紙切れ一枚のプライド | 虹の祈り

虹の祈り

クリスチャンです。
双極性障害二型を持っています。
なにもあまり満足に出来ないけれど、
祈りながら思いを綴って行けたらいいなと思います。
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よかったらご参加を。サイドバーを見てね。(冬場は4時です)

おーい、生きてるかい?

例によって、地味な双極暮らしのJimmyです。(いつの間にかHNになっちゃった?)


昨日、深夜にここで書いた後、ふと思い出した曲があった。

りーりトナー(Lee Ritenour)の「Feel the Night」。

高校時代よく聴いたLeeのギター。あの頃は、ipodやスマホではなくて、カセットテープを入れたウォークマンのヘッドフォンや、LPレコードの上を走る蓄音機の針のザザ音と一緒に聴いた。(流石に蓄音機という呼び方はしていなかったけど。ステレオとかレコードプレーヤーと言っていたかしら?)

もうすっかり忘れていた。久しぶりに聴いてみたくなった。

『もう寝ないといけない、明日にしよう』と思いつつも、どうしても聴きたくなって、
ついにYOUTUBEへGO。

「たとえ、明日が世界の終わりでもりんごの木を植える・・・」とまではいかないが、

「夜が明ければ、うつと虚しさが待っていても、わたしはリーリトナーを聴く(草)」


あなたも、聴いてみるかい?
もし夜、ここに来てくれているのなら、止めたほうがいいよ。
興奮して眠れなくなっちゃうかもしれないから。

うん、聴かない方がいいよ。



色々と書きたいことがある。少しハイになっているのかな?
でも、病的HIGHは、人生バラ色の気持ちよさとは違う。

ワザとらしい香料の入った衣類の洗剤のような感じだ。
合成着色料のついた鮮やかな色のお菓子とか・・・。

イライラするし。



今は、以下の話題だけにしておこうか。

昨日は日曜討論をNHKでやっていた。
選挙が22日。投票の手がかりにでもなればと見ていた。

一つ印象に残ったある政党代表の言葉があった。

大学授業料無償化を推進したい党だ。以下のようなことを言っていた。


「今のシニア世代は若い方が多いのだから、病院よりも大学に行きましょう。
シルバーパス*を持っているより、学割を持っていた方が、プライドが持てるでしょう。」

(*註 年会費を払うとバスが無料で乗り放題になる定期券)


あなたは、どう思う?

わたしはね、年齢関係なく、勉強したいときに自由に大学でも何でも行けるような支援を国がすること自体は、とっても良いと思う。生涯、何かを学ぶって素晴らしい。

でもよ、カチンと来るのよね。
シルバーパスより学割のほうがプライドを保てるなんて。

これを言っている人はね、シルバーパスを持つことを恥ずかしいことだと思っているみたいに私は感じてしまった。

大学で勉強して意義深いことをしている証明になる「学割や学生証」のほうが、まるでその人の価値を高めるみたいなニュアンスを感じた。わたしの誤解かもしれないが・・・。

もしそういう意味が込められていたとしても、その人の思想の自由だけど。


戦後の日本を、働きぬいて、家族を守って、様々な困難を生き抜いて、進路や結婚相手を選ぶ自由もなかったりして、税金も払って、やっと高齢の今を迎えた方達に、自由に出かけられる一助となるシルバーパスでどこにでも行って楽しんで欲しいと思う。

通院の交通費だって馬鹿にならないから、シルバーパスは便利だよ。


繰り返し言うが、大学で勉強するのも勿論選択肢の1つだ。国公立でも入学金や授業料は、年金で支払うには高額だと思うし・・・。

でも、学割とか学生証とかを持つほうがプライドを保てるなんて・・・
死ぬまで、何かのステータスがないとだめなのかい?


もっと言えば、障がい者手帳はどうだろう?学生証や会社員が首から下げるIDカードの方が、プライドを持てるかい?


大体ね、社会貢献っていうのは、税金や賃金労働も勿論大きいけれど、目に見えないところで、戦後の高度経済成長時代、外で働く夫を支えて、黙ってひたすら家庭を守り、子育ても姑の世話もした主婦たちの力だって偉大なんだよ。子供達の世話をしたおじいちゃんやおばあちゃんがいたから共働き出来たりもしたんだよ。そうとちゃいますか?


それに、これは重い話になるんだけど、

「脳死」ということが発見されたのは、ナチスがユダヤ人を氷漬けにして実験したからなんだよね。医学の発展にこんな大きな犠牲が払われてしまった。

障がい者の権利と福祉や、絶対に人体実験してはいけないというニュルンベルグ綱領っていう法律の制定などが出来たのは、犠牲になった障がい者達、人体実験された人達の犠牲の上に成り立っているとも言える。

そんな辛い「社会貢献」などしたくもなかったと思うけれど。

目に見えないところでじっと社会を支えている人々
社会的少数派として声をあげる障がい者


目に見える証明書だの、卒業証書だの、源泉徴収票だの、そんな破ってしまえばただの紙切れになるものなど一枚も持っていなかったとしても・・・

みんな、「いのち」を提示しているんだよ。

存在捧げてる。

いのちより尊い「証明書」なんてあるかいな?



とは言うものの・・・凄く情けないんだけど

わたしも、目に見える「紙切れ的な存在価値証明」を心の何処かで求めているんだよね。
自分がそうだから、あの政党の代表の言葉に強く反応したとも言える。


働けないことが嫌でね、何かしなければと焦ってしまい、この間など、ねぎの名前を募集しているコンペにまで応募してしまった・・・お金が欲しかったのではなく、お金を稼げるというプライドのためだったんだと思う。

そうだよ、わたしも何か紙切れ一枚の「証書」が欲しい人間・・・自分がなりたくないと思っている人間なんだよね。「どこどこの誰々です」と「自転車屋です」「会社員です」って名乗れる何かが欲しいんだよね。そういう価値観、嫌いなのに。



でも、ねぎの名前を考えて送ったあの会社は、結局、なんと!途中で募集をキャンセルしてしまった。

灼熱のあの暑さの中、具合が悪い中、ひたすら、ねぎの名前を考えた私の努力は何だったのだろう・・・ひと夏の思い出となったのであった。ねぎを当分見たくないね。


今日も来てくれて有難う。

東京も、夜は気温が下がるらしい。

風邪とか気をつけて。
お大事にしてね。

あなたのことを、紙切れ一枚の証明書やパスポートで見たくないよ。

いやだよ。