ギャラリーRelic
芸術論的に、絵画をどう見るか。その考え方には、西洋絵画と東洋絵画で大きな違いがあると、前回書きました。
二柄先生によると、「いわば有の芸術の論理に対して無の芸術の論理というべきもの(P66)」程の相違があるわけですね。つまり西洋は有の芸術であり、東洋は無の芸術だという訳です。
この相違とは何なのでしょうか、
私の考えでは、それは四次元と五次元の違いと写るのです。
有名なフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」です。
まず明らかにわかることは、論理的だということですね。
西洋絵画は何を描くかと言えば、
自分の外にある、人や風景だということが出来ます。その、自分の外にある対象を目指して描き進んでいく訳ですね。もちろんこの態度は自我像や、自分の中にある心象風景に対しても、変わりません。
結局、それは自我から生まれるものを目指して描こうという姿勢があるのです。
そしてそこには空間と時間がある。つまり四次元から生まれる絵画という訳です。
それはまた、有の芸術と言えます。
この時「有」という意味は、己(自我)が有るとという意味です。
四次元の時空に己が有って、対象がある。その関係から絵が生まれるという考え方なのですね。
一方、東洋の絵画は、己の内にある衝動をそのまま絵にする。そこには、自分と対象という二面性はなく、二つは切り離されないまま一つとなって絵が生まれるのです。
(森田子龍)
この絵を描くためには、その瞬間に、一瞬のためらいも有っては成り立ちませんし、もちろん何かを見て描いてるわけでもありません。
修正することもありませんし、そもそもいのちの生きた軌跡に対して修正という概念すらありませんよね。
つまり作者の今・この時の動きがそのまま定着しているのですね。
それは、今、この瞬間に、自我を無にして全世界を受け入れ凝集させたようなもので、まさにそれは五次元絵画と言えるわけです。その時そこに存在するのは自我ではなく、宇宙そのものなのです。
したがってそれはまた、二柄先生いわれる無の芸術と言えるわけですね。
当然この場合の「無」とは、己が無いという意味だというのは、分かっていただけるでしょうか。
己が無いから対象もない。
すべては、五次元空間の中で螺旋をえがいて進むスケール軸と一つになるということです。
それは五次元空間の中で「吾は空なり」という悟りと共に生み出す芸術だと言えるのですね。
二柄先生の言葉を引用しますと、
無的主体(己)は時空を超える。単に時間・空間の二元に分割されないばかりでなく、時間的にも空間的にも限定されない。無はしかし、虚無でさえない。無は、どこにもないのである。かえってただ、どこにでも有るものに即して、現に在るものに即して、現れるほかはない。時間的空間的限定のうちに、いま・ここに現れるほかはない。それは、時間的空間的に限定されるということではない。時空をこえる一つの主体が、時空のうちに、即時随所に現れるということである。
(注)この時空の内的統一は、いうまでもなく三次元の空間に時間を加えた「四次元」ではなく、超時間的・超現実的な「異空間」でもない。
(P489~490 16~) (己)は私の挿入
この時空の内的統一とは、五次元空間に他ならないのです。
そもそも時空というのは、空間に時間の概念を加えた四次元なのです。その四次元は実は自我のスケールにおける世界把握なのですね。
しかし世界は自我のスケールだけで存在しているのではない。民族というスケールもあれば、銀河や素粒子のスケールもある。そのすべてのスケールを統一した自我、つまり無自我こそ、この絵を描いている主体なのであって、それが二柄先生の無的主体と呼ぶものなのです。
このように、二柄先生の芸術観は、東洋の禅の思想を積極的に受け入れ、人間の自我的存在から、宇宙的存在に軸足を移そうというものです。
そして、その思想は、もともとから東洋思想の根底にあるものであり、戦後、書芸術において顕著に表れたその端緒を二柄先生が見事につかまえられた。それが「東西美術史」としてこの世に残していただいた至宝なのです。
五次元として提唱する、スケールの概念から見るとき、その考察の秀逸さはいうまでもありませんし、存在を洞察する学者としての目に、どこまでも敬意をはらいたいと思います。
その上で、私は、芸術家としての目を添えたい。
つまり、作る側の人間として、先生の論理をどう超えていくのか。それが生きているものの課題だと思うのです。