のしてんてん「ナウイズム」 (F6号キャンバスに鉛筆、新聞紙)
この五次元を正しく認識することが出来れば、私たち人類は、この宇宙に争いの無い新しい文明を築くことが出来る。そう思うのです。
次元をひとつ得るということは、それだけの力をつかむということなのです。
昨日、ここまで書きました。
以下、引き続き、五次元の展望を書いてみます。
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スケールの概念は、私たちをひとつの宇宙に導いてくれます。
己の存在は。この一つの宇宙の一部分だという理解が得られるのです。
そこから見えてくる社会は、一人の個の中にある充足を第一とする社会です。それは時間文明からすれば時代に逆行する社会に見えるかもしれません。
そのことを私たちはしっかり意識しておかなければならないでしょう。無理な変革は社会に不要のあつれきを生みます。
時間文明から迫害の目を向けられる可能性だってあるかもしれませんね。
大事なことは自然の流れです。
時間概念のよいところを認めつつ、そこで傷ついた心を、五次元思考で癒す。
それが正しい五次元思考の使い方だと思います。
ありがたいことに、五次元は、対立より融和の思想が生まれやすい思考ですから、実際には、四次元社会のひずみである苦悩を五次元思考で救うという形で社会に貢献できると思われます。
五次元は宗教の描く神や覚醒の世界を、日常の感覚で触れることが出来る思考ですから、科学と宗教が並び立つように、四次元と五次元は互いに補完し合って理想の社会を目指すことは充分可能だろうと思えるのです。
私たち人類が時間を手に入れたように、五次元を手に入れることが出来るなら、
その時五次元は、人間に実在の大きさとその姿を見せてくれるでしょう。
そうなると、私たちは自分で自分の存在が見えてきます。
私たちの生死観が変わるのです。
私たちは、物の世界に属するこの身体を自分と思っています。その身体は、姿を変えながら時間旅行をしていますね。しかしそれが、老病生死を意味するものではないということを子供でも知る常識となるでしょう。
どこで私たちは誕生したのか、探すことは出来ませんね。どこまで遡っても、私のいのちがここから始まるという瞬間を観ることは出来ません。なぜならそれは存在しないからです。そして誕生しないものが死ぬわけもないのです。
ものの変化、無常の移ろいは、空間の波にすぎなかった。
「吾は空なり」という理解は、私たちの意識を人という執着から解放してくれるのです。
人が存在しなくなるのではありません。
この世に人として生まれた奇跡を存分に楽しむ。人類が己を知り、己の中にある至福を謳歌する社会が生まれるのです。
人がなぜ美しいものを美しいと感じるのか、音楽に心を許すのか、美しい話に感動を呼び起こすのか、深い香りに懐かしさを覚えるのか。
くつろいだ体になぜ糖蜜のような波動が生まれるのか、味わいの喜びがなぜ全身に広がるのか。
それらの秘密が、その時すべて解き明かされるでしょう。
しかし何度も言いますが、急いではいけません。
五次元は至福を見せてくれますが、手に入れさせてはくれません。そのことをよく認識しなくてはならないのです。
至福を力で捕まえようとするのは愚の骨頂で、そのとたんに私たちは時間思考にとりつかれます。五次元を知ったと言っても、その瞬間に修羅に身を落とすでしょう。
あるいは狡猾に、自分の心を隠してつかまえようとしても同じことです。
四次元と五次元の相克はどんな時にでも顔を出しますし、どんなに高い意識を持った者にも現れます。
欲を見せた途端、チャンネルは四次元に切り替わるのです。
ですから常にその意識を持たねばなりません。
至福はつかまえることが出来ないのです。握りしめた手をひろげ、至福の蝶がやってくるのを見守るだけです。
すると、その見守りが、実は至福だったと、私たちは初めて、その至福の中で理解するのです。
考えるな、感じろ…確か名俳優の言葉ですが、それを優しく表した内容に感謝です!
いつか、その境地の一端が見える日まで、歩んでみたいものです…。
素朴に己を誇りに思うこと。
それが自然に境地へ連れて行ってくれます。
己のすべて、嫌な面も含めて、それは大きな命に役立つ重要なメッセージと役割が与えられている。
そう気付いた日が、
おりしさんの思い描く境地だと思います^よ^
同じ大いなるいのちの一員として、おりしさんにメッセージを送ります。
より良い境地が見えます^よ^う^に^