『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
5 アテネの民主政とソフィスト(賢者)
――ソクラテス――
1 アリストファネスの『雲』
ペルシア戦争より四、五十年前ごろ、アテネはペイシストラトスという僭主(タイラント=非合法的な独裁者)が治めていたが、そのころからしだいに商工業が発達し、文化にも見るべきものが生まれた。
貨幣がつくられるようになり、「アッティカ様式」といわれる陶器がさかんにつくられるようになって、アテネはギリシアの製陶業の中心地となった。これらの壺はイタリアや、黒海の沿岸などでもたくさん発掘されており、アテネの陶器が広く売られていたことがわかる。
ギリシアの壺には、神話伝説などや、日常生活の寸景(すんけい)などが描かれ、彼らが神様をどのような姿で考えていたかとか、どのような衣服をつけていたか、どのような髪型をしていたか、どんな愛情生活をしていたかなどなど、書物からはわからない、いろいろなことを具体的に知ることができる。
これらの壺絵には画工のサインがしてあって、アマシスとかエクゼキュアスなど三十名ほどの名が知られている。
サインがしてあることは、壺を買う人に、壺絵画家についての好みがあったことを教えている。
陶器はもちろん陶器そのものが商品として需要があったが、そればかりでなく、ギリシアの重要な輸出品である香油やぶどう酒の容器としても売られた。
こういう意味で、ギリシアでは陶器の製造販売と、商工業の発達とは密接な関係があった。
ペルシア軍がアテネ市に侵入し、破壊を行なったために、ペイシストラトス時代の建築や彫刻はみなこわされてしまった。
アクロポリスの神殿を飾っていた彫刻類の破片は、ペルシア戦争後、地中にうめ込まれて地ならしされ、その上に新しい神殿が建造された。
今世紀になって、アクロポリスの発掘が行なわれ、これらの損傷をうけた彫刻類がたくさんみつかった。
ギリシア彫刻というと、白い大理石像を思う人が多いだろうが、かつてはそれに彩色がしてあったのである。
長い年月のあいだに、彩色は消えてしまった場合が多い。
しかしアクロポリスの土中から発掘された彫刻類は、土中にあったために、美しい彩色をよく残しているものもあり、昔の姿を思わせている。
これらは今アテネのアクロポリス博物館に陳列されているが、それらを見ると、ペイシストラトス時代には、アテネの彫刻はまだ古拙(こせつ)な固さ(アルカイックという)を持ってはいたが、素朴な美しさを表現している傑作を生んだことがわかる。
アテネで劇の上演が盛んに行なわれるようになり、三大悲劇詩人(アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス)が現われたのは、ペイシストラトスより五十年ほどあとで、ペルシア戦争中から戦後にかけてのことだった。
しかしアテネで劇の上演をはじめたのは、ペイシストラトスだった。
悲劇よりおくれて、喜劇が発達し、アリストファネス(紀元前四四五~三八五年ごろ)という喜劇作家が現われた。
彼は四、五十編の作品を書いたが、今は十一編残っている。
その中に『雲』という作品がある。
アテネではディオニュソスの神様のお祭りのときに、劇の上演は国の行事として行なわれた。それはコンクール形式で行なわれ、喜劇の場合は、三人の作家が一編ずつ上演して競争した。
そして一等、二等をきめるのだが、『雲』は三等、つまりビリだった。
これから『雲』の筋をお話しするが、なかなかおもしろい劇である。これがビリだったとすると、一等のタラティノス作『酒瓶』や、二等のアメイプシアス作『コンノス』などは、どんなにすぐれた喜劇だったろう。
それらが失われてしまって、残っていないことは残念なことである。
『雲』は紀元前四二三年に上演されたが、現在残っている台本は、上演されたものに作者がそののち手を入れたものである。
主人公はストレプシアデスという田舎紳士である。
彼にはペイディッピデスというのら息子がある。
この息子は競馬きちがいである。
競馬きちがいといっても、当時は馬券があったわけではない。
自分で馬を買って、その馬に乗ったり、戦車を引かせたりして競争するのである。
なにしろ馬は高価だった。この劇には一二ムナ(五分の一タレント)の馬が出てくる。
当時一ムナあれば、最低五十日は暮らせた。
高価な馬に凝るのでペイディッピデスは借金だらけになり、せめて利息だけでも払えと、毎日借金取りにせめたてられる。
そこでストレプシアデスは、息子にソクラテスの塾(プロンテステリオン)にはいって雄弁術を学び、借金取りを追い払えという。しかし息子が断わるので、おやじは自分でソクラテス塾にはいる決心をする。
塾に行ってみると、ソクラテスの弟子(でし)たちはのみの足型をろうでとり、それを物尺(ものさし)にして、蚤(ノミ)は足の長さの何倍とぶかを調べたり、蚋(ブヨ)は口でなくのか尻でなくのかなどと論じている。
