。文身は亦、大魚水禽を厭(う)とませる為、後には、少しばかり、飾りのためとなったようだ。諸国の文身は各々異なり、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑により差有り。

 その道里を計るに、ちょうど会稽東治の東に在り、その風俗は淫らではない。男子は皆露紒(ろけい)し、木綿を以って頭に招き、それを横幅(おうふく)に纏う。<2枚を>相連ねて結び付けて纏うも縫い合わせるということはない。
 婦人は被髪屈紒(ひはつくっけい 長髪を結び結う)している。単被の如く衣を作る。中央にあなを開け頭を貫いて之を着る。

 禾(あわ)稲、苧麻(いちび)、蚕桑(さんそう)を栽培し、紡いで細苧(さいちょ)、縑綿(けんめん)を産する。その地 牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)なし。

 兵は、矛、盾、木弓を用いる。木弓は下が短く上が長い。竹箭或いは鉄鏃或いは骨鏃その有無する所は儋耳(たんじ)、朱崖(しゅがい)と同じである。


 倭の地は温暖で夏、冬、生菜を食す。皆、徒跣(とせん=はだしで歩く)する。屋室有り、父母、兄弟臥息する処を異にする。朱丹を以ってその身体に塗る。中・国で粉を用いる如きものなり。飲食には籩豆(へんとう=竹で編んだ器、木製の器)に盛って、手食いする。
 その死においては、棺があって槨(かく=棺を入れる箱)は無し、土で封じて家をつくる。死により、十余日の停葬(ていそう=埋葬をとどめる)が開始する。この時、肉を食わず、喪主は哭泣(こっきゅう)し、他人はただ歌舞し飲酒する。埋葬後家を挙げて、水中に詣でて、澡浴する、以って、練沐(れんもく)の如し。

 中・国に詣でるに、海を渡るその行き来には、恒に一人を、頭を梳(と)かさせず、蟣蝨(きしつ=シラミ)を去らせず、衣服垢に汚させ、肉を食わせず、婦人を近づけさせず喪人の如くさせる。これを名付けて持衰(じさい)と為す。若し行く者、吉善ならば、其に、生口、財物を顧(かえりみる=労をねぎらいあたえる)。もし、疾病したり、その便が妨害されたる時はこれを殺さんと欲す、これ持衰の不謹なるが故である。

 真珠、青玉を産する。その山には丹あり。その木には抒(クヌギ)橡(トチ)樟(クス)楺(ボケ)櫪(クヌギ)橿(カシ)柘(ツゲ)楓あり。その竹には篠竹 竿竹 桃支竹有り。薑(ショウガ)橘(タチバナ)山椒(サンショウ)茗荷(ミョウガ)有るが、以って滋味と為すを知らず。猿 黒雉(クロキジ)有り。

 其の俗は、事を起こしその成り行きに言うことやする事あれば、必ず骨を灼いて卜(ボク)して、吉凶を占う。先に何を卜するかを告げる。其の辞は令亀法の如し、火坼(かたく)を視て其の吉凶を占う。
 其の会同、座、起においては男女の別なく、性来酒を嗜(この)む。
 身分の高い人に会見するは、敬するに、ただ搏手(はくしゅ=両手を床につくのかもしれない)し、以って跪拝(きはい)すべし。

 其の人、寿考(じゅこう=長命)なること百年、或いは八、九十年。其の国の俗、身分の高い人は、皆4,5婦、下戸も或いは2、3婦。婦人は淫らならず。妬忌(とき)せず。

 盗窃(とうせつ)せず。諍訟(そうしょう)少なし。其の法犯すに、軽者は其の妻子を没し、重者は其の門戸及び宗族を没す。尊卑により、相(あい)、臣服するに足る各差序有り。

 租賦を徴収し、邸閣(ていかく=高床式の邸宅・倉庫)有り。国々市有りて有無を交易す。大倭を使わして之を監ぜしむ。女王国より北は一大卒を特置して諸国を検察す。諸国は之を憚り畏れる。常に伊都国に於いて治める。国中に刺史(しし)如きが有り。王、遣使を京都(魏の都洛陽)、帯方郡、諸韓国詣ずるに、郡使、倭国皆津に臨み及びて、伝送文を捜露(そうろ)し、賜遣の物を差錯(ささつ)を得ず女王に詣ず。

