バンビ・わーるど

プラダー・ウィリー症候群の息子「バンビ」を愛し、その成長を見守る母・suzuのつれづれ日記(&ときどき猫だより)

現在の課題

2024年02月17日 | 問題行動
バンビは 高等部卒業後、福祉型カレッジに通所することになり
2年間の自立訓練事業を経て
4月からはいよいよ 就労移行支援事業(2年)へと移行する。

そんな成人後のバンビについての 現在の課題はー
これが「食」ではないんだよね。

もちろん、食べたい気持ちはあるから 
油断すると ちょっと買い食いしてたりとかはあるんだけど…
まぁ なんとか許容できる範囲 というか
本人としても ”(太って)入院はしたくない”という強い気持ちがあるので
それが抑止力になっているようには感じられる。

なので、何度も書いているけど 「メンタル」「心の安定」
これが最大の課題。


あと、生活の中で 困っているのが
1つは 咀嚼音を立てること。
食事の時、くちゃくちゃ音がするのが どうにも改善できない。

これは唇とか舌、あるいは口回りの筋肉が弱く
使い方(動かし方)がなってないせい なんだよね。

小さい頃 言葉の表出が遅かったから
STに通って口腔機能訓練はしてきたんだけど
しゃべれるようにはなったけど、この問題は解決できなかった…

「お口”むー”して食べるよ」って ずっと(いまでも)声掛けしてきて
その時は自分でもはっとするのか意識するんだけど
すぐまた元に戻って、くっちゃくっちゃ、ペッタペッタ というカンジ…

将来グループホームとかで他人と生活するようになったら
絶対嫌がられるだろうし、トラブルにならないといいんだけど…


そしてもう1つが 仕度に時間がかかること
これも小さい頃から今に至るまでずっと悩まされ続けている。

いろんな要因があるんだよね。
まず 認知の問題。

例えば、はい 体育の時間終わり、着替えて となった時
周りの子はすぐ着替えに行動が移せるんだけど
バンビは 他の子が着替え始めてからやっと着替えに向けて動き出す
というカンジ。

耳からの理解が覚束ないところがあるせいか
周りを見て初めてやるべきことがインプットされるのかなぁ…

あと 持ち物の多さ。
これも認知の問題が絡むんだろうけど
バンビは あれもこれも持って歩きたい人 なんだよね。
まぁ、私自身もそういう傾向があるから あまり言えないけど
必要 ”になりそうな可能性のある” ものを ひと通り持っていたいカンジ?

例えば 私は予備のマスク1枚が常にバッグに入っているけど
バンビは それが7,8枚
汚れたり、汗をかいたりして交換したくなるから と常に持ち歩いている。
(不経済極まりない)

当然、鞄がギュウギュウになり、物の出し入れがしにくい。
全部出して、また入れ直す みたいなことをよくしていて
荷物を広げまくるので スペースをたくさん使う。(非常識なレベルで)
これも課題。

そして、手先が不器用なので その出し入れもそうだけど
着替えそのものも 人より時間がかかりがち。
  
そんな風に 時間がかかるのに、時間の見通しが甘いから
家族で出かける という時も、いつもバンビの仕度待ちでイライラさせられる。
(もちろん、事前に声掛けはしているにも関わらず…)

まだね、仕度に時間かかるから 人より先に準備を始める とかなら
100歩譲って 待ってやろうって気にもなるけど
ギリギリまでグズグズしていて 何なの? ってことになるわけですよ。

家族はまだ仕方なく我慢もするけど(それだって限界あるけど)
これが 集団の中での行動となると 他人に迷惑をかける行為だからね…

小学校の時からずーっと指導され続けてきてるし
家でも視覚支援入れたり、収納を工夫したりしてるけど
なかなか治るもんでもなく 本当に悩みの種。


そして、最後に最近強く感じるのが
これまた認知の歪みから来るんだろうけど
”理解できてない” こと。

例えば、先日も カレッジで体育館でバスケをする時間があり
終わってからの片付け・着替えが遅くて 注意をされたことがあったらしい。

家に帰ってから 泣いているので話を聞くと
「そういうことではもうやらせないよ。自由時間もできないよ。」と言われた。
先生はひどい… と怒り泣き。

でも、支援員の方に確認すると もちろんそんな言い方をするわけもなく
最後の時間を指し示し、「支度ができるように最後の自由時間を短くしなくてはいけない(自分で早めに切り上げる等)、そのためにはどうすればよいか」という趣旨の声掛けをした という話。

そりゃ、そうだよね…

その時は バンビも笑顔で”早く着替えるようにしたい” と言っていたので
趣旨を理解してもらえたものと思っていた と…

もうね、こういうことがありがちで...

わかった風な言動をしてるから大丈夫かと思ったら
ぜんぜん理解できてなかったり、間違った解釈をしていたり
で、相手の言葉の1点を捉えて
(今回も 時間を短くして → やらせない に勝手に変換されてる) 
否定された、責められた と思い込み、他はすべてシャットアウト。

自分が悪いことは知っているのに
僕は悪くない、相手が悪い・酷い と
他責的・他罰的思考に陥ってしまうんだよね。

これが すーっごく厄介。

こういう状況に陥ったら
まずは もっとやりたかったの? とか 言われてイヤだったんだね とか
責めずに否定せずに 気持ちは受けとめてやりつつ
でも 先生が伝えたかったのはこういうことだよ というのを
冷静に、平易な言葉で、繰り返し伝え続ける。

耳から聞いても理解できないから 時には紙に絵を描いたり
話の流れを図解したりしながら 目からの理解を入れる。

こうやって気持ちが落ち着き、事態を客観的に受け止められるようになるまで
そりゃー 長い時間を要する。(ほんと疲れる…)

