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アントニオ修道院長   St. Antonius Abbas

2018-01-17 16:04:09 | 聖人伝
アントニオ修道院長   St. Antonius Abbas       記念日 1月17日


 今月の15日のくだりに述べた聖パウロ山修士の如く、ローマ帝国の迫害時代に、難を荒れ野に避けて、一人孤独寂静のうちに天主とともなる山修士生活を営んだ人は、他にも幾人かあったが、そういう人々を打って一丸として、協同的修道生活をはじめたのは聖アントニオ山修士であった。この故にこの聖人は又、協同的修道生活の師父もしくは太祖と呼ばれる事もある。
 聖アントニオは251年、上エジプトのコーマンに生まれた、家は裕福で、立身出世も望みのままであったろうが、浮き世のはかなさを悟った彼は、主の「完全ならんと欲せば、往きて持てる者を売り、之を貧者に施せ」という聖言を文字通りに実行しようと思い立ったのである。
 その内に両親も死んだので、彼は遺産の半ばを唯一人の妹に与え、彼女を信頼し得る人の手に託すと、自分は砂漠に退いて、或る老修士の教導の下に完徳への努力を始めた。かように修業を積む事しばし、アントニオは更に人との交渉を経つべく、恩師の許を辞してなおも砂漠の奥深く入り、墓穴を住みかとして労働と祈りの敬虔なその日を送った。
 然し「吼ゆる獅子の如く、食い尽くすべきものを探しつつ行き廻る」悪魔は、目の上の瘤とも言うべき熱心な彼を、その儘にはしてはおかなかった。或いは浮き世の快楽に対する想像や憧れを起こさせ、或いはかかる隠遁生活は己の力を顧みぬ無謀の企てで天主の聖旨に適う所以ではない、早く世間に帰るに若くはないというような考えを吹き込み、あらん限りの誘惑を試みて、彼の聖なる理想の実現を阻止しようとしたのである。
 そしてアントニオがその「闇の力」に負けまいと必死に祈れば祈るほど、悪魔は益々彼の心を乱すような醜い諸々の姿をその眼前に描き出し、時には彼を打擲し、長い間心身共に責めさいなんだのであった。けれども聖人は昼も夜も血みどろの闘いを続けて、いつかな悪魔の軍門に降らなかったのである。
 後ようようにして彼の胸に聖なる平安が立ち帰り、再び主イエズスの御姿が現れて、甘美な慰めを与え給うた時、アントニオが「主よ、あの恐るべき誘惑の間、御身はどこにおいでになったのですか。何故私をお見捨てになったのですか」と優しく怨ずるように言うと、主は答えて「アントニオよ、吾はあの誘惑の間、片時も汝の傍を去らず、汝の努力の程を見聞していた。最早安心するがよい、悪魔はこの後汝に対して決して手出しをせぬであろう」と仰せになったと言う。
 アントニオの為に生活の料を調えてくれたのは、彼の一人の友人であった。即ちその人はアントニオが造った道具などを町へ売りに行き、得た金で彼に必要な食物などを買い求め、残りは貧者に施すのであった。
 多分この友人の口から伝わったのであろうが、間もなく聖アントニオの感ずべき日常は世の人々に知られ、修道の希望に燃える青年達は相率いて彼の許に集い来たり、彼の指導を仰いだ。アントニオは一人行い澄ます隠遁生活よりも、共同生活の方が功績を積む機会も多く、天主の御旨に適う所以であると考え、ここに喜んで彼等の希望を容れ、その霊的師父となる事を快諾した。
 その中に311年マキシミアノ皇帝の迫害が勃発するやアントニオはアレキサンドリアに赴き、公に説教して人々の信仰を励まし、また獄にある信者等を慰問するなど、目覚ましい活躍をしたが、迫害が終わると共にまたもや砂漠に帰った。但し人を避ける為、わざともとの所には戻らず、秘かに険阻なコルチム山に隠れたのであるが、以前の弟子達は如何にしてか師の所在を知って再びその許に馳せ集まり、霊的の指導を請うたのであった。
 そればかりでない、この度は官吏や商人やその他さまざまの階級の人々が完徳の生活に憧れて、今はアントニオ山と呼ばれるようになったコルチム山へと集まって来た。そして彼の弟子達と共に修道にいそしんだ。アントニオの臨終の頃には、かような人々が実に五千人の多数に上っていたと伝えられている。また修道者になる事が出来ない人々迄も、彼の徳を慕って訪ねて来ては、霊魂上の相談を持ちかけたり、彼や弟子達の祈りを求めたりした。その中には実にコンスタンチノ大帝と二人の皇子も加わっていたとの事である。
 尤も大帝等は砂漠の中まで行く訳にはいかないので、手紙をもって聖アントニオの代祷と返書を請われたのである。聖アントニオはそれに対し正しき政治を行い、貧しき者を救済すべき事を進言したと言う。
 聖アントニオは104歳の高齢に達した時、アレキサンドリアの司教聖アタナジオを始め一般民衆の望みを容れてその町に行き、アリオ派の異端に惑わされた人々を帰正させる為に説教したが、その気高い風貌に接し、その道理ある言葉に感じ、真理の途に立ち帰った者は夥しい数に上った。かくて使命を果たした聖人は三度住み慣れた砂漠に帰り、間もなく立派な大往生を遂げた。時に行年105歳。遺骸は弟子達の手で懇ろに葬られた。

教訓

 聖アントニオが修道生活を世に紹介する召命を受け。「修道生活の太祖」と呼ばれるに至った事は既述の通りであるが、現代の生活ほど修道生活と対蹠的関係に立っているものはあるまい。かような時代に於いて我等信者は修道精神の必要を認めねばならぬ。勿論総ての信者が修道生活に入る必要はないが、完徳の途を世の人々に示すため、修道者となる人がなければならぬのである。聖書にある「受け容れるを得る人は受け容れるべし」との主の聖言は、即ち修道生活に対する御勧告に外ならない。かくてこの途に召された人々は天主の御恵みを豊かに賜って、普通の人に勝った聖い平安と幸福とを味わう事が出来るのである。


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