 下戸、大人(身分の高い人)と道路で逢いみまえるにに逡巡して草に入る。辞を伝え事を説くに、或いは蹲(うずくま)り、或いは両手を地に拠(よ)り跪(ひざまず)き以って恭敬と為す。応対するに声を発して噫(アイ或いはイー)と言う。比するに然諾の如し。

 其の国、本亦男子を以って、王と為す。とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年にして、乃ち一女子を共立して王と為す。その名を卑弥呼(ヒミコ)という。鬼道に仕え、衆を惑わすに能(たけ)たり。年、已に長大なるも夫、壻無く、男弟有り、国を治めるを佐(たす)ける。王となってより此の方見ることある者少なし。婢千人を以って自侍す。飲食を給し、辞を伝えるに居処に出入りする男子が唯一人有り。宮室の楼観は、城柵を厳かに設け、常に人有り持兵守衛す。

 途半ばにして、些か疲れました。一服しよう。

 1784年江戸時代に博多湾志賀島で発見されたという件の金印、後漢書の中で、建武中元2年(西暦57年)後漢の洪武帝が委奴国の王に授けたものです。そこに刻印された文字「漢委奴国王」は余りにも有名でありますが、これをどう読むのが正しいのか?。教科書では「漢のワのナこくおう」と読むと教えているのですが、これは出鱈目が過ぎると思います。委=イ(イ以外の読み方はありません)、奴=ド或いはヌ或いはトと読むべきです。従って、これは「漢のイト国王」と読むべきだとだと私は思います。
 これまでに「伊都国」という特別な国が出てきますが、多分に後漢書の「委奴国」を意識したものだと思います。伊はイ以外に読み方は有りませんし、都は(みやこ)という意味です。後漢の光武帝が金印を授けた国ですから、ラベルが違います。魏の官吏は伊都国が委奴国の後昆(こうこん=末裔)と認識していたのでしょう。
 伊都国=邪馬台ではないかと錯覚させるに足る文章が書かれていて興味深い。

 その習俗に鯨面文身とは、甚だしく違和感がある。会稽と云えば、長江の河口域で、現在の杭州市から東に海を行けば倭人が居ると魏書より古い文書に書かれているのであろうが、現在の地図を辿れば屋久島、種子島、鹿児島県南部辺りだろう。この地域に鯨面文身の風習が有ったのか有るのか分かりません。植生については、広葉樹だけが記載されているが、杉、松、桧が無かったとは信じ難い。動物についても、虎や豹はいなくとも牛や馬はいただろうと思います。

 露紒(ろけい)がえらく短髪で頭皮が見える様なのか、或いは頭巾・帽子のたぐいを被っていないことを言うのか分かりません。また男子の服装についても、2枚の布を横幅を裄(ゆき)にして、タスキに掛けて紐で括っていたというのだろうか。

 死者を埋葬するに殯(もがり)に似た風習があったらしい。

 この時代、既に女王卑弥呼の独裁ともいえる統治システムがあったとは、初めて知りましたね。

 女王国の東、海を渡ること千余里、復(また)国有り、皆倭種なり。又侏儒(シュジュ)国有り、其の南に又在る有り、身長三、四尺なり。女王国を去ること4千余里、裸国、黒歯黒あり、その東南に復(ま)た有り。船行一年にして参問可なり。 
 倭地、海中洲島の上に絶在す。或いは絶え、或いは連なり、周旋するに5千余里ばかりなり。

 景初2年6月(西暦238年6がつ)倭女王、太夫難升米(ナシメ)等を郡に遣わし、天子に詣で朝献するを求むるに、太守劉夏、史将を遣わし、京都(洛陽)に送詣す。

 其の年十二月詔書  倭女王に報ずるに制詔して曰く、親魏倭王卑弥呼、帯方太子劉夏、使を遣わし汝太夫難升米、次使都市牛利(トシウリ)を送らしむ。汝献じし所の男生口四人、女生口六人、斑布二匹二丈を以って至り奉ず。汝在る所、蝓遠(ゆえん=甚だしく遠い)なりしも、乃ち遣使貢献するは是(これ)汝の忠孝なり。我、甚だ汝を哀れむ。今、汝を以って、親魏倭王と為す。金印紫綬を仮(か=任命中預け置くという意味か)す。装封して帯方太守に付して仮授す。汝種人を綏撫(すいぶ=いたわり安心させること)し、勉めて孝順を為せ。