だから最初からこういう状況にならないように
話を持っていかないとならないんだけど
まぁ、いつもいつもこっちにそんな時間的あるいは心の余裕があるわけでもなく
支援してくださる方に それを常に要求もできない…

難しい、ほんと難しいのよ。
ただこれが プラダーウィリーだから っていうことなのかどうかはわからなくて
あくまで 現状のバンビの課題として書いてみたけど。

PWSでも みんながみんなこうじゃないかもしれない
でも大なり小なり そういう傾向があるような話は耳にする。
なんていうか 発達障害にも多いよね、こういう認知の歪み的なことって…
バンビは それに知的障害ゆえの理解不足が加わるからなぁ。

でも、こういうのって 解決 は無理として
それはそれでこの子の特性として受け入れてもらって生きていくしかないわけで
それには やっぱり「人」「信頼」これに尽きるのでは と思う。

バンビにとって 私は「味方」であり、いつでも・ずっと「信頼できる人」
であることが大切。
そして、周りの支援してくださる方にも そういう関係性を作ってもうらうこと
これが最重要。
だから そういう環境を探して、見つけて、選んでいく
何なら作り出す ことが
これからのバンビと私に課せられたお題 なんだろうな と心に強く思う。

特性を抱え、困り・悩んでいるだけじゃあダメなのよ ね…

by suzu
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還暦を迎えて

2024年02月16日 | 日々の出来事
 私は37歳で結婚。超晩婚で
39歳でバンビを出産した。超高齢出産~

つまりバンビが成人したということは、私は還暦を迎えたわけです。

還暦って 昔なら子や孫に囲まれ赤いちゃんちゃんこ着てお祝いされるイメージ?
まぁ、実際 友人には孫がいる人も何人もいるしね。

でも、先日 義姉夫婦と話していて
「自分達が若い頃は60代って
 もっとおじいちゃん・おばあちゃんだと思っていたけど
 いざ自分がなってみると 中身(心)はそんなに変わりがなくて
 ただ身体だけが少しずつ衰え 若い頃と同じようにはできなくなってきた」
という話になって

あぁ、みんなそうなんだな となんだか納得してしまった。

年齢を重ねるだけ経験値が上がり それによって分別もつくことが多くなっても
精神的には”老成”とは ほど遠く
心はいつまでも なんだか未熟なまま。

ただ、身体の方は 寄る年波には逆らえず
足腰が痛んだり、老眼になったり、なかなか疲れが抜けなかったり と
衰えを感じることも多くなるんだよね。

まぁ、人生100年時代といわれる現代においては
60歳なんてまだまだこれからなんだろうけど
「健康寿命」という言葉があるように
ただ長生きすればいいってもんでもないし
今のこの生活を維持しつつ老いていく っていうのはなかなか難しい。

私の父は 知識欲が強いというか 向学心が高いというか
私はそこをとても尊敬していたのだけど
それでも 母が亡くなってからは 
もう自宅に毎日来ていたヘルパーさんも来なくなり
外に出るのは 日々の買い物と通院くらい という生活になると
まず 人としゃべる という機会がとても減ってしまったみたいで...

晩年 私は最低月1回は会いに行くようにしていたけど
(今になってみれば もっと話す機会を増やしてあげられれば と
 後悔の気持ちも強いけど)
同じことを繰り返し話すことが 増えたし
弟によるとコンロに火を付けて忘れていたりも何度かあったりしたらしい。

”ピンピンコロリ”じゃないけど
ずっと元気にシニアライフを過ごして
その日が来たら周りに迷惑かけることなくお別れする って
よっぽど意識していかないと(意識していたとしても)難しいよね…


などと なんとなく老後とかお別れの時のこととかを意識するようになる
還暦の私です。

女の50代・60代と言えば 
子育てについては もうそろそろ卒業だけど
ただ そこに親の介護とか、自分自身の体調とかが加わってくるので
なかなか ハードモードよね。

うちは オットも私も二親亡くして 介護はもうないのだけど
バンビみたいに障害のある子の子育てには ある意味終わりがないからなー。

子どもが成人しても その生活を維持するのは親がかり。
自分で考えたり、自分で準備したりするのは難しいもんね…

まぁ、子どもが健常であっても 
例えば就職とか結婚とか独立とかの課題はあるわけで
”息子がいい年して結婚の気配もない” みたいなことで悩んでいる知人もいたりする。

何に悩むかは人それぞれ なんだよなぁ…

20年前、バンビに障害があるってわかって どん底に落ちていた私に
かけてもらった友人知人の言葉で いちばん心に響いたのは
「一生、病気に無縁の人は たぶんいないよ」っていうのだったな。

健常で生まれ育っても 人間いつどんな病気やケガするかなんてわからないのよね。

最近ショックを受けたのが
昔の先輩で 若かりし頃よく飲んだり、一緒にスキーを楽しんでいた仲間が
60代前半でがんになって お酒禁止等制限の多い生活をしていること。

海外生活をしていたり すごく華やかだったから
ちょっとうらやましく思うところもあったけど
そんな人が… と思ったら なんかつらい。 
(まぁ、私自身もがんサバイバーだけど)

