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フィリピン大統領、「米国と決別」の裏に憤りの半生(後編) 71歳のドゥテルテ大統領はどのような人生を歩んできたのか?

2016-10-26 13:25:22 | フィリピン

フィリピン大統領、「米国と決別」の裏に憤りの半生(前編) 71歳のドゥテルテ大統領はどのような人生を歩んできたのか?

フィリピン大統領、「米国と決別」の裏に憤りの半生(後編)

71歳のドゥテルテ大統領はどのような人生を歩んできたのか?

2016 年 10 月 24 日 10:12 JST THE WALL STREET JOURNAL

 米国は1898年のフィリピン侵攻と暴力による制圧を償っていない――。米国と決別すると宣言したドゥテルテ大統領の愛国心は、フィリピンの左派寄り政治家に共通するこうした思いを映し出している。


植民地支配が残した傷跡

 ドゥテルテ氏はミンダナオ島の州知事一家に生まれた。生まれ育った地域には、フィリピン政府と米国政府の両方に憤るだけの理由があった。そこは、カトリック教徒が圧倒的に多いフィリピンにあってイスラム教徒が多数を占め、スペインにも全面征服されなかった地域だ。米国がフィリピンを支配すると、住民は激しく抵抗した。

 植民地支配に傷ついたミンダナオの住民は、抑圧されたり尊敬の念を欠いた扱いを受けたりすることに憎悪の念を抱くようになった。ドゥテルテ氏の妹で、ミンダナオ島最大の都市ダバオに暮らすジョセリン氏はそう話す。ジョセリン氏によると、植民地支配している間に起きた犯罪は米国の責任とドゥテルテ氏が考えるようになったのは、イスラム教徒だった祖母の影響だという。

 友人や家族の話によると、ドゥテルテ氏は幼いころから反抗心が強かった。同級生だったドゥレザ氏は、お堅いイエズス会系の学校に通っていたドゥテルテ氏が、神父に青いインクを浴びせて退学させられたことを覚えている。高校時代はけんかばかりしていた。子どもの頃からの友人で、現在は財務相を務めるカルロス・ドミンゲス3世はドゥテルテ氏について「そんなふうにいつもすぐにかっとなる性格だった」と話す。

妹のジョセリン氏によると、ある晩、ドゥテルテ氏はけんかで負った刺し傷を押さえながら倒れるようにして家に帰ってきたという。またドゥレザ氏の話では、大学時代には友人が襲われた仕返しに同級生の足を銃で撃ったこともあった。同級生は回復し、ドゥテルテ氏が訴えられることはなかったという。

フィリピン共産党創設者に師事

 ドゥテルテ氏はマニラの大学に入学、ホセ・マリア・シソン氏の下で政治を学んだ。シソン氏はのちにフィリピン共産党を創設し、1969年には武装闘争を開始した。現在、オランダに亡命中のシソン氏は、ドゥテルテ氏に対しては、米国帝国主義の弊害と、一般市民を犠牲にして国を支配する腐敗した実業家・政治家一族について教えたとしている。ドゥテルテ氏は、こうした支配システムを打倒すると約束している。

 フィリピン共産党は現在、米国務省によって外国テロ組織に指定されている。ドゥテルテ氏は同党に参加したことはないが、共感すると発言したことがある。

売られたけんかを放っておく人間ではない。売られたけんかは買う。

—ドゥテルテ氏元同級生で政権の一員でもあるジーザス・ドゥレザ氏

 法と秩序についてドゥテルテ氏の考えが出来上がったのは、凶悪な犯罪組織がダバオ市を恐怖に陥れた1980年代だ。ダバオ市役所で一緒に仕事をしたというレオ・ビジャレアル氏によると、ドゥテルテ氏は銃を突きつけられて金品を奪われた経験から、犯罪組織の打倒を誓ったという。