 汝、難升米、牛利を使来せしむに、道路遠きを渉(わた)り勤労す。今、難升米を以って率善中郎将に、牛利を率善校尉と為す。銀印青綬を仮す。引見(引き入れて対面すること)労賜(えき=ねぎらう)して、還し遣わす。今、絳地交龍錦(こうちこうりゅうきん)五匹、絳地 粟  十張、倩絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝貢献する所、直々に答う。又、汝特に紺地句文錦(こんちきもんきん)三匹、細班華  五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤、皆装封し、難升米、牛利に付す。還り到りて受録し、悉(ことごと)く汝国中に人使わし以って、国家(魏国)汝を哀れむを示すべし。故に汝の好物を鄭重に賜るべし。 也

 正始元年(西暦240年)太守弓遵(キュウジュン)、建中校尉悌儁(テイシュン)等を遣わし詔書、印綬を奉ずるに倭国に詣で倭王に拝仮す。幷(ならび)に詔を齎(もたら)し、金、帛、綿、 、刀、鏡、采物を賜う。因りて、倭王使に上表し詔恩を謝す。

 其の四年、倭王復(また)太夫伊声嗜(イセキ)、掖邪狗(エヤコ)等八人を遣わし、正口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、短弓、矢を上献す。掖邪狗等、臺(魏の宮)に排し、率善中郎将の印綬を賜う。

 其の六年、倭難升米、黄幢を詔賜され、郡に付して仮授す。

 其の八年(西暦247年)、太守が王斤となる。倭王卑弥呼と狗奴国男王卑弥弓呼(ヒミキューコ)素(もと)より和さず。倭載斯烏越(サイシウエ)等を遣わし、郡に詣で相攻撃する状を説く。塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を遣わし、黄幢、詔書を齎し、難升米に拝仮するに因り、檄を為して之を告蝓す。

 卑弥呼死す、以って大きく家(=墓)を作る径百余歩なり。殉葬者百余人。

 あらためて男王立つも国中服さず。更に相誅殺(ちゅうさつ)すること当時千余人。復(また)卑弥呼の宗女、台与(トヨ)年十三を王と為すに因り、国中遂に定まる。張政等は檄を以って之に告蝓す。

 台与、倭太夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし張政等が帰還を送った。また臺(洛陽宮)に詣で、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句二枚、異文雑錦二十匹を貢す。

 ようやく「東夷伝倭人の条」を拙い日本語に置き換えることができました。
 スペースとなっている所は、私の持っている辞書では見出すことができません。
 よく分からない言葉が溢れていますが、この文中の「一大率」とは何なのだろうか?。統率という言葉があるくらいだから、一大統率軍或いは一大統率将軍と云ったとこか。
 もう一つ、大倭という訳の分からない言葉が出て来ますが、その役割は諸国の交易を監視する役目の人らしい。その任を託された人という意味なら、大委(だいい)と書くべきか?。
 「常に伊都国に於いて治む」主語の無い文章と云うのは困りものです。日本人の感覚で読めば其の主語は「女王卑弥呼」となるのでしょうが、華人の立場からすると帯方郡の役人が主語と極論する人も居るかもしれません。伝送文や賜遣の物を遅滞なく持って行ける範囲というなら、やはり女王卑弥呼は伊都国に居たのだろう。しかし、ヤマト国の戸数は7万余、人口にすれば28万人の当時としては大国を遥か遠方の伊都国に居て統治できたとでも言うのだろうか?。女王卑弥呼が都するという誰が治めていたのだろうか?。「男弟有り国を治めるを佐ける」この代理人でヤマト国本体が統治できたとでもいうのか?。大いなる疑問である。
 まあねえ、鬼道の達人に卑弥呼という女性が居て、その異能なる故に倭国連合の王として擁立されたが、その出身国はたまたまヤマト国であった。ざっとこんな話なのか?。そして、その倭国連合の都が「伊都国」ということなのだろう。
 となると、卑弥呼の墓は伊都国かその近隣にしか在り得ないだろう。

 魏国から仮授されたという卑弥呼の親魏倭王の金印、難升米の率善中郎将の銀印、都市牛利の率善校尉の銀印、掖邪狗の率善中郎将等4個も印が有るんだから、一つくらい発掘されても良さそうなものだが、魏に返還してしまったかもしれません。何しろ、あくまでも仮授なのだから。
 