かと思うと体育場に出かけ、砂場に大きなコンパスで円を描いて、幾何を勉強するふりをして、ぬいである衣服をコンパスにひっかけて、ぬすんだりしている。
そして先生のソクラテスは、籠にのって、天井からぶら下がっている。
天文の観測をしているのだった。
「借金取りを追いかえす術を教えてくれれば、神々に誓ってお礼はします」とストレプシアデスがたのむと、「神々なんかいるか」と一喝される。
「では雷を使うのは」「それはゼウスではなくて、空の渦巻(デイノス)だ」と教えられる。
かんじんの雄弁のほうは、ストレプシアデスは老人で頭が固く、ぜんぜん覚えられず、トンチンカンばかり答える。
やはり若い息子でなくてはということになり、ペイディッピデスが、かわってソクラテスに弟子入りする。
そしてすぐ雄弁術をものにする。
息子がどんな議論にも勝てる雄弁術を手に入れたからには、ストレプシアデスは気が強くなり、払わなければ訴えるぞとおどかされても平気で、借金取りをみな追い払ってしまう。
「元金が払えなければせめて利息だけでも」といわれれば「利息とはなんぞや」とひらきなおり、「時が流れるにつれてふえる金だ」といわれれば「川がいくら流れこんでも海は大きくはならぬ」などと、先生のところでききかじりの議論で、借金取りをいいまかしてしまう。
こうして借金取りを追い払い、一杯のもうということになり、親子は酒盛りをはじめた。
ところが酒を飲みつつ歌うことになって、喧嘩(けんか)になってしまった。
父親がシモニデスとか、アイスキュロスなどの歌を歌えというと、「そんな古くさいものが歌えますか」と息子はエウリピデスの歌を歌ったための喧嘩だった。
つまり父親が謡(うたい)を歌えというと、息子がフォークソングを歌ったというようなところである。
喧嘩になったあげく、息子はおやじをなぐる。
「息子のくせにおやじをなぐる法はない」というと、
「ではおやじはなぜ息子をなぐってよいか」
「息子がかわいいし、息子のためを思ってだ」
「私もお父さんがかわいいし、おためを思うからです。それに老人は子供にかえるというじゃあありませんか」
「そんなことをいうと、おまえもいずれ息子になぐられるぞ。おまえも息子をなぐればよいのだ」
「もし息子が生まれなかったらどうします。なぐりそこなうといけないから、今のうちになぐっておきます」と、どういっても息子は負けていない。
くやしがった父親は、「これもみなあのソクラテスめが悪い議論を教えたのがけしからんのだ」と、ソクラテスの塾に出かけ、火をつけるところで劇は終わる。これが『雲』の荒筋である。
5 アテネの民主政とソフィスト(賢者)
――ソクラテス――
1 アリストファネスの『雲』
ペルシア戦争より四、五十年前ごろ、アテネはペイシストラトスという僭主(タイラント=非合法的な独裁者)が治めていたが、そのころからしだいに商工業が発達し、文化にも見るべきものが生まれた。
貨幣がつくられるようになり、「アッティカ様式」といわれる陶器がさかんにつくられるようになって、アテネはギリシアの製陶業の中心地となった。これらの壺はイタリアや、黒海の沿岸などでもたくさん発掘されており、アテネの陶器が広く売られていたことがわかる。
ギリシアの壺には、神話伝説などや、日常生活の寸景(すんけい)などが描かれ、彼らが神様をどのような姿で考えていたかとか、どのような衣服をつけていたか、どのような髪型をしていたか、どんな愛情生活をしていたかなどなど、書物からはわからない、いろいろなことを具体的に知ることができる。
これらの壺絵には画工のサインがしてあって、アマシスとかエクゼキュアスなど三十名ほどの名が知られている。
サインがしてあることは、壺を買う人に、壺絵画家についての好みがあったことを教えている。
陶器はもちろん陶器そのものが商品として需要があったが、そればかりでなく、ギリシアの重要な輸出品である香油やぶどう酒の容器としても売られた。
こういう意味で、ギリシアでは陶器の製造販売と、商工業の発達とは密接な関係があった。
ペルシア軍がアテネ市に侵入し、破壊を行なったために、ペイシストラトス時代の建築や彫刻はみなこわされてしまった。
アクロポリスの神殿を飾っていた彫刻類の破片は、ペルシア戦争後、地中にうめ込まれて地ならしされ、その上に新しい神殿が建造された。
今世紀になって、アクロポリスの発掘が行なわれ、これらの損傷をうけた彫刻類がたくさんみつかった。
ギリシア彫刻というと、白い大理石像を思う人が多いだろうが、かつてはそれに彩色がしてあったのである。
長い年月のあいだに、彩色は消えてしまった場合が多い。
しかしアクロポリスの土中から発掘された彫刻類は、土中にあったために、美しい彩色をよく残しているものもあり、昔の姿を思わせている。
これらは今アテネのアクロポリス博物館に陳列されているが、それらを見ると、ペイシストラトス時代には、アテネの彫刻はまだ古拙(こせつ)な固さ(アルカイックという)を持ってはいたが、素朴な美しさを表現している傑作を生んだことがわかる。
