天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「香月泰男」についての私的な思い出

2018-06-21 20:37:02 | 哲学・文学・歴史
県外の友人から、世間話で、文学とか芸術とかで、山口県出身の天才といったらだれかなあ、と聞かれ、私がちゅうちょなく答えたのは、詩人の中原中也、画家の香月泰男(かづきやすお)(1911~1974)でしょう、と即答しました。どうしても、この点は譲れないところです(しかしながら、後者については、私には絵画に係る素養がないことはここで断言いたします。)。
中原中也は、少なくとも、近代の、全国区の詩人ですが、絵画に趣味も教養もない私にとって、香月泰男を知ることが出来たのは、僥倖(ぎょうこう:偶然に得るしあわせ)であったというべきものかもしれません。
学生時代、名著「生き急ぐーースターリン獄の日本人」(内村剛介著)(絶版)に出会い、その扉の裏面に、「運ぶ」という、香月の油絵の写真が載っていたのです。
私の大学入学時(1974年)、親ソ反動サヨク政党、いわゆる日共が日本国においてまだ少しは支持者がいる時代で、ソルジェーニーツィン事件(ソビエトロシアのノーベル賞受賞文学者が国外退去をさせられ、レーニン・スターリン一派による裏切られた革命 (?) の後、労働者の開放どころか、旧ロシア時代より更に苛酷な収奪と、反対者に対し監視と処罰を繰り返したソビエト政権により、反体制の文学者が政治的亡命を強いられた。)がロシアで起きました。
この本は、当時、世界的にも澎湃(ほうはい:物事が勢いよくおこる様)として起こった、社会(共産)主義の失敗と、実態としての自国民や他国民に対するその残虐な支配、殊に、ロシアスターリニズム政権の支配の実態を、わが国の反動左翼団体がいまだに力があった当時、虜囚になった当時の日本国の知識人が、その暴虐と非人間性を告発し、被抑圧の立場からその実態をきちんと描いたということでは、意味があります。
また、作中で、著者が獄中で考察した、その歴史、言語から、ロシア人、日本人、フランス人など、その個性と、特徴的な性格、それぞれの国民性の実態にも言及しており、その観察も興味深いところです。

現在において、類比すれば、グローバリズムを隠れ蓑に、強くなりすぎた金融資本が、国境を越え、他国家の大衆をあたかも道具のように見なし、巧妙に自身の経済支配の奴隷とすることと、きわめて似通っており、スターリンの目指した、ソ連を中核にした世界プロレタリア独裁ととても相性がいいのですね。


褐色に黒を重ねた画布に、真っ黒で巨大きな丸い岩のようなものと、その中に、足が二本生えている。よく視ていると、褐色の、くぼんだ眼窩と、頬骨と、うっすらと顔や体が、その巨大な荷物に比べて、あまりに細く脆弱な人間の体が、少しづつ、底知れぬ闇の中から、浮かびあがって見えてくる。大きな衝撃を受けました。
それこそ、人間の本質とは何なのか、人は行き続けているかぎり、その人性は強いられた苦役と労働と苦痛で満ちているだけなのか、とこちら側に、その様な絶望的なイメージと思索を強いるような、私たちを深淵に誘うかのような作品でした。

この絵画は、香月泰男の代表作である、シベリアシリーズの連作(全作57点)の一枚であり、著者の説明によれば、毎日凍りついた悪路をコーリャン(北方種の雑穀)の大袋を背負い往復6キロの道のりで毎日三往復させられた(いわゆるそれがノルマでしょう。)、という体験をモチーフにしています。それこそ、運悪く転倒して、列をはずれれば、ソ連軍兵士に脱走兵として銃殺される運命でもあるわけです。ソビエトロシアでは、牛馬や、トラックを使うよりはるかに安価な捕虜の労働はこのようにまかなわれたわけです。
香月泰男は、徴兵により従軍し、敗戦後、あたかも日本国の戦後賠償のように、運悪く、虜囚となった兵士たちは、拘束され、ソ連軍に差し出されました。理不尽で、非人道的であることは明らかです。その後、前記のような厳しい奴隷労働で、戦友たちがばたばた死んでいったことを考えれば、これは、なかなか、運・不運とかで納得できることではありません。郷土に残した日本国の兵士の家族たちにしても、それは同様なことでしょう。
内村剛介(1920-2009)も、同様に、戦後、ソ連軍に拘束・留置されましたが、詩人の石原吉郎と同様に、ロシア語に堪能であり、スターリン治世下であれば、間違いなくスパイとされたこと(独房体験が多い。)であり、兵士大衆の一人として、ラーゲリ(強制収容所)の雑居房につながれた、香月泰男とは、少し異なった虜囚体験であったかも知れません。
しかしながら、おしなべて、シベリアに抑留された兵士大衆の、その、虜囚体験は、生き延びた後も、個々の人たちには、終生にわたり、耐え難い、衝撃と悪夢(今で言う「PTSD」でしょう。)が付きまとうものでしょう。お気の毒なことです。
ソルジェーニーツィンの、「イワンデビソーニッチの一日」や「収容所群島」など読めば、国民監視、密告体制の中で、自国民でさえ、些細なことで拘留し、ラーゲリ(強制収容所)に放り込み、奴隷労働を課する、ソビエトロシアの非人間的な体制とその抑圧、共産主義の失敗と抑圧機関のその実態を見れば、ソビエトロシアの独裁者が、他国民の、いわゆる敵に対し、しかしながら、その実態は農民・労働者に過ぎなかったわけですが、搾取すべき労働資源として、いかに苛酷な取り扱いをしたかは自明かもしれません。
それを言えば、現代の、北鮮の絶滅収容所の実態などは、推して知るべしでしょう。