 卑弥呼が死んで、争ったのは伊都国の利権だったんだろう。支那、朝鮮半島との交易の利権ということか。

 私は唯漠然と戸数5万余の投馬国は出雲地方に、戸数7万余の邪馬台国は機内に在ったんだろうと思います。

 魏の皇帝(明帝)の詔書が面白い誰かがその場で筆記したものだろうか。実に臨場感がある。牛利、牛利と特別に情がこもっている。この人、帰化した華人だったのかな。著者陳寿は「張政」を単に「張」と筆記してますしね。それにこの張政と云う人、卑弥呼亡き後の争乱をある程度仲裁したのではないでしょうか。

 この倭人の条とは、さながら「魏志伊都国の条」というべきか。この話、実に日本民族の特徴が出ている。権威者が死亡すると忽ち騒乱が起きてしまう。この場合、伊都国の交易利権だから、尚更である。敵対する者が掌握すれば干されてしまう、それは諸国王にとって死活問題である。そこで、卑弥呼の宗女を共立することで「今まで通り、仲良くやろう」と決着した。

 まあねえ、巷で、邪馬台国と騒がれいるのだが、邪馬台国なる記述はこの文中一か所だけに出てくる。「女王の都する所」とある。
しかし、女王は伊都国の大宮殿に婢を千人も侍らし、近衛兵に守備させて、あたかもアマゾネスの如く君臨した。伊都国の戸数が千余戸という中での話となれば、これは王都そのものではないのか。帯方郡の出先機関もそこに存在した。従って、邪馬台国は卑弥呼の出身国ということなんだろう。

 魏書の倭人の条に酷似したものが後漢書の倭伝にもある。私などは、後漢の方が古いのだから、魏書が後漢書のコピペなんだろうと思っていましたが、どうもそれが逆だったようだ。しかし、注目すべき文章もある。

 其の大倭王邪馬台国に居り(これは邪摩惟=ヤマイ音の訛りなりとの見解を案ずる)。この部分が書かれたのは5世紀になってからのことですが、この頃、巷ではヤマトと発音されていたのを、魏書では邪馬壱(ヤマイ)と書いていたのだから、元に戻すべしと諫めたかったのだろう。

 建武中元二年(西暦57年)倭奴国奉貢朝賀使人自称太夫倭国之極南界也光武賜以印綬。(建武中元二年倭奴国王貢を奉じて朝賀=”参朝して皇帝に新年の挨拶をすること”す。使人、太夫と自称す。倭国の極南界也。光武帝以って、印綬を賜す)。

 安帝永初元年(西暦107年)倭国王帥升等献生口百六十人願請見。(安帝永初元年倭国王帥升等生口百六十人を献じ皇帝に拝謁するを願う)。

 言うたら何やけど、邪馬台をヤマトと読めないのは、日本の歴史学会の偉い先生方だけだろう。日本語の読み方に「重箱(じゅうばこ)読みと云うのがある。重箱これを「おもばこ」「かさねばこ」或いは「じゅうかん」などと読めば「じゅうばこ」の意は全く通じない。故に、ヤマタイと読むのは日本語に馴染みません。だから、後漢書の忠告通り「ヤマト」が嫌なら、「ヤマイ」と発音すべきでしょう。

 朝賀とは、①諸臣が参朝して天子におよろこびを申し上げること。②元日に天皇が大極殿で百官の年頭の賀を受けた大礼。支那で②のような儀礼が行われていたか全く分かりませんが、若し、左様なことが行われれている処に参朝したとなれば、驚くべきことだと思います。

 西暦107年に160人もの生口を運ぶだけの大型船が有ったのか?目を疑うほどの記述であります。数船に分乗して渡ったとしても、すごいことだ。

 世界史的に見て、ユリウス暦(現在はこれを少し調整したグレゴリオ暦)の1世紀の西洋の文明の発達状況と比べても同程度ぐらいにはあったのかな。

 ところで、いつまでたっても納得出来ない「ダメな私ね~」という訳で、
 問題①世有王皆統属女王国郡使往来常所駐(世世、王有るも皆女王国に統属す。郡使往来し、常に駐する所なり)これって、伊都国は邪馬台国の一部であるが、邪馬台国は伊都国ではないということだね。少なくとも伊都国と邪馬台国は隣接していない。むしろ相当な距離があるということだろう。しかも、邪馬台国の戸数は7万程、額面通りなら、人口30万の大国であります。これだけの食を賄える所は機内以外には考えられないだろう。だから、邪馬台国には本来の王が居て、卑弥呼を伊都国の王に祀り上げることで、北九州諸国をコントロールしていた。この現実は、弥生時代のボンクラ頭より200年先を行っているのだ。
 ②一大率とは軍隊に違い無いのだろうが、畿内邪馬台国の軍隊だろう。
 ③大倭とは、やはり大邪馬台なのだろう。大陸や半島との交易物が横流しされないように、機内邪馬台が監視していた。まさかここに「大和」に先んずる表現が出てくるとは、驚かされる。