自分と他人と比較してうらやんだりするのは ほんと意味ないなと
改めて思ってしまった。

ぴあカフェとかで子育ての話をする時 よく言うんだけど
横軸(周り)と比べず、縦軸(時間軸)で比べる方がいいんだよね。

周りの子と比べたら、わが子にはできないことばかり と思ってつらくなるけど
1年前のわが子、5年前のわが子と比べたら…?
その子なりの成長が きっとあるはず。

私なんて バンビが私のことを「ママ」って呼べるか
この子と手をつないで歩ける日がくるか って
そんなことを思って 泣いていたんだもん。

そこから考えたら今の生活は嘘みたいにありがたい、ほんと御の字だよね。

だから、これからの人生 自分は自分。他人と比べない。
バンビや私に関わってくれる人、支えてくれる人に 日々感謝。

バンビのこと、親なきあとのことについては まだまだ課題山盛りなれど
身体を労わり、心を豊かに、生活にも潤いを持ちながら
自分の残りの人生を 楽しんで生活していきたい。

というわけで、皆さん 今後もどうぞよろしくお願いします。

by suzu 
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二十歳を祝う③

2024年01月29日 | 日々の出来事
最後のお祝いは 卒業した高等部の同窓生の会。
これは 家族も参加のお祝いの会。

卒対委員を担ってくれたママさん達を中心に企画運営をしてくれて
先生方も 当時の校長・副校長を初め
事情があって欠席の数名を除いてほとんどの先生が列席
総勢80名以上の 大規模な集いとなりました。

子ども達もクラスごとに舞台に上がり
一人ひとり 今どうしている(どこに勤めている・通っている)とか
今後の抱負等をその子なりの言葉で語る時間があり
バンビも 春からは就労支援に切り替わるので頑張りたい と
ちゃんとスピーチしていた。
 いちばん右がバンビです。

この2年でみんな その子なりに成長していたなー。
この高等部は就業技術課ではなく普通科だけど
企業就労して頑張っている子もいるし
卒業時は企業に就労したはずだけど
今は作業所だったり就労移行に通っていたりする子もいた。
なかなか働き続けるって難しいんだよね。
でも、みんなそれぞれ自分の居場所を見つけて 日々を一生懸命生きている。

バンビの1年生の時の担任の先生が
当時 バンビが作って先生に贈ったカードを わざわざ持ってきてくださって
(電車のシールがいっぱい貼ってあった w)
「今も大切にしているんですよ。」と見せてくれたのには
うるうる来てしまったよ。

思えば コロナ禍で体育祭ができない とか、修学旅行に行けない とか
いろいろ制限されることも多かった3年間だったけど
そんな中で 先生方は知恵を絞り、子ども達が落ち着いて過ごせるよう
楽しい高校生生活を過ごせるよう 心配りをしてくださっていたなぁ と
改めて感謝の気持ちでいっぱいになった。

アルコールこそなかったけれど みんなで食事をし、歓談し、写真を撮って
楽しい時間を過ごした。
先生方の楽しいスピーチがあり、みんなで校歌を歌って お開きに。


いやーほんと、良い集まりだったね。
子ども達も成長したし、私達親も ほんと頑張ってきたね。お疲れ様~。
そんな気持ちになった。
もちろん まだまだ手が離せるわけでもないんだけど
でも 一つの区切りとしてこういう会があるのは とてもありがたかったな。

この子達の未来に幸多からんことを祈ってー。
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二十歳を祝う②

2024年01月21日 | 日々の出来事
実は 自治体の成人式の他に
バンビが現在通所しているカレッジでのと
高等部の卒業生のお祝いの会があって 全部で3回。
これが奇跡的にどれも被らずに 3週に渡って執り行われることになったのでした。

昔 出席することになるのかなーと思っていた親の会のお祝いは平日なので
バンビがカレッジを休みたがらず そちらには不参加。

でもまぁ 障害のある子も 
ちゃんと大人になったことを祝ってもらえる場があるというのは
とてもありがたいことだよね。


さて、カレッジの「成人を祝う会」
これは 保護者も同席可能。

事前に提出した生い立ちの写真を スライドショーにして
順番に流して見せてくれる企画。

それぞれに赤ちゃんの頃からこれまでの20年間が偲ばれ
思わず涙する保護者多数。
(うちは誕生日順なのか1番最初だったから びっくりして
 心の準備ができてなかったー)

そして、親子でメッセージ交換=事前に書いた手紙の朗読
これも 子どもも泣きながら読んだり、親がまた泣いたり...

どの子にも いろんな生きづらさや苦手なことや困難があり
それでも必死に頑張って生きてきて
親は誰もが苦悩し、葛藤しながら わが子を慈しんで育ててきたことが感じられて
障害があるとかないとか関係なく、親が子を育てることの意義とか重さとか
人が生きることの ひたむきな想いとか
うまく言えないけど ほんと感慨深いものがあったなー。 

そして 手紙の交換は何故かうちがいちばん最後で
バンビは最初の方から感極まって泣いているのがわかったけど
もう この時点ではグズグズで
マイクを前にして 「読めない、無理...」と言っているような状態。

しょうがないから 手紙だけ受け取って
私は もう何か月も前に書いた自分の手紙を読んで
(こんなことならもちょっと違うこと書いたのにー と思いながら)
とりあえず この感動の親子のメッセージタイムは無事終了。
やれやれ~。

午後は 他の在校生も一緒に お祝いメッセージの動画見たり
イントロ宛クイズとか お楽しみ企画で楽しい1日を過ごしました。

いろいろな企画と準備をしてくださったカレッジの教職員の皆さんに
感謝の気持ちでいっぱいです。


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二十歳を祝う①

2024年01月21日 | 日々の出来事
新しい年になりました。
遅ればせながら 今年もどうぞよろしくお願いします。

例によって すごーく久しぶりのアップですが…
とにかく日々忙しくて…
何に忙しかったかと言えば、主に ”二十歳のお祝い” 関係。

バンビは 4月生まれで、今年度20歳になる学年なんですよね。

学齢期の頃は この子は将来成人式ってどうするんだろう? って思っていて
地元の手をつなぐ親の会主催のお祝いの会に出るのかなぁ と
漠然と考えていたけど…

そうしているうちに成人が法的には20歳から18歳に引き下げられて
ますますややこしいことになり
”成人式どうなるんだろう?”問題で もやもやしていたのだけど
結局はほとんどのところで”20歳になったお祝いをする”に落ち着いたみたい。
バンビにも昨年、区からはがきで「はたちのつどい」の案内が届いた。