それはそうとして、現在の南鮮の指導者が、自国民すら誘拐された、隣国の世襲独裁者と野合できるのは、私の理解の枠を超えるところであります。

香月泰男自体は、入隊時に、すでに画家としての能力を獲得しており、従軍中も、飯ごうに釘でモチーフを刻んだり、身の回りのものにさまざまに工夫して描き、その画業を続けています。時に、上官の命令で、その肖像画を描いたこともあったようです。うちの義父が、入隊したとき、まず「軍隊は要領である」とたたき込まれたといっており、それこそ、軍隊社会で生き伸びるためには、個々の兵隊は、その技能をさまざまな局面で発揮しながら、延命を図っていったことでしょう。敗戦後の、ロシアラーゲリでの俘虜生活でも、その技能は、生き残るために必要であったようです。

 あとになって知ったことですが、香月自身、幼児期に、祖父によって生母と引き離されたとの経験があり、ものごころついたころ、生母に、はなむけに何が欲しいかといわれたときに、絵描きのセットをねだったとの述懐があり、決して平穏な幼児期ではないようです。
 後年、手すさびのためなのか、ブリキのおもちゃなどをこどものために作り上げ、それが手すさびの域を超え、見るものに温かみを与える鑑賞に堪えるおもちゃ・工芸品になっています。
 その後、この自転車やピエロなどのおもちゃを、そのできばえに驚嘆した谷川俊太郎の編集(その画業との落差にも感動したのでしょう。)により、写真集が出ています。自己の幼児期の体験からか、家族を大事にし、子煩悩であるといわれた、香月の別の側面でもあります。

 彼のシベリアシリーズを、目の当たりにするたびに、人は思索を強いられます。
 その直接体験の厳しさは、容易に他者の同情や追従を許しません。
それこそ、フランクルの名言を引けば、個々にとって「最も善き人々(自分自身)は二度と帰ってこなかった」、ということです。
遺族は、このシベリアシリーズを、県立美術館に寄贈していますが、これは、個人の所蔵とか、個人の美術館とかではなく、より、多くの、一般の人々に、より多い機会で鑑賞してもらう芸術であろうと、納得されます。現在、常設展示として、多くの人に公開されています。

 テレビの、いわゆる「老人」たちの戦争体験を聞いていると、「もう戦争はこまる」、「こんな体験は孫子にさせてはならない」、そればかり、繰り返されます。
 戦争従軍者については、心情的には、それは了解できることとしても、われわれ、戦争体験もないものでも、少し想像力を働かせれば、現在の日本国の地勢的、歴史的情況をかんがみれば、近い未来において、中共覇権国家や独裁国家北鮮によって、日本国の無辜の国民が、かつての兵士大衆のように、生存すら脅かされ、奴隷のように扱われ、そんな厳しい運命に、否応なく、巻き込まれない保証はないのです。
歴史に学ばなければ、現在のわれわれ国民の責任と努力なしに、極東の覇権国家、独裁軍事国家の現実の脅威に対抗することは出来ないはずです。まさしく、他国の「現在の」歴史がそれを証明しています。

 わたしが、最初に、香月泰男の絵画に出会った頃、まだ、氏は存命中でした。
 その後、地元の画廊(画材屋を兼ねている。)で、氏の作品を見せてもらったとき、黒をベージュ色にぬり重ねたキャンバスに、花器に挿されたかわらなでしこが描かれたもので、黒い色調と同様に、ひときわ濃い桃色の赤黒いなでしこに、異様な迫力を感じる、静物画でした。
当時の私は、バイアスのかかった視点で観た覚えはありませんが、是非欲しいと思いました。当時の初任給が9万1千円であり、5倍以上の金額になる油絵に二の足を踏んでしまいました。結局、死後、その作品の値段は、とても上昇してしまい、到底手が出ない、金額になってしまいましたが、それはそうとして、別の話になってしまいます。

 長門市(旧三隅町)にある、香月泰男美術館の、外装は、シベリアシリーズのモチーフでつくられ、黒色の建物に無数の褐色の顔が浮かび上がるという、農村地帯の周囲に対し、違和と、くらさと、とてつもない不調和を演出しています。
私見で言えば、それは、香月氏の、その思念と、「私は終生癒されることはない」というようなその心象風景が、すさまじく屹立しているかのように見えてくるところです。アトリエ展示を含め、遺族により大切に所蔵された作品を主にした展示がされ、きわめて興味深い美術館です。
 彼の晩年作、「<私の>地球」では、シベリア、インパール、ガダルカナル、サンフランシスコ、そして三隅町と、その交点に私は居る、という晩年の彼の認識を考えてみれば、終生、その直接体験からのがれることのなかった、この画家の決意と、重い記憶がよみがえるのです。
 また、県立美術館に、山口に来てくれた、大変お世話になった大学時代の先輩(友人)と一緒に行ったことがあります。彼は、絵心のある人で、「シベリアシリーズは無論すごい、でもね、明るい色調で書かれた、「二人座像」なんかも、作者の技量とすれば、すごいものだよ。」と言っていました。
 今は、行き来のなくなった方ですが、大学時代を思い出すたびに、懐かしい思い出です。
 旧友に会うたびに、「彼はどうしてる」と皆に安否を尋ねられる方でもあります。

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