 大倭=大邪馬台=畿内邪馬台、(小)邪馬台=伊都国こういう印象ですかね。

 鉄の輸入を制する者が国の覇者となる。そういう時代が、既に、西暦元年には始まっていたんだね。

 邪馬台国論争、これって、江戸時代から延々300年の続いているらしい。卑弥呼の墓は何処?、邪馬台国の所在は?とこれを300年も飯のタネとしてきた歴史学者が存在するって不可思議極まりない。しかも彼らは、邪馬台=ヤマトとは決して読めない。まあねえ、明治政府が古事記、日本書紀を寸分違わぬ日本史としたから、皇統に纏わる歴史に異論でも唱えようものなら即不敬罪、非国民となるような危険性もあっただろうから、卑屈になって当たり前だったかもしれない。しかし戦争は敗戦という形で終わったのだから、正しい古代史を開陳してもらいたいものだ。

 今日は平成30年2月11日、皇紀2678年の紀元節であります。つまり2678年前、考古学上の年代区分で言えば縄文時代末期に神武天皇が橿原神宮で即位なされた日であります。明治5年に制定され、大東亜戦争敗戦により廃止されましたが、昭和41年に建国記念日として復活。

 神武天皇 記紀伝承上の天皇。名は神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)伝承では、高天原から降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曾孫。彦瀲武鸕 草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の代4子で、母は玉依姫。日向国の高千穂宮を出、瀬戸内海を経て紀伊国に上陸、長髄彦(ながすねひこ)らを平定して、辛酉の年(前660年)大和国畝傍の橿原宮で即位したという。日本書紀の紀年に従って、明治以降この年を紀元元年とした。畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)はその陵墓とする(広辞苑)

 現在では神武天皇は記紀伝承上の天皇という位置付けと云うことで、実在したのかを含め紀元を何故に西暦紀元前660年にする必要が有ったのか謎ですな。

 私はこの10年程、この日と正月三箇日には国旗を玄関先に掲げることにしている。又8月15日の敗戦の日には英霊に敬意をはらい半旗を掲げています。

 天照大神(あまてらすおおみかみ) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の女(むすめ)。高天原の主神。皇室の租神。大日靈貴(おおひるめのむち)とも号。日の神と仰がれ、伊勢の皇大神宮(内宮)に祀り、皇室崇敬の中心とされた。(広辞苑)

 豊受大神(とようけのおおかみ) 伊弉諾尊の孫、和久産巣日神(わくむすびのかみ)の子。食物をつかさどる神。伊勢神宮の外宮(げくう)の祭神。豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)。とゆうけのかみ。(広辞苑)

 故意か偶然か、魏書倭人条の{卑弥呼と台与」、「内宮の天照と外宮の豊受」がパラレルに連想されるのが楽しい。神代の昔に有ったようなことが、現実にも起こったと3世紀の魏書に書かれているが左様に歴史は繰り返すもんだよ。と記紀の著者は申されましたとさ。

 三年程前、神宮参拝をした折、子供の頃には我が家でも、床の間に天照大神と豊受大神の二柱が書かれた掛軸を床の間に飾っていたのを思い出して、如何ばかりのものか見ると、なんと三万円とある。これだと、「有り難過ぎて」とても手が出ませんでした。観光の土産などという感覚だから、私もお里が知れる。
 毎回のことですが、おかげ横丁へ行くと、醤油で焼いた焼うどんの店があって、とても香ばしくて美味ですな。忘れられない味ですわ。  

 最近では、邪馬台国が四国徳島に在ったという突飛な説なども出てきて、楽しいのでありますが、前方後円墳発祥の地という考証がなされていて、これもまた傾聴に値する。
 
 まあねえ、魏の皇帝は「倭国分かれて百余国」という故事に倣って、銅鏡百枚を卑弥呼に贈ったのだろう、この贈られた銅鏡百枚の行方には興味が湧きます。皇帝の指示に従い、友好国には使者を遣って配っただろうが、全てを消化できたとも思えません。この鏡は景初二年と銘された三角縁神獣鏡といわれていますが、この鏡が十枚とか二十枚単位で出土する古墳があれば、それは限りなく卑弥呼の墓の可能性がある。又卑弥呼は伊都国で没しているだろうから、機内の箸墓古墳が卑弥呼の墓などということはあり得ないと思います。
 直径80メートル程の円墳?で殉葬された婢が100人となれば、著しい特徴がある。