でも、私はその時 健常児に付き合いのある知り合いがいるわけでもなく
行って”ぼっち”になるならやめといた方がいいのでは… と実は思っていた。

バンビは会場までは一人で行けるだろうけど
受付とかは心もとないところあるし
私がどこまで付き添うのか… と考えたら、ちょっと気が重かったのもある。

その辺りを先輩ママに聞いたら
事前に申請すれば付き添いの席も用意してくれるけど
席は固定で 後ろの方で待機とかはできなかった という話だった。

うーん、そのお子さんは常時付き添いがあった方が良さそうな様子だけど
バンビはどうなんだろう…?

そもそも本人は行きたがるのだろうか?

これは本人の問題だから、私が勝手に判断するわけにもいかない。


で、聞いてみたんだけど…

「行く。」と即答。

「え? でも知り合いとかいないかもしれないし、いいの?」

そしたら「行って何をするの?」って…
それわかってないのに 即答なのかー w

ちなみに、こういう辺り バンビには鈍感力とも言うべきものがあって
割と物怖せずに 行動できるのが、私やオットにはないバンビの良いところなんだけどね。

で、お祝いの挨拶があって、音楽の演奏とかがあって… と一応流れを説明。
でもやっぱり本人は「行く」と言うので
区役所の担当部署に連絡して
”必要なさそうなら退席したいから、付き添い席後ろの方にできませんか?”
と聞いたら 意外にもあっさりOK だった。

言ってみるものだね…
って言うか、要望はきちんと伝えて改善してもらうべきなんだな と
改めて思った。
別に無茶な要求をしているわけじゃないし
ハンデのある人がどうしてもらえたら助かるかを伝えなければ
相手はわからないわけだから。


さて、当日。
スーツを着込んだバンビを連れて 会場に到着したのが10数分前。
(危なかった、10分前過ぎると メイン会場に入れず
 サブ会場でリモート画面を見ることになるんだって知らなかったー)

受付で障害者であることを伝えると
人でごったがえしている通路とは別の動線で
メイン会場の中央の端っこに設けられた障害者席に案内された。

既に同級生の親子連れが何人か座っていて、振袖の女子もいた。
やっぱり女の子は華やかでいいね。

で、挨拶もそこそこに 私はやっぱり退席することにして
終わったら待ち合わせしようと バンビを置いて一度会場を後にし
近所でお茶して待っていた。

これが甘かった。
混雑を避けるために、入口と出口が別に設けられていたことを知らなかった。
出口側は普段あんまり行かないところだから
バンビが迷ってしまったんだよね。

最初はスマホ持ってるから何とかなるだろうと思ったんだけど
終わったら会場近辺が若者でごった返して
バンビがプチパニックで 通話してもこちらの言葉が耳に入らず
誘導ができない。

仕方ないからGPSで居場所を追いかけるんだけど
人が多くてお互い思うように移動もできないし
これはなかなか大変だったー。リサーチと事前の打ち合わせ不足だったな。

まぁ、そんなこんなで何とかつかまえて とりあえず記念撮影。
男子はスーツなので見栄えしないけど…
会場に設けられていた 撮影用スペースで

いやー、この日は風が強くて冷たくて なかなかバタバタで大変だったけど
本人は 「行って良かった。同じ高校の子もいたし。音楽に感動したー。」
と満足そうだったので 良かった。

考えてみたら、定型の子でも そんなに友達付き合いがなくて
ぼっちっぽいカンジの人は 何人もいたし
親の私が ”この子は障害児だから楽しめないだろう”って決めつけてただけで
ほんと、私の一存で 行かせるのをやめないで良かった。


で、これが1回目のお祝いで 実は3週に渡ってこれが続くのだけど
長くなるので また別の記事にー。

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糖質制限ダイエット その後

2023年11月22日 | 日々の出来事
 またまた久しぶりの記事になってしまった…

前回書いたわが家の糖質制限生活
2ケ月ぶりの定期健診では なんと3kg減! で

痩せると同時に血糖値も下がり、HbA1c が6.1に。
肝臓の数値も まだ高いものの、それでも服薬しなければならない域は脱出。

Dr.に「頑張ったね」と褒めてもらい、バンビもとても嬉しそうだった。

たかが3kgでも バンビにとって痩せるというのはなかなか大変なこと。

でも さすがに糖尿病で 目が見えなくなったり、足を切らなきゃいけない
というのは避けたい気持ちが強いらしく
こっそり飲んでいたジュースは 買わなくなった様子。

前回書いたとおり
ご飯やパンなどの主食を 低糖質なものに替えたのと
おやつを おつまみ的なものに替えて甘いものを控えたくらいで
食べる量自体は そんなに変わらず。
なので 大きな苦労もなくダイエットできたと思う。

ー3kgでも おなか周りのシルエットは変わり
狸腹が少しだけすっきりしたりして
そういう目に見える変化は 意欲へとつながっていくものだよね。

ただ、どんなダイエットでもそうだと思うけど
食生活変えてすぐは 痩せるけど
次に停滞期が来てしまう。
バンビも私も この数週間は足踏み状態...

