ホビーアニメを観ていたらいつの間にかアホになっていた

現在放送中の子ども向け番組を中心に、アニメや特撮ドラマについて書いていく。毎話「感想」を書くわけではなく、気になった話数や一般的な議論に関する記事を書く予定だ。

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プリズムエリートと自由をめぐる闘争

ファンの自由を脅かしかねない勢力について

プリティーシリーズ*1のファン・通称「プリズムエリート」内で自由をめぐる闘争が起きている。ここでは、この記事では、その問題を整理したい。

 

(以前の記事で事実関係が間違っているという批判があったので、一部を書き直すつもりだったが、結果的に全部書き直したので新しい記事になっている。)

 

www.ajo-biani.com

 

 

 

 

二項対立ではない

信者VSアンチではない

議題は「過激なファンをどうするべきか?」とするのが適当だろう。そうしたファンに対して「信者」と「アンチ」という用語を使うこともあるが、今回はそのような二項対立ではない。どちらかといえば、ファン全体の中に程度の強いものがいて、トラブルの元になっていると表現するのが正しいと思われる。

 

作品間の抗争は激しくなかった

最近のファン界隈では、プリティーリズムシリーズの作品に優劣をつける風潮はあまり観られなかった。もともとプリティーリズムは監督が菱田正和氏と菱田マサカズ氏の2人だけであるため、前作の監督を叩いて現行作の監督を持ち上げるというような行為はなかった。ただ、不適切な対応などがあった場合に批判するようなことはあった。


脚本家に対する批判もそこまで多くなく、サブの脚本家の中には殆ど注目されない人もいる。韓国側のスタッフについては全く名前が上がらない。人気のないコンテンツはアンチも増えないという迷信があるが、まさにそのような感じだった*2


しかし、キンプリが登場したことで、男子作品・女子作品それぞれへの拒否感というものは生まれている。新規ファンがキンプリ(と『プリティーリズム・レインボーライブ』)しか観ないことを嘆く既存ファンもおり、全部観てほしいという声も高まっていた。(レインボーライブを下げて他作品を上げることはしない。)

 

スタッフへの忠義は部分的

たしかに、旧来のプリリズ界隈はスタッフを使ってアニメを批判する信者VSアンチの構図はあまりなかったが、シリーズの継続を願ってスタッフに忠誠を誓う人はいたと思う。ただし、スタッフ自体を批判することはあった。スタッフの悪いところを知った上でファンをやっている人も多いはずだ。

 

必ずしも古参VS新参ではない

これは「古参」と「新参」の二項対立でもない。二項対立という全体的な風潮で語ってしまうと、キンプリから入ってプリリズにハマったファンや、女の子のプリリズは好きだがキンプリはダメなファンの立場がなくなる。


古参にも作品愛が薄い人*3がいるし、新参の中にも古参に勝る作品愛のある人がいる。修正前の記事ではあたかもこの二項対立があるかのような書き方だったが、それは間違っていた。むしろ、ファン全体の中に危険な人が何人かいるという想定の方がより適切だと思う。


平成ライダーやガンダムのようなコンテンツも、事情は違うが同じことが言えると思う。パイを二分する勢力の対立ではない。それから、業界では「層」で表現することが多いが、現実的には点の集合体と見た方が適切だろう。その点の集合を乱す存在が問題視されているのだ。

 

存在すると言われている勢力

キンプリには以下の4勢力が存在すると考えられる。ただし、全てを見ているわけではないので、全てが勢力として成立しているかはわからない。

 

親公式過激派

公式に従い、公式への批判を一切許さない勢力。キャラクターやスタッフを嫌うことも許さない。ファンである以上、シリーズの作品は全て観なければならないと思っている。新規ファンが知り得ない知識を披露して自慢することもある。


本編には旧作の技を使ってセルフオマージュや強弱の表現をするシーンがあるため、シリーズ全作を観ること自体には大いに意味がある。しかし、観なかったからといってそのシーンが全く理解できないわけではない。


SNS上で強引な勧誘をしている人もいるようだが、映画館から出てきた全く知らない人に「キンプリ面白かったでしょ? プリティーリズムも観てください」と、あなたは直接言えるだろうか? 程よい距離感を取らないと、アパートに訪ねてくるなんとかの証人よりも悪質になる。強引な勧誘を受けた側の身にもなってほしい。

 

反公式過激派

一部のキャラクターやスタッフへのヘイトを声高々に叫ぶ。プリティーシリーズのいずれかの作品を観ない傾向にあり、女子もしくは男子を認めない。公式が舞台挨拶で細かい設定を披露しているが、自由な解釈が妨げられるためにそれを嫌う人もいるようだ。(特に男子について。)


自分が観ていないシリーズや支持しない設定はないものとして議論したり表現したりするため、一部で批判が集まっているらしい。たしかにプリティーリズムは男女の恋愛や人間関係を描いてきたので、BL・GLの各表現には限界があるかもしれない。


そういう人が存在すること自体は全くもって悪くない。しかし、自分の想定を他者に押し付けてしまうと、迷惑になる可能性が高い。断りのある同人誌など以外では解釈違いというよりも「解釈間違い」になってしまうので、批判は必至だろう。

 

応援上映急進右派

応援上映を勝手に支配する仕切りたがりな人々。決まったコール・ペンライトの色しか認めず、マスゲーム化している状態を作り出す。もちろん、日本人の性質上、周りに合わせたいという気持ちは個人個人にあるのだろうが、勝手に音頭をとる(「せーの」「回想入ります」など)人もいるようだ。


