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聖カリスト1世教皇殉教者  St. Callistus Pap. M.

2017-10-14 10:33:53 | 聖人伝
聖カリスト1世教皇殉教者  St. Callistus Pap. M.      記念日 10月14日


 キリスト教の初代に聖会を統治された教皇方は、殆ど皆殉教されたが、217年から222年までペトロの聖座に在ったカリストも、同様の運命を免れることが出来なかった。
 彼はローマ人に最も蔑視されていた奴隷階級に生まれたが、幸いにも主人はキリスト信者で、自分も聖教を奉じて人となった。その中でユダヤ人に邪宗門の信者と訴えられた為、サルディニア島に流され、そこの鉱山で鞭打たれつつ労役に服したが、過度の労働と日毎の虐待とは、いたく彼の健康を損ね、この分では遠からず生命を落とすであろうと我から覚悟を定めた位であった。所がちょうどその頃キリスト教に好感を持つ皇后マルチアの執り成しにより一同赦されることとなったので、彼も自由の身となってローマに帰ることが出来た。
 後カリストは時の教皇ゼフィリノにその才を認められ、叙階されて首席助祭となり、アッピア街道にある墓地の監督を命ぜられた。その墓地は今なお存し、彼にちなんでカリストのカタコンブと呼ばれ、有名になっているが、それはさておきカリストは、よくその任を全うしたので、教皇の信任はいよいよ厚く、聖会統治の補佐役に挙げ用いられるに至った。そしてついには、その崩御の後を受けて、217年16代目教皇に就任する栄誉を担ったのである。
 聖会の首領となって第一に彼がせねばならなかった仕事は、三位一体の教義に邪説を唱えるサベリオの異端との抗争であった。彼は聖教の尊厳を保つためサベリオを破門した。しかし猛烈にカリストに反対したのは、サベリオよりも寧ろ学識に富んだヒッポリトであった。彼はカリストの正しき教皇である事を否認し己を教皇なりと主張し、殊にカリストが初代教会に行われた厳しい贖罪規定を緩和した事を激しく攻撃した。けれどもこれは改悛した罪人に優しい態度を示し給うた聖主の御心に適うことで、真のキリスト教的精神の発露と言っても差し支えない。のみならずカリストとて寛大一方で罪に対する償いの必要まで否定した訳では決してない。それは彼が四季の大斉を定めた所にも明らかに窺われるのである。
 また彼が如何に当時の信者達の生活状態に通じていたかは、その結婚に関する規定を見ても知れよう。即ちその頃の信者は婦人の方に身分の高い者が多く、男子は反対に奴隷など身分の低い者が多かった。それで彼は従来許されていなかった奴隷の男子と奴隷でない婦人との結婚を新たに認めることとしたのであった。
 勿論かような定めもヒッポリトの攻撃の的とならずにはいなかった。しかしカリストは主キリストに倣い自分一個に向けられる非難や讒謗は黙々とこれを忍耐甘受し、却って敵の為に天主の御憐れみを願った。また彼は信者の司牧指導にも深く意を注ぎ、善き司祭を養成擧用するよう常々心がけていた。されば心ある人の彼に心服する者も少なくなく、222年ローマの帝位に即いたアレクサンデル・セヴェロがキリスト教に好意を寄せ、聖堂の建立を許可し、キリストの聖像を国の神々の像の列中に加えることを命ずるに至ったのも、大方教皇カリストの徳化の然らしめた所と考えられる。
 さてカリストは聖座にあること僅かに5年、輝かしい殉教の死を以てその最後を飾った。但しその次第は遺憾ながら詳かには知られていない、伝えられる所によれば、種々の責め苦を受けた後、監禁されていた部屋の高い窓から投げ落とされて殺害されたということである。

教訓

 聖カリストは身分賤しい奴隷の生まれであったが、後に教皇となり聖人となった。即ち聖母の讃美歌マグニフィカト中の「主は賤しき者をば高め給う」という聖言はここにもまた適用されるのである。さればたといこの世の身分は低くとも、決して絶望や卑屈に陥らず、目をあげて天国の世継ぎになることを思い、静かに永遠の光栄を待つがよい。


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