ここをどう抜け出すかが大事なんだろうな。
できれば あと5kg 体重を落としたい。

これからの年末年始はいろいろ食べる機会も増えるので
気を引き締めていかないとね。
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糖質制限生活 始まる

2023年10月07日 | 日々の出来事
 この夏、実はわが家にはもう1つ大きな出来事があった。

うちは私の父方がどうも糖尿病家系で父も服薬治療はしていた。

非常に性格が真面目で几帳面な人なので
毎食自分で糖質量を計算して、きっちり糖質を制限する生活をしていたので
見た目ちょっと心配になるほど痩せていたんだよね。

それでもHbA1cの値は6を超えていたから、本当にこれはもう体質そのもの。

で、実は私も予備軍で 血糖値は常に黄色信号。
それでも 特に何もしていなかった。

ところが バンビもその体質を受け継いでしまい
これまでも 気を付けてとは言われていたけど
今年の夏の定期健診で 数値が上がっていて
ついに「本当に何とかしないとヤバいよ」と言われる始末。

心理のDr.にも
「PWSにとって甘いものは毒と同じなんです。命に関わりますよ。」と言われ
いままでの私の意識が甘かった と痛感するに至った。


これまでこのブログに書いてきたとおり
私は 食べることを規制することはできるだけしたくない と思ってきた。

PWSという障害を抱えて生きるバンビは
思うようにならないことが とてもたくさんある。

そりゃ、誰だって思うことすべてが叶うような人はいないだろうけど
障害者ってやっぱり人よりできないこと・制限されることが多くて
そのストレスたるや 半端ないものだと思うんだよね。

だから 食べない・食べさせないんじゃなくて
 ”食べても運動して太らないように気を付ける” 方針でやってきた。
(もちろん、家庭での食事はそれなりに気をつけていたつもりだけど)


でも...
学齢期が過ぎ、環境が変わって まず運動量が減った。
行動範囲が広がり、一人でお金を使う自由を得て 食べ物を手にする機会が増えた。
思春期のモヤモヤとか 対人関係のストレスの発散が 食に向かった。

そういういろいろなことが絡み合って
私の管理してないところでの飲食が バンビの身体を変えてきたんだよね。
背も伸びたけど、確実に身体が大きくなった。

バンビに注意し、制限をかければかけるほど 心が荒れ
それが食へと向かうと言う悪循環...

この1年半は 本当に危うい、戦いの日々だった。
いくら言っても 本人に響かない というよりかは
わかっていて食べたいという欲求が勝ってしまうつらさ...

でも 糖尿病は本当に怖い病気で
目が見えなくなったり、足を切らなくちゃいけなくなったり
命に係わる病気なんだということを
私からだけでなく、お医者さんからも言ってもらって
さらに 私の父の姿も見ているわけで
さすがに今回は バンビの意識にもちゃんと刷り込まれたのかな とは思う。

バンビは 肥満度で言えば軽度な方でも 糖尿病に片足突っ込んでいて
そうかと思うと バンビよりもっと重篤な肥満の方でも糖尿病は大丈夫
って人もいたりして
Dr.も 難しいんだよね~ と言っていたけど
PWSって 本当に不思議な病気だよね。


まぁ、それはともかく 私もやっと目が覚めたカンジで
とにかく血糖値を下げ、体重を落とさねばならないと
食事の改善を始めたところ。

ダイエットと言ってもいろいろな方法があるけど
糖尿病対策は とにかく 炭水化物と甘いものの量を減らすか
ローカーボのものに置き換える。
食べないんじゃなくて、食べるものを変える。

朝のパンやヨーグルトは低糖質のものに。
昼はバンビは注文弁当だけど、たまにこっそり飲んでいた甘いものは厳禁。
おやつも クッキーとかはたまににしてさらに低糖質のものを
あとは うずらの玉子とかカルパスとかアーモンドフィッシュとか
おつまみ系の甘くないものにする。
夜はご飯は前からマンナンライスを使ってたけど、割合を増やし
2日に1回はオートミールごはん。
果物の量も減らす。

休日の家でのお昼は チャーハンとかパスタが多かったけど
これも おかず主体か、低糖質パスタなどに替える。

おなかの脂肪を減らすという中鎖脂肪酸のMCTオイルをかけたり
ありとあらゆることを取り入れて
私もバンビも1ケ月で2kgほど体重が落ちた。

まぁ、2kgなんて 誤差の範疇みたいなもんだけど
それでも増えるよりはいいし
やせたね、頑張ってるね と褒められれば、本人も気分が良いだろう。
体重より とにかく血糖値を下げたいので 今度の検診に大いに期待したい。


そんなカンジで 今のところ
バンビは 食べる量自体はそんなに変わらないので 特に不満もなく
自分でも意識して、普通のヨーグルトと低糖質のヨーグルトがあったら
「僕はこっちだよね?」 と低糖質の方を手にしたりしているし で
順調と言えるんだけど…

低糖質製品は割高なので コストがかかるのが難点かなぁ。

あと、例えば 将来うちを出て生活するようになったら
こういう対応を誰かがしてくれるか? 問題があるわけで…

まぁ、食事はともかく 例えば将来おやつとか自分で買って口にするものを
とりあえず低糖質なもので済ませられるように
買い物の時に 教えていったりしていかないとなぁ とは思っているところ。

長期戦略ですな。頑張れ、バンビ! 頑張れ自分!
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父との別れ

2023年10月07日 | 日々の出来事
これは 私のための記録...