ネットメディアやSNSで情報交換が活発に行われることもあり、また応援上映に関する公式本も出ていることから、サイリウムの色の参考例や面白かった応援の例は存在する。しかし、それは絶対ではない。


このように、決まった応援を強要する人がいれば、ファンの言論の自由・表現の自由が侵害される恐れがある。本編の言葉を借りれば、プリズムの煌めきが失われかねない。

 

応援上映急進左派

応援上映における自由を履き違えている人々。表現の自由を盾に、キャラクターに心ない言葉を浴びせたり、不快な言葉を飛ばしたりする。もちろん、応援上映における自由は最大限保証されるべきだが、1人の自由のために誰かの自由を犠牲にすることは、許される行為ではない。


作品をよく知らずに、誤解して心ない言葉を発する場合もあるようだが、作品をよく知るファンがそういう野次を飛ばしてしまう場合もある。必ずしも新参だから、古参だからというわけではない。


自由は無限ではないし、社会が成熟するに従って自由に関するルールや慣習は作られなければならない。無限の自由を主張する人がいると、かえって自由を規制してしまうことになる。作られたルールは潔く受け入れるべきだ。

 

どのような解決が考えられるか?

ここまで説明してきたように、過激なファンによって、ファンの自由が脅かされている現状がある。もちろん、我々は芸術作品を観て様々なことを思うのだが、それについて他人に共感を強要したり、ひとつの統一された解釈を強制したりするのは好ましくない。作品の中には事実があるわけであり、それを(自分の解釈の中ではなく直接)歪めることは許されない。


同様に、応援上映という自由な言論・表現の場において、自分勝手な制限を設けたり、他者の自由を奪うような表現をすることは間違っている。そのような勢力が生まれてくる背景には様々な事情があると思うが、そこまでは掘り下げない。むしろ、現状を打破する方法を考えたい。

 

2017年版の公式ファンブック

新規ファンの中には情報が欲しくても得られない人がいる。既存ファンであることが武器になるのは、新規ファンが知らない情報がある場合だけである。すでに公式本はいくつか出ているが、再販するか、2017年版のものを作り、情報の非対称性を解消することが求められる。


ちなみに、『KING OF PRISM by PrettyRhythm』の時には、応援上映の公式ガイドブックも発売されている。もちろん、それが原因でどの応援が正義だという論争も起こっているわけだが、「自由にやってください」と言うのもまたガイドである。


『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-』は画一的な応援がしづらい構成にはなっているが、テンプレートがないから萎縮するのではなく、感じるままに自由に応援してほしい(もちろんルールの範囲内で)。

 

Wikiサイトなどの充実

公式で扱いきれない情報に関しては、ファンが流していくしかない。特に、公式で黒歴史化されている情報もあると思うので、非公式という立場は重要である。

 

柔らかな勧誘と柔らかな拒否

勧誘するにしても、拒否するにしても、礼儀というものをわきまえるべきだ。突然FF外から失礼せず、突然過激なヘイトスピーチを書き込まない。前述の通り、初対面の人にいきなり勧誘したら新興宗教以上のものだし、逆に誰かにものを勧められたときに「嫌です!」と強い口調で断ったら、「なんだこいつ」と思われる。


ネット上ではネットマナー・ネチケットが原則であるが、それが忘れられつつあるように感じる。誰かの悪口を書くにしても、それはネット上に公開されているわけで、公益性がない場合は訴えられても仕方ない。FF外から失礼して勧誘する行為に関しても、ストーカー規制法が強化されているので、やりすぎには注意したい。


具体的な勧誘方法としては、絵を描くなり、ブログに書くなり、受け手が再発信しやすい方法が好ましい。まさか「観ないでください」と出張してくるアンチは居まい。

 

公式設定と非公式な「解釈」の切り分け

前述のように、一部では「本編でAとBが付き合っていることが許せない」「CとDが結婚したことが許せない」というようなことを言っている人はいる。でも、それについて公式に理不尽な追及をすることは、表現の自由の侵害である。


「理由づけが不十分ではないか?」なら立派な批判になるが、「AとBをくっつけた脚本家は許さない」だと人格否定に繋がる恐れがあり、議論としてフェアではない。


いっそ、「AとBが付き合っていることに納得がいかないので、自分で別のストーリーを考えました」と公式に送りつけた方が堂々としていてよいと思う。


ただし、ネット上や同人イベントでそうした作品を扱う際は、そのような設定であることを明記しないと、批判を浴びることになるだろう。地雷除けはエチケットだ。

 

 

最後に、プリティーリズムというコンテンツは、すべての人に開かれているのであり、一部の人が独占して楽しむもの、他の人がアクセスできないものであってはならない。

*1:プリティーシリーズは、2010年に女児向けアーケードゲームが稼働し、2011年にアニメが開始。「プリティーリズム(プリリズ)」ブランドは2014年に一旦終了するが、1年半後の2016年に男子キャラクターのスピンオフ映画が作られた。

*2:『プリティーリズム・ディアマイフューチャー』に関しては、韓国人のキャラクターが出てきたことから叩かれたようだが、韓国のスタッフが参加し続けている後継シリーズはなぜか叩かれない。

*3:例えば、「プリリズのアニメをちょっとだけ観てたので、キンプリも観にきました」という人。

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