図々しい「よだか」は星にはならない | A Humanitarian Philanthropistのブログ

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弱い者いじめ、差別主義、排他主義、民族主義、排外主義的愛国主義、独善主義に断固反対し、今の社会の在り方や世界観や生き方に、ちょっとだけ新たな視点を提示するブログです。

宮沢賢治の童話の一つに「よだかの星」という童話があります。

よだかは、鷹という名前はついていますが鷹ではなく、その醜い姿ゆえに皆から馬鹿にされ笑われ、親切にした相手からさえも嫌われます。そして、本当の鷹からは、そんな醜い姿で鷹を名乗るな!鷹の名が穢れるとして、明日までに名前を変えて、その変えた名前を皆に知らせないとお前を殺すと宣告されます。

よだかは自分は何も悪いことはしていないし、むしろ親切にしているのに、その相手からも嫌われてしまう。そして、鷹からは無理難題を言われて殺すと脅されている。よだかは途方に暮れて飛び回っていると大きく開けた口の中にカブト虫が飛び込んできます。カブト虫は自分の口の中でバタバタともがき苦しんで悲鳴を上げて死んでいきました。

その時に、よだかは気づきました。自分は何も悪い事はしていないのに毎日皆から酷い目に合わされていると思っていたけど、実は自分もこうやってこれまで沢山の虫たちを殺してきたのだ。自分が生きていくために、毎日多くの虫たちが自分の口の中で悲鳴を上げて死んでいったのだと。

もうこんな酷いことは繰り返したくない。明日から絶食することにしよう。でも、その自分も明日鷹に殺されるかもしれない。皆から嫌われて馬鹿にされているような自分が、自分が生きていくだけで他の多くの虫たちを苦しめてしまう。そして明日には鷹に殺されるかもしれない。自分は一体何のために生まれてきたのだろうか?

せめて、最後に何かの役に立ちたい。太陽に向かって飛んで行ってそのまま燃え尽きれば一筋の光ぐらいにはなれるかもしれない。よだかは太陽に向かって行きましたが、太陽から君は夜の鳥だから、星に頼みなさいと言われ、東西南北の星座それぞれに頼みますが、君のような身分の低いものが星になれるわけないと無下に断られます。

よだかは夜空に向かって何度も飛びましたが打ちひしがれて地上に落ちてしまいます。そして、ついに最後の力と全身全霊の思いを込めて再度飛び立ちます。そして、そのままどんどん空高く飛んでついには全身が光り輝き最後には夜空の星になることが出来ました。そして、その光は今も輝いているということです。

この物語は、数多くの宮沢賢治の童話の中でも最高傑作の一つだと思います。僕は、この童話は何度読んでも涙が出ます。とても、悲しくて、そして、とても美しいはお話だと思います。

人間も生きていく為には毎日沢山の他の生物を犠牲にしながら自分の命を保っています。菜食にしても本来子孫のために残したはずの稲や麦の種子を横取りしているのには変わりありません。

自然界においても、その姿をじっくりと観察すれば、毎日食うか食われるかの生存競争の繰り返しです。せっかく生まれた子供たちもその多くは他の生き物に食べられてしまいます。というか、初めから食べられるのが当たり前で運よく食べられなかった子供たちが生き残っていくようになっているとさえ言えます。正に弱肉強食の殺伐とした世界であり、皆が仲良く幸せに生きるなどという理想的な世界とは正反対の、残酷さと冷酷非情さに支配された恐ろしい世界であるとさえ言えます。自然界が一見美しく平和で素晴らしい世界に見えるのは、単にディテールが見えない、つまり、そのような冷酷非情な弱肉強食の生存競争の恐ろしい実態が表立って見えないからに過ぎません。

宮沢賢治は、そのような生の本質の恐ろしさ・非情さを物語を通じてこれでもか!という程、読者に迫ってきます。

ただ、そのような弱肉強食の恐ろしい生存競争の世界も、自分が犠牲者にならない限り、ずっと強者でありつづけることができれば、何も恐ろしいことは無いかもしれないし、現に地上最強の強者である我々人類は、毎日沢山の動物を殺し、牛や豚や鳥は当然のごとく殺し、伝統文化であると称して鯨やイルカまで殺し、同じくその国の食文化であるとして犬まで殺して食べる国もあります。

そのようなとてつもなく残酷なことが毎日行われていても、たまたま、自分達が、牛や豚が殺されていく姿や、鯨やイルカが血を流して殺されて行く姿や、犬が皮をはがされて食肉にされていく姿を見なくても済んでいるというだけの理由で、平気でそれらを食して楽しく暮らしているわけであります。宮沢賢治の童話の中に「注文の多い料理店」という作品がありますが、あれは人間が食べられる側に成った時の状況を描いた作品です。

人間は逆の立場にでも置かれない限りは、犠牲になっている動物たちの気持ちなど分からないだろうという厚顔無恥な人類に対する賢治の精一杯の皮肉だったのだと思います。

ただ、人類全員が、自分たちの為に他の動物たちが犠牲になっている事実に対して、何とも思っていない訳ではないことも事実です。お坊さんのご説法にあるように、だから「いただきます」と感謝の気持ちで頂くのです。という人々もいます。ただ、「いただきます」と言ったからといって、決して許されるわけでも正当化されるわけでもないことは言うまでもありません。

よだかの様に、虫たちが自分の口の中で死んでいくのを耐えられなくなり絶食しようと決心して、最後には星になるのは物語では美しい結末ですが、現実にはそうは行きません。

人間には自己中心的な心と他者を思いやる気持ちの両方がありますが、どっちかだけで100%などという人は殆どいないと思います。みんな半分半分ぐらいなのかもしれません。ただ、よだかのように他者に対する思いやりの気持ちが大きければ大きいほど、自分の生存のために、その他者を犠牲にしなければ生きていけないという事実は、耐え難い苦しみであり、真剣に考えれば考えるほど、申し訳なく、とても自分だけの幸せを謳歌する気には成れないと思います。

つまり、人間がそのような根源的苦しみから逃れて、ある程度幸せに生きていくためには、厚顔無恥でいるしかないということかもしれません。自分のために他者が犠牲になっていても、そんなことは気にせずに図々しく知らないふりをしてとぼけて生きていくしかないのかもしれないということです。

あのよだかも、もうちょっと図々しい性格だったら、星にはならずに、鷹のいないところにこっそり逃げてしぶとく生き残ったかもしれません。

しかし、そもそも、自らの生存を否定することにつながるような他者を思いやる気持ちというものは、なぜ人間は持っているのでしょうか?弱肉強食が自然の摂理であるとすれば、人間の持つそのような他者を思いやる気持ちは明らかに、自然の摂理に反するものであり、それを否定するものです。

自然の摂理に従って進化してきたはずの人類がそれを否定するような思いを持つに至ったということは、一体どういうことなのか?これは人類最大の謎であると言っても過言ではない大きなテーマであると思います。

残念ながら、年末のくそ忙しい時にこれを書き始めてしまったので、ここでとりあえず時間切れとなってしまいました。もったいを付けるわけではありませんが、この続きはまた来年ということで、皆さん、とりあえず、良いお年を!