8月の初旬の金曜日の夜
千葉に住む父から「喉が痛くて、熱もある」と電話があり
翌土曜日 すぐ最寄りの発熱外来に同行することにした。

最寄りと言っても、発熱外来は どこも歩いて30分近くかかる。
実家には車がなく、その日オットはたまたま用があって出ており
かと言ってタクシーは 発熱があると乗車を拒否される。

私も 実家を離れて20年以上、地理にも地域の情報にも疎い。
その時はあまり頭が回らず
やむなく炎天下 父を連れて歩いて病院に行った。

その病院の発熱外来は、プレハブに隔離され診察はスマホを介して。
喉が痛いと強く訴えても、診てもらうこともできず
しかもコロナのPCR検査の結果は月曜日にならないと出ないと言う…

薬だけ出してもらい
用事が済んだオットに来てもらって 一旦実家に帰る。
でも 父は炎天下歩いたこともあってか、本当に具合が悪そうで 
この暑いのに水を飲むのも喉が痛くてできない と訴える。
当然 薬も飲めない。

心配になって 夕方救急外来に連れていく。
ちゃんと喉を見て、採血やレントゲンも撮ったりしてもらったら
炎症反応は高いが緊急性はなさそう ということで入院せず帰宅。

私も一度家に帰ったのだが
翌日お昼に 父と同居している弟から 
「お父さんが倒れた。救急車で昨日の病院(2件目)に向かっている。」

もう何がなんだか...

喉に膿が溜まっていて それが呼吸や嚥下を阻害しているため
取り除く手術をするが 執刀医の到着まで時間がかかるとー。

待つだけ待って、手術室に運ばれた頃には
もう手術できる状態ではない と言う…

そうして月曜未明に 父は亡くなった。

結局、新型コロナでは陰性だったけど 何らかの細菌感染による敗血症で
多臓器不全に陥ったということだったけど
最初に父から電話があってから 実質2日ちょっとしか経ってない…


信じられなかった…
だって 先週旅行のお土産渡して、いろいろ話したばかり。
土曜に別れた時には まさかこんなことになるとは夢にも思ってなかった。

そりゃ、もうすぐ90歳だったから いつお迎えが来てもおかしくはないけど
せめてお母さんの7回忌までは頑張ってよね と
話したばっかりだよね、お父さん...

どうして、こんなことに...
まったく気持ちが追いつかないけど、でも時間はどんどん過ぎていく。

葬儀をしなければならなくて
あれこれ決めることがあって、親戚に連絡をして
母の時は父が取り仕切ってくれていたけど
それを今度は子どもの自分たちがしないとならない。
家族からはみ出し、実家に半引きこもり状態の弟と 役割分担しながら...

弟に 不満や恨みの感情も湧いてくるし
自分自身にも もっとこうできたのでは、ああすれば良かったのでは と
後悔の念もたくさん。

不仲の弟と感情が爆発してお互いに罵り合いをしたこともあった。
それでも 平日家にいる弟が喪主として事務的なことも進めてくれて
助かったことも多かった。

実家に行っても もう父の姿はなく
その現実を受け入れることができず 苦しかった。
それに今年の夏は とにかく暑くて、暑くて
何をするにも 心も身体も悲鳴をあげそうな状況。

つらかった、苦しかった、何より 悲しかった…

父の死後ずっと続いていた目まいも
不思議なことに四十九日法要が無事に済んだところで治まったから
相当 堪えていたんだろうな…

父は 私の中で人としての理想、 ”人としてこうあるべき人”だったから。
真面目で、知的で穏やかで、知的好奇心というか意識の高い人だった。
母の時よりも 父を失ったことの喪失感は大きい。


でも、葬儀の時に ご住職に
「これも寿命。遺された者は個人に感謝して生きれば良い。」と言われたから
悲しみは受けとめるけれど、そこに溺れることなく
私は父から受け継いだものを大切にしてこれからを生きていこう
そう思えるようになった。


お父さん、いままで本当にありがとう。

天国でお母さんが待っているね、やっと再会できて良かったね。
もう痛みも苦しみも寂しさもないあの世で
どうか安らかにー。
そして、どうか私達家族の行く末を見守ってください。

お父さん...
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障害基礎年金の申請の話

2023年08月31日 | 親あるうちの子離れ支度
バンビは 4月に20歳になり
障害基礎年金受給の手続きを終え、無事初回の年金が振り込まれたところ。

将来に向けた生活資金の確保は
「親なきあと」の準備の中でも大きな課題で
これについては いずれ別にまとめようと考えているけど
今回は ざっくりと申請にまつわる話をー。


障害基礎年金について基本的なところは
日本年金機構のサイトなどを参考にしてもらえば良いかと思うけど

PWSは 染色体起因の先天的な知的障害なので
生まれた日が 初診日であり、障害認定日。
この辺り、身体や精神(発達障害含む)だと ”いつから” が問題になるけど
そこで悩む必要は(良きにつけ悪しきにつけ)なくて
20歳になったらもらえることになっている。

あと、よく 一般就労しているからもらえない と思ってる人いるけど
確かに収入があれば金額によって支給の制限は生じるけど
最低賃金✖時間 くらいの収入だとまったく問題ナシなんだよね。
日本はなんでも申請主義だから こっちから言わないと
向こうから ”もらえますよ” とは言ってくれないので
ちゃんと調べなきゃ…


で、もらうにあたっては 申請書の他に
医師による診断書 と
本人もしくは保護者による「病歴・就労状況申立書」の提出が必要になる。
(もしかしたら 人によっては他にも必要な書類があるかも)