 九州のおへそ熊本、おへそにピタッと新幹線。この歌は、玉名女子高のブラス女子達が歌っている映像を見て初めて知りました。熊本県のゆるキャラ「くまもん」かわいいですね。玉名市は菊池川沿線に開けた所ですが、卑弥呼の天敵狗奴国の狗古智卑狗の名残が菊川だという学説が有ったりして注目もされているようである。実の所、私もそうであろうと思います。九州のおへそ熊本には、大和政権に抵抗する一大勢力が存在した。記紀によれば、景行天皇の治世(5世紀)に日本武尊(やまとたけるのみこと)が正攻法ではなく姑息な手段で従属させた熊襲勢力の一部だったのだろう。

 九州の女子高生のブラスバンドが素晴らしいのであるが、ここまでのレベルを維持するには、学校の方針、優れた音楽指導者、毎年才能ある生徒を集めること、そして何よりも、保護者の飽くなき協力なしでは不可能だろう。ここに九州人の気骨を思い知らされます。まあ、私立高校だからこそできるのかも知れないが、「私の娘を3年間預けるから好きなように使ってくれ」、これくらい肝が据わっていないとダメでしょうな。こういうことが、静岡県人にできるかといえば、恐らく無理、「女の子にそんなに遅くまでクラブ活動させて」などというクレーマーだらけだろう。

 古代においても、日本に文明を齎したのは九州の人たちだろうし、幕末に於いて、明治維新を成し遂げたのも九州人の気骨が原動力となりました。

 大東亜戦争が敗戦で終わってから72年経過した現在でありますが、甚だ疲弊した日本人の意識を変えるための「胎動」が待たれる時節であります。この局面でも九州人の気骨に期待したいと思います。

 九州のブラバン女子が素晴らしいので、魏書の女王卑弥呼について原文を読んでみようと思った次第です。女王卑弥呼の出自は北九州と思っていましたが、畿内であると魏書は暗示しているようです。

 三世紀初期には、九州から畿内に行った勢力と徳島、淡路、吉備あたりの連合国家ができていて、以西の諸国を軍事的に支配していたのが実相ではなかったかと私は感じました。


 徐福伝説

 魏書倭人条とは全く関係ない話である。確か2004年に聯想集団が米国IBMのパソコン部門を買収した頃、正に光陰矢の如し14年も前のことだ。支那の職業実習生から聞いてこの徐福伝説を初めて知りました。
 その内容は、秦の始皇の治世の時(紀元前219年)に男女の子供たち500人を含む総勢3000人の集団が、始皇から不老長寿の仙薬を求めるよう命じられた徐福と共に東方の桃源郷目指して船出したという。その3000人には土木技術者、農業技術者等が含まれていて、五穀の種をも携えていたという。100人乗れる船があったとしても30隻、その他道中に必要な食糧、水も持って行かねばならなかったであろうし、具体的な目的地が定まっていたわけでもない。しかしその様相は、さながら大移民集団といったところか。そういえば、徐福にとってこの不老長寿の仙薬探索の船出は二度目となれば、最初の目的地は済州島とあたりを付けていたのだろう。そこから更に東に航海し、運が良ければ九州北部に辿り着くだろうし、対馬海流に呑まれたとしても本州の日本海側に漂着できただろう。
 彼らが目指した所は蓬莱山(支那の伝説で、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山)、日本一の霊峰と云えば富士山。この周辺には徐福に纏わる伝承が多く残ってるという。例えば、山梨県富士吉田市福源寺には孝靈天皇の治世に秦の徐福が仙薬を求めてこの地を訪れ留まって帰らなかったという碑文が残されているという。その他、山中湖村、河口湖村にも同様の伝承がある。河口湖村の町誌によれば、徐福は紀州那智ヶ浦に上陸し、熊野三山を通って富士山った。地元の娘と結婚して帰化土民に養蚕などを教えながら遂に湖畔で果ててしまった、と観てきたようなお話になっている。
 徐福と云えば暴君秦の始皇を騙した男として人気がある。しかし、実は不老長寿の仙薬探しに名を借りた蓬莱への入植という趣が強いと思います。当然、仙薬など有りはしないから、徐福が帰国することは無かった。