「グレイテスト・ショーマン」感想~興行としての映画~ | 怪獣堂ブログ-HOBBY BLOG-

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なんとか、ようやく、時間をとって鑑賞できました、「グレイテストショーマン」。


感想から言ってしまえば、もうね、やられました。
冒頭、ヒュー・ジャックマンが逆光でポーズを決めた瞬間から、高揚の涙を流さなかった時間の方がカウントできます。

本国では、”社会的道義”の観点から賛否が起こっている様ですが、それは”映画の評価”とは違う次元の話だと思うので、今回は本文には入れていません。
(追記という形式にしましたので、読む読まないの選択は、読者様にお任せいたします)


歌をバックに、年数経過のモンタージュの見事さに涙。
プレゼントを空想の語りで贈る美しさに、涙。

なんで酒をくみかわしながらギャラ交渉しているシーンで泣いてしまうのか、疑問に思いながら涙。

もう、あとは観てのお楽しみの涙、涙、涙。
とくにあそこは・・・・・・

 

 

↓もう予告編からアガります!【グレイテストショーマン予告編】

 


涙・・・って、切なさやキュンとくる描写で流すのは簡単ですが、高揚の涙を流させるのは難しく、しかもそちらの方がすがすがしいときたもんだ。

とにかく、映画評論家が判を押した様に言う「ララランド」のスタッフが創ったとか、そういうのは他におまかせするとして・・・・・・

 

例えばセット一つとっても、生活感を損なうことなく、音楽とダンスのために計算された、無駄のないすばらしい構成。
セットが音楽を奏でると供に、生活(人生)は音楽なのだと映像で表現しているかの様で、すばらしい。

物語は、エンターテインメントを志した者なら、必ず名前位は聞いたことがあるP・T・バーナムの伝記・・・・・・というよりは、あくまでもモデルにしての、”ショービジネス”を題材にしつつ、”ハミダシ者”とされた社会の底辺の登場人物が、家族のための成功から、成功のための成功の迷走を経たりしながら、自分のいる場所を探していく内容。

観ている人、誰もがどこかで共感できる御話しになっているのですが
まさに、P・Tバーナムの "we've got something for everyone"(誰にでも当てはまる要素というものがある)という言葉に因んで名付けられた・・・・・・

バーナム効果な内容
まぁ、本当はバーナム効果って、占いとか、日本人大好き血液型診断とかのペテン的な内容につっこ・・・・・・

・・・・・・はさておき、その点でも、守備範囲が広く誰もが楽しめる、あっというまのランニングタイム。


題材もさることながら、先に記載したセットと音楽の連動効果なんかの兼ね合いもあって、すぐれた音響、大画面・・・・・・つまりは劇場で観ないと損をするのは間違いなしです。

DVDやBRは、劇場で見られなくなってからの仕方なし、のリピーティング用にすぎない、と断言できます。
(まぁ、大抵の映画というのはそういう物だとは思うのですが・・・・・・)

ところで、本編の中でバーナムが言う「たまには本物をみせたくなった」・・・
ある映画でも同じ台詞が使われているのですが・・・・・・

「ジュラシックパーク」のハモンド社長の台詞です。


ハモンド社長もノミのサーカスから始め、ペテン師よばわりされながら、いつか本物の恐竜で世間を喜ばせたいと計画したのがジュラシックパークだった訳ですが(原作は、もうちょっと性格が悪い)、これは「恐竜を本物に見せることができないなら「ジュラシックパーク」は映画にしない」といったスピルバーグの代弁でもあったでしょう。

つまり、バーナムという興行師が「見世物」というショービジネスの基本を作ってからの、本作も含め、アメリカの(本来は、エジソンやリミュエール兄弟が、映写技術を発明し、やはり”見世物”としてから始まった)映画興行にもいかにもその精神が根付いているか、そして葛藤は続いているか、と考えさえられます。

ということで、この映画を評すなら・・・・・・
まさに”ショー”映画!
美しさ、楽しさ、すばらしさ、高揚感!
興行という視点に立ち返った、興行の体験映画!
 

なので、興行である以上は・・・・・・
くれぐれも、<劇場でご覧ください!


<文末に追記有>
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追記)
バーナムは、いわゆるフリークを”見世物”にすることで、興行を成立させていたことから、この映画にも賛否がある様ですが・・・・・・。

現実の世界では、社会的道義により”見世物文化”は世界から淘汰されつつある様です。
しかし、それにより、実は続けることを希望しながらも、職を失ってしまう人々もおり、しかしながら、”社会的道義”で彼らの職を奪った社会は、フォローを用意しているでもなく、いわば、彼ら以外の、まさに”彼らの露知らぬところで”彼らの人権保護を進めた結果、彼らの食べる手段を奪ってしまうという状況。

似た様な状況は、最近、アメリカのコールガールの廃止においてもおきていましたが・・・・・・

バーナムは金儲けの手段としても、彼らに”存在意義”と”生活する手段”を与え、社会は人権を守りながら”人並みに生活する手段”を奪う。

その実情も見ず解決せず、人権を論ずる道義的とか正義って、何なのでしょうか?

ただ、間違いないのは、真に成否を選ぶべきは、”本人たち”であり、彼らの”存在”や”権利”を、一方的に、私たちが自分たちの価値観で推し量ることこそが、最も恐ろしい差別、なのではないかと思うのです。

少なくともこの映画の評価を”社会的道義”の観点から論ずるのは、本編の中で暴動を起こした人たちと、本質はなんら変わらないのでは?と思ってしまう訳です。