このフォーマットは 年金機構のサイトからダウンロード可能。
Excelで入力ができるようになっているのでありがたい。

で、診断書は申請の3ケ月以前のものから有効になる。
うちは4月に申請、2月が直近の受診で
そこで受け取るには3ケ月ごとの受診だから その前の11月に
Dr.に年金申請につき診断書作成を依頼しておいた。
D大病院は書類の郵送はしてくれないので、直接取りに行かないとならない。
だからできるだけ受診の時に依頼したり受け取ったりができるように ってことで。

バンビは小学生の時から精神科を受診しているし
D大病院は PWSの患者さんも多数通院していてDr.も慣れているから
スムーズに事が運んだけど
このタイミングで医療に繋がれてないと 本当に大変。

私の知人(PWSではない人も含めて)も
学齢期は安定していて特に服薬も必要ないから 精神科にはかかってなくて
いざ年金申請になって病院探しで手こずった って人が
何人もいる。

まず、どこの病院に行ったらいいかわからないから探すの大変だし
(病院によっては 書いてくれないところもあるらしい)
予約もすぐ取れなかったりするし
初診ですぐ書いてくれるわけじゃないし
(大抵は数か月~半年くらいは通院しないとならないみたい
 そりゃ 初診ですぐは様子がわからないもんね)

だからね
【病院にはつながっておくべし】

PWSでも発達障害でも
学齢期問題なくても、思春期に入って爆発しちゃう例が少なからずあり
そうなってから探して通院させては 大変だから...
何にもなくても 小学校中~高学年くらいからは
かかりつけを持っておいた方がいいのよ。
そりゃ、忙しい中子ども連れて(仕事休んだり学校休ませたりもして)
長い時間待った挙句にほんの短い時間Dr.や心理士の先生と雑談して帰るのって
その時は無駄に思えるかもしれないけど
将来への布石と思ってやっておくべし。
少なくとも年金申請では確実にお世話になるから。

やはり知人で、安定しているお子さんだけに
本人が「自分には必要ない」と受診拒否してしまってる例もあるので
もう学齢期の早いうちから 習慣として組み込んじゃった方が良いと思う。

あ、あと診断書 結構お金かかります。
うちは 1万〇千円。
病院によっても多少違うみたいだけど
知人は大体8000円以上1万円台はかかってるみたい。

高いとは思うけど、診断書結構書くことあるから
Dr.の手間暇考えたらやむを得ないのかも…
(と思って諦めるしかない… 涙)

ちなみにD大病院にはフォーマットを持って依頼しに行ったけど
病院で持っているらしくDr.がパソコンで作成してくれた。


さて、もう1つの「病歴・就労状況申立書」
これは障害者になってから(つまりPWSは生まれてから)これまで
何ができず、何に困難を抱えて苦労してきたか を綴らなくてはならない。

育児の記録って 大抵いつ頃何ができたかを記録していることが多いけど
年金申請は真逆で、何歳で何ができなくて困っていたかを書くわけね。

これがねー、記憶力が良い人はいいんだろうけど
私みたいに右から左に忘れていっちゃう人間にとっては
いや、大変だったんだけど それ何歳の時だっけ? みたいになるから
【育児の困難を年代がわかるように記録しておくべし】
これもほんと大切。

私にとってはこのブログがまさにそれで
あと入学や転校の際に作成したサポートブックやシートも役に立って
昔の私 グッジョプ! ってカンジ。

それらを紐解いて申立書のフォームにびっしり
うちの子 こんなにできないんです、大変なんです
だからお金が必要なんです! と書き記したわけ。

で、実は私は先にこの申立書を作っておいて
それをDr.に渡して 診断書を書いてもらったんだよね。
Dr.は診察記録を元に記載していくんだろうけど
これがあってとても助かる と言われた。

そう言えば 診断書には「重度の知的障害」とはっきり書いてあって
それ見たらちょっと はー、重度ね… と思うところはあったけど
そういう風にして確実に申請が通るように書いてくれたことはありがたかったかな。

まぁそうは言っても、常時介護が必要な程重度ではないので
障害基礎年金は2級 ということで無事支給決定されました。
月額66,250円なり。
(1級の方が重くて金額が多い)
申請から決定通知書が送られてくるまでに3ケ月くらいかかったけどね。
支給は偶数月だからさらに1ケ月以上後になったけど。
合わせて年金生活者支援給付金っていうのが2級だと月5,140円支給される。
つまり合わせて71.390円。

人によってはこの手続きを 社労士さんにお願いしたりもするみたいだけど
当然それだとお金がかかる。
さっきも書いたけど病気やけがによる中途障害だと
初診がいつかとかが問題になるので ややこしいのかもしれないけど
知的障害者は出生日が初診日だから、要領さえつかめば親が書けると思う。
今はネットでもいろいろ指南がされているので
そういうのを参考にするといいよね。


まぁ、そんなわけで障害基礎年金の申請自体は無事に済んだんだけど
問題は 月7万円ちょっとで将来バンビは暮らしていけるのか?
ってことなんだよね。
就労してそこそこのお給料がもらえればいいんだろうけど
PWSは若いうちはともかく一生そういう就労継続ができるのはレアで
やっぱり福祉就労で 月1~2万円、多くて3万円近く
くらいの収入で落ち着くんだろう。

そう思うと 10万円に満たない金額で将来グループホームとかで暮らして
やっていけるのか?
死なない程度に最低限の暮らしはできるかもしれないけど
余暇に回せるお金は?
親が生きているうちは 親がかりとして、親なきあとは?
生活保護を受給する?
でもさー、障害者みんながみんな生活保護を受給したら
国の財政がパンクしない?

てか、そもそも親はいくつまで生きて いつまで子どもにお金を出すのか…
(出せるのか…?)

