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タレンテスの聖ペトロ司教

2017-05-08 14:12:21 | 聖人伝
タレンテスの聖ペトロ司教        記念日 5月8日

 タレンテスのペトロほど成功した司教は他にないであろうが、また彼ほど司教職につくことをいやがった者もないだろう。

 ペトロの唯一の望みはシトー会の修道者になることであった。20歳の時にシトー会の修道院に入ったが、自分の両親と兄弟、姉妹にも修道院に入るように勧めた。そして30歳になる前にタレンテスの丘の新しい修道院の院長となった。ここで、ペトロはサヴォイの領主アマデオと共に病院を建て、それは山を越えて来る旅人のための宿舎ともなった。この病院で召し使いたちといっしょに人々の世話をすることを、ペトロは非常に好んだが、1142年にタレンテスの大司教に選挙された。シトー会はペトロの望むことは何でも受け入れることに決めた。

 ペトロの先任者は非常に無能力でしまりのない人だったので、退任させられたのであった。司教区は全く乱れていたので、ペトロはしぶしぶその刷新を始めて、自分の個人的感情に妨げられないように努力した。しかし、13年間大司教として任務を果たした後、逃げ出して、スイスのシトー会修道院にひそかに隠れた。

 しかし、1年たたないうちに発見されて、再び司教区に連れ戻された。そこでアルプスの山路を旅する人々のための宿舎を作ったり、収穫の少ない農夫たちにパンやスープを与えたりして奉仕した。

 また当時の対立教皇のことについても、ペトロは真の教皇アレクサンデル3世を支持し、偽教皇ヴィクトルがフレデリック・バルバロッサによって支えられている時でも、断固として信念を貫いた。なお1174年に、ペトロは教皇の要請で、イギリスとフランスの王を和解させようとしたが、それは成功しなかった。自分の教区に帰る途中病気になりフランスの東部ブザンソンの近くで亡くなった。1191年に列聖された。




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