アテネで劇の上演が盛んに行なわれるようになり、三大悲劇詩人(アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス)が現われたのは、ペイシストラトスより五十年ほどあとで、ペルシア戦争中から戦後にかけてのことだった。
しかしアテネで劇の上演をはじめたのは、ペイシストラトスだった。
悲劇よりおくれて、喜劇が発達し、アリストファネス(紀元前四四五~三八五年ごろ)という喜劇作家が現われた。
彼は四、五十編の作品を書いたが、今は十一編残っている。
その中に『雲』という作品がある。
アテネではディオニュソスの神様のお祭りのときに、劇の上演は国の行事として行なわれた。それはコンクール形式で行なわれ、喜劇の場合は、三人の作家が一編ずつ上演して競争した。
そして一等、二等をきめるのだが、『雲』は三等、つまりビリだった。
これから『雲』の筋をお話しするが、なかなかおもしろい劇である。これがビリだったとすると、一等のタラティノス作『酒瓶』や、二等のアメイプシアス作『コンノス』などは、どんなにすぐれた喜劇だったろう。
それらが失われてしまって、残っていないことは残念なことである。
『雲』は紀元前四二三年に上演されたが、現在残っている台本は、上演されたものに作者がそののち手を入れたものである。
主人公はストレプシアデスという田舎紳士である。
彼にはペイディッピデスというのら息子がある。
この息子は競馬きちがいである。
競馬きちがいといっても、当時は馬券があったわけではない。
自分で馬を買って、その馬に乗ったり、戦車を引かせたりして競争するのである。
なにしろ馬は高価だった。この劇には一二ムナ(五分の一タレント)の馬が出てくる。
当時一ムナあれば、最低五十日は暮らせた。
高価な馬に凝るのでペイディッピデスは借金だらけになり、せめて利息だけでも払えと、毎日借金取りにせめたてられる。
そこでストレプシアデスは、息子にソクラテスの塾(プロンテステリオン)にはいって雄弁術を学び、借金取りを追い払えという。しかし息子が断わるので、おやじは自分でソクラテス塾にはいる決心をする。
塾に行ってみると、ソクラテスの弟子(でし)たちはのみの足型をろうでとり、それを物尺(ものさし)にして、蚤(ノミ)は足の長さの何倍とぶかを調べたり、蚋(ブヨ)は口でなくのか尻でなくのかなどと論じている。
かと思うと体育場に出かけ、砂場に大きなコンパスで円を描いて、幾何を勉強するふりをして、ぬいである衣服をコンパスにひっかけて、ぬすんだりしている。
そして先生のソクラテスは、籠にのって、天井からぶら下がっている。
天文の観測をしているのだった。
「借金取りを追いかえす術を教えてくれれば、神々に誓ってお礼はします」とストレプシアデスがたのむと、「神々なんかいるか」と一喝される。
「では雷を使うのは」「それはゼウスではなくて、空の渦巻(デイノス)だ」と教えられる。
かんじんの雄弁のほうは、ストレプシアデスは老人で頭が固く、ぜんぜん覚えられず、トンチンカンばかり答える。
やはり若い息子でなくてはということになり、ペイディッピデスが、かわってソクラテスに弟子入りする。
そしてすぐ雄弁術をものにする。
息子がどんな議論にも勝てる雄弁術を手に入れたからには、ストレプシアデスは気が強くなり、払わなければ訴えるぞとおどかされても平気で、借金取りをみな追い払ってしまう。
「元金が払えなければせめて利息だけでも」といわれれば「利息とはなんぞや」とひらきなおり、「時が流れるにつれてふえる金だ」といわれれば「川がいくら流れこんでも海は大きくはならぬ」などと、先生のところでききかじりの議論で、借金取りをいいまかしてしまう。
こうして借金取りを追い払い、一杯のもうということになり、親子は酒盛りをはじめた。
ところが酒を飲みつつ歌うことになって、喧嘩(けんか)になってしまった。
父親がシモニデスとか、アイスキュロスなどの歌を歌えというと、「そんな古くさいものが歌えますか」と息子はエウリピデスの歌を歌ったための喧嘩だった。
つまり父親が謡(うたい)を歌えというと、息子がフォークソングを歌ったというようなところである。
喧嘩になったあげく、息子はおやじをなぐる。
「息子のくせにおやじをなぐる法はない」というと、
「ではおやじはなぜ息子をなぐってよいか」
「息子がかわいいし、息子のためを思ってだ」
「私もお父さんがかわいいし、おためを思うからです。それに老人は子供にかえるというじゃあありませんか」
「そんなことをいうと、おまえもいずれ息子になぐられるぞ。おまえも息子をなぐればよいのだ」
「もし息子が生まれなかったらどうします。なぐりそこなうといけないから、今のうちになぐっておきます」と、どういっても息子は負けていない。
くやしがった父親は、「これもみなあのソクラテスめが悪い議論を教えたのがけしからんのだ」と、ソクラテスの塾に出かけ、火をつけるところで劇は終わる。これが『雲』の荒筋である。