そういうことが俄然気になってくるわけです。

なので 情報集めて、シミュレーションして、計画立てて
1つずつ実行に移してはいるけど まだまだ道半ば...
いやまだ2合目あたりをうろうろ?
そもそも世の中自体が「親なきあと」については まだまだ過渡期なのかも…

そんな「親なきあと」については 追々
うーん、また場を改めて? 経験を記録していこうとは思ってるけど
はてさてどうなることやら...
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夏の長野旅行

2023年08月12日 | 日々の出来事
 なんと2ケ月以上も放置しておりました…

この間ほんとに ほんとーにいろいろありまして…

でも まぁこのブログは私にとっては日記なので
とりあえず時系列に 書いていこうと思う。


で、毎年恒例 夏の旅行の話。

実は7月中旬にバンビが新型コロナ陽性になり
(1年ぶり2回目)
熱は大したことなかったけど 咳がなかなか抜けず
これは予定していた旅行もあわやキャンセルか… と思ったくらいだったけど
療養期間も過ぎ 咳もなんとか落ち着いて
いざ出発。

今年も長野に行って、宿はハーヴェスト蓼科アネックス。

初日はまず蓼科湖の目の前の「やまなみ」でおいしいお蕎麦をいただき
午後はまずリゾート内のパターゴルフをする予定。

だけどさすが東急リゾート 敷地が広い広い…
たどり着くまでに迷ってぐるぐるしちゃったけど
平日だったこともあり パターゴルフ場には他に誰もいなかった。

毎年言ってるけど、高原でも日なたは暑い


終わってから 私の行きたかった「バラクライングリッシュガーデン」へ
バラはもう終わっていたけど
緑の中を散歩して お茶して ホテルへチェックイン。

夜はリゾート内の「The Roof」でグリル料理。

これも平日だからか、お天気のせいか
お客さんはうちともう1組しかいなくてちょっと寂しいカンジだったけど
お料理は(特にお肉が)申し分なく美味しかった。


2日目は松本まで出て ショートコース。
標高750mくらいあるらしく アップダウンが結構キツくて
ハーフ回るだけでも 汗だくのバテバテ。
奥に見えるのが松本市街

緑が深いせいもあって 3人で何球ロストしたことか…
まぁ 他にお客さんもいないからのんびり回れたと言えばそうなんだけど
持参のお茶を飲み干して、途中自販機もないから水分も採れずに
本当にキツかった…
ゴルフ場の受付のおばさまがくれた自家製の梅干しで何とか疲労回復 w

お昼は 長野の郷土料理(馬刺しとか鶏の山賊焼きとか)を堪能して
オットのお楽しみ・松本城観光へ。

このお城も昔ながらの狭くて急な階段を上り下りしなくちゃならなくて
それはそれは大変だったけど…

バンビの鞄にヘルプマークを付けていたせいか
それを見た警備の方が 「大丈夫ですか?」と声をかけてくれたり
一度対面通行を止めて一方通行にして待ってくれたりしたのが
とてもありがたかった。

平日だったけど旅行客も多くて、特に外国人の方が多かったなぁ…
コロナも明けて 日常が戻ってきてるカンジなんだね。
そうは言っても バンビみたいにまだかかることがあるわけで
油断は禁物なんだけど…

疲れたのでカフェでお茶してたら時間が遅くなり
蓼科に戻って夕飯のはずがちょっと難しくなってしまった。

私は 旅行の時は事前に行動予定は予め決めておき
行き当たりばったりはしないので
こうなるとちょっと困ったことに…

と言うのも 松本あたりは観光地だからかネットで探したお店は
ディナーは前日までに要予約とか 夜はコースのみでお高かったり
というところが多かったんだよね。

なので 適当に洋食のレストランに入って食事して
美味しいのはおいしかったんだけど 1ケ月近く経った今
店の名前もぜんぜん思い出せないという事態… w


さて、3日目。
ホテルをチェックアウトして北八ヶ岳山頂までロープウェイで登る。

ここは坪庭自然園という溶岩や高山植物いっぱいの散策路があるんだけど
ちょっと散歩というにはハードで バンビはバテバテ。

やっと最後に普通の林道に出て 記念撮影。
バンビは縦にも横にも大きくなった… w


諏訪湖近くの鰻屋さん「小林」で おいしいうなぎを食べてから
諏訪大社へ。

これが四社あるうちの下社の春宮の駐車場から秋宮まで歩いたんだけど
暑くて大変で…
もう 観光もそこそこにお土産買って帰路につくしかなかった。

今年の7月下旬は 長野でもとにかく暑かった… というのが
旅の思い出。

まぁバンビが発熱した時はあきらめかけた旅行だったしね。
無事行けただけ良かったけど…

例によって 途中でオットとバンビがケンカになり
車中で大もめで 事故りゃしないかとハラハラした時もあった。
オットは「もういっしょに旅行なんてしたくない!」って怒り出すし…
バンビも疲れてくると 
ちょっとしたことで尖ったというか荒れたもの言いをしたり
しかも それがしつこかったりするので
まぁオットの気持ちもわからなくはないけど
こっちがバンビを理解して対処してやるしかない と何度も
本当に何度も繰り返し伝えているんだけど ダメなんだよなぁ…

まぁ、普通なら もう子供は親離れして
夫婦2人でのんびり出かけるくらいの年齢になったのに
いつまで親子3人で 子どもの希望に合わせながらの旅をするんだろう…
そんなことをつらつらと考える 今年の夏の旅だった。

うん、でもそうは言っても どんなスタイルでも
やっぱり旅は楽しいんだけどね。
コメント (2)
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