 ドゥテルテ氏は1980年代半ばまで市の検察官として働いた。ジョセリン氏によると、ドゥテルテ氏が法科大学院を卒業したことに家族は驚いたそうだ。フィリピンは当時、米国の支持を受けた独裁者フェルディナンド・マルコス氏の下で混乱に陥りつつあった。


ダバオ市長時代にも米国への怒り

 1986年の「ピープル・カラー」革命でマルコス氏が失脚すると、フィリピンの刑事司法制度は崩壊した。富める市民が賄賂を使って起訴を免れる事態が頻発する一方で、裁判が何年もかかる事件もあった。ドゥレザ氏によると、ドゥテルテ氏はこうした司法プロセスを「遅れたり妨害されたりする可能性があるもの」と受け止め、直接的な行動こそが変化をもたらす唯一の方法と考えるようになったという。


 ドゥテルテ氏は1988年にダバオ市長に選出されると、夜間外出を禁止したり喫煙や飲酒を制限したりと厳しい政策を実施した。ジョスリン氏によると、シンガポールの厳格な指導者、故リー・クアン・ユー氏がモデルだったという。


 政策は人気を呼び、ドゥテルテ氏は住民からは「パニッシャー」(罰する人)と呼ばれた。任期を制限する規定から連続とはいうわけにはいかなかったが、ドゥテルテ氏は2016年まで合わせて7期にわたって市長を務めた。


 この間もドゥテルテ氏は米国の態度をフィリピン軽視と受け止め、怒りを感じていた。2002年には米国人が滞在していたダバオ市のホテルで爆弾が爆発、その後、この人物が不可解な状況下で国外に脱出するという事件があった。友人によると、ドゥテルテ氏は米中央情報局(CIA)による陰謀を疑い、何年もこの事件について考えていたという。


 在マニラ米国大使館は「米国市民に医療救助を支援する通常の領事業務を提供する以上の措置は一切行わなかった。業務執行時にはフィリピン当局と緊密な協議を行った」とコメントした。


 ある友人によると、この事件の直後、米国はドゥテルテ氏への査証(ビザ)の発給を拒否、看護婦であるパートナーの就労ビザも取り消された。その理由について、ダバオ市で司法手続きを経ずに処刑が行われていたことを米国が懸念していたためとこの友人は説明している。米国大使館はこの件についてコメントを差し控えた。


「私の市には米国兵士は要らない」

 2002年以降、米国はイスラム系分離主義者の制圧に手を貸してほしいというフィリピン政府からの要請に応じて、ミンダナオ島の各地で反テロ活動を支援した。2007年には、フィリピン政府が米国との年次合同軍事演習をダバオで行うことを示唆した。


 これに激怒したドゥテルテ氏はダバオ市議会を説得し、米軍が市内で演習を行うことを恒久的に阻止する決議を可決させた。地元メディアによると、ドゥテルテ氏は議会に対し、「米国の兵士は私の市には要らない」と伝えたという。「米国人は傲慢さと偉ぶった考え方ゆえに、サダム・フセインを殺害しようとイラクに侵攻したが、結局、イラクを破壊しただけだった。われわれにはそんなことは起きてほしくない」

フィリピン大統領選でドゥテルテ氏は当初、支持者からの出馬要請を断っていた。翻意したのは昨年11月で、本人の話では、2012年まで米国国籍を保有し、当時の世論調査でトップだったグレース・ポー氏が当選することに耐えられなかったからだという。


 選挙期間中はやんわりと米国を批判するだけだったが、大統領に就任し、外国からの批判にさらされると、対応に変化が生じた。


 ラオスの首脳会議の場にいた人物によると、ドゥテルテ氏は100年前に米国が犯したとされる戦争犯罪をめぐってオバマ大統領を激しく非難した。会議場でフィリピン人の遺体の写真を掲げ、自分の先祖だと説明したという。


 ドゥテルテ氏が用意された原稿から逸脱して感情を爆発させることについて、側近の一部からもとまどいの声は上がっている。

 ある広報担当官はこう話す。「私たちにできるのは演説原稿を書くことだけ。大統領に原稿を読ませることはできない」