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前回までは、明治神宮の表参道の街並みとその周辺の街並みを観察しましたが、今回からは、浅草寺と浅草神社が産んで町民が育てた淺草の街並みを観察します。
明治神宮は大正時代に建立された新しい神社でしたが、浅草寺は関東でも最古の寺でして、平安時代の初期に創建し、江戸時代には徳川幕府の庇護をうけて、関東の観音霊場として多くの参詣者を集めました。また、浅草寺の境内には浅草観音像を隅田川底から拾い上げた漁師たちを祀った浅草神社があり、これは江戸町民と東京市民を熱中させる三社祭りの神社です。 (写真1、2、3) 深川に住んでいた芭蕉は花曇りの空を見て、「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と詠みましたが、この句で芭蕉は上野寛永寺と浅草寺の鐘の音(ね)を対比させながら上野の山で花見をする武士たちと、隅田川の川縁で花見をする町民たちを思い描いていたのでしょう。 江戸時代、武士は70%の土地を占拠し、残り30%の土地を寺社と町民で折半して使うという状況でしたから、城下町の住宅の密集度はかなり高いものでした。それは一旦火災が起きると城下町は延焼して大火事になっていたことで分かります。 浅草は、神田、日本橋という江戸中心部の下町とは違って、当時は江戸市街地の郊外に当たりましたが、少し北には吉原という花街もありましたから、浅草界隈は早くから開けた賑やかなところでした。 多くの町民たちが参拝と行楽を兼ねて集まった浅草寺と浅草神社の周辺は、時代が江戸から明治に変わっても、東京市民を惹きつけました。昭和も戦前までは、ここは浅草街区として東京の娯楽の中心地として賑わいました。 今回取り上げる浅草街区の範囲は、東は江戸通り、西は浅草国際通り、南は浅草通り、北は言問通りの4本の大通りに囲まれた地域です。 浅草街区の中の街並みを観察する前に、この浅草街区を仕切る4本の大通りを概観しましょう。 江戸通りは、江戸時代には江戸城を常盤橋門から出て、奥州街道と日光街道につながる幹線道路でした。そして又、江戸市中から浅草寺参りに行く道でもありました。現在の江戸通りは、東京駅北口近くの永代通りから分かれて北上し、言問橋西で右折して水戸街道に通じる道となっています。江戸通りは、昔も今も江戸と東北地方を繋ぐ幹線道路です。なお浅草街区の東側を走る江戸通りは履き物商店街となっています。 (写真4) 浅草国際通りは、江戸通りが蔵前通りと交わる交差点で江戸通りから分岐して北上し、浅草通りと田原町で交差し、更に北上して日光街道と明治通りが交わる三ノ輪交差点までの道路です。武蔵野段丘の東端になる上野の山と隅田川に挟まれた江戸市中の広い平坦地の中央部を南北に通じる幹線道路です。 (写真5) 国際関係とは縁の無いこの通りに、「国際」という名前がついているのは、浅草という行楽の街に由来します。いま浅草ビューホテルのある場所には嘗て女剣劇や喜劇が上演された浅草国際劇場があったから、その名前を残したのです。 (写真6) 浅草通りは、駒形橋の袂から西に向かって田原町で浅草国際通りと交差し、更に西へ進み、上野駅前で中央通りと昭和通りの交差点に合流する道路です。芭蕉の俳句にあるように、江戸時代の行楽の二大拠点、上野と浅草を結ぶ基幹道路でした。 (写真7) 言問通りは、上野入谷から言問橋へ至る通りですが、東京湾の湿地帯が内陸部深く広がっていた江戸時代には、江戸から下総(千葉)へ行く重要な道でした。言問通りは浅草寺のすぐ裏を通っているので浅草観音堂裏通りとも言われていて、この道路の北側奥には江戸時代には芝居小屋がありましたが、今も料亭や観光施設があります。 (写真8、9) これら4本の大通りで四方を囲まれた浅草街区のほぼ中心部に、浅草寺と浅草神社が鎮座するのですから、浅草街区は典型的な寺社街区です。 次回以降、この浅草街区の中にある主な街路を観察していきます。 なお、このブログでは既に浅草について次の通り4回取り上げています。 浅草 江戸町民が築いた下町(2012.09.20) 浅草 娯楽の街の伝統は続く(2012.09.30) 浅草寺は大きな人寄せセンター(2012.10.09) 浅草にしかない個性的街並み(2012.10.16) これらは夫々題名にある視点から浅草をご紹介したものですが、今回は街並みの外観を観察する視点からご紹介するものです。 (以上)
写真7 浅草通り 中層ビルが並ぶ浅草・上野を結ぶ大通り 人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。 人気ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.03.13 15:04:13
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