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柱の行者聖シメオン   St. Simeon Stylites

2018-01-05 01:31:56 | 聖人伝
柱の行者聖シメオン   St. Simeon Stylites            記念日 1月5日


 聖会の初代には厳しい苦行に従う山修士や修道者が沢山あった。それは自分の罪を償う為である場合も勿論あったが、大抵は若い時から正しい生活を送り、さほどの罪もない人々であったから、天主への聖愛より罪人や異教人を改心させる為の方が多かったのである。柱の行者聖シメオンもやはりそういう一人であった。
 この聖人は西暦390年頃シリアのシサンという所に生まれた。両親は農を業としていたので、シメオンも年少の頃はその手助けをしていたが、ある日父母と教会に行き、そこで「幸いなるかな泣く人、彼等は慰められるべければなり」及び「幸いなるかな心の清き人、彼等は神を見奉るべければなり」という聖福音の聖言を聞いて感動し、傍らなる一老人に「そういう幸福はどうしたら得られましょう?」と尋ねた。すると「修道院へ行くがよい」との事であったので、彼は即座に決心し「では私は修道院へ入ろう」と言うと、老人は「それは結構な事じゃ。然し例えば飢え乾きを凌ぐとか、夜眠らずにいるとか、人の軽蔑、讒謗、迫害を耐え忍ぶとか、何の慰めもない淋しさに打ち勝つとか、その苦労の並大抵でない事を覚悟しておいでなさいよ。真の幸福はそういう犠牲を払って始めて得られるのですから」と誡めた。
 然しシメオンは意を翻さず或る修道院を訪れ、その玄関の前で三日間少しも飲食せず且つ祈り且つ泣いていた。修院長がそれを怪しんで「お前は何処からか逃げてきたのか?それとも何か不幸にでも出逢ったのか?」と尋ねると、「いいえ、私は脱走した奴隷ではありません。ただ憐れな罪人ですから、救霊の得られるようなお力添えを願いたいのです」と答えた。それで院長もその一途な心を見て取って、ついに修道院に入る事を許した。
 さて修道院に入ったシメオンは、まだ若年の身であるにも拘わらず、早速その日から断食したり我が身を鞭打ったり夜も眠らなかったり、古参の修士も敵わぬ程の苦行を始めた。その上彼は従順や謙遜、祈りや隣人愛にかけても人の範とするに足る位すぐれていたが、他の修道士は彼の苦行をあまりに過激であると考え、却って会の戒律に背くものとして彼を修道院から追放してしまったのである。
 するとシメオンはその付近に空井戸のあるのを見つけ、厭うべき蛆虫が巣くっているにも構わずその中に入って、四十日間断食し絶えず祈り続けた。近くの修道院からこれを見かけたバッソと言う院長が「そういう自分の生命をそこなうような生活は天主の御旨に背くものである」と窘めると、彼は「それでは小さい庵を一つと小さいパンを十個、それに桶に一杯の水を下さいませんか。そうすれば必要な時に用いますから」と願ってその通りにして貰った。
 けれども彼は四十日の間何一つ飲み食いせずに通した。バッソ院長が行って見ると、彼は庵の中に横たわったまま死んだようにじっとしていた。で、院長がその唇を湿してやり、御聖体を授けると、シメオンは元気づいてむくむくと起き上がり、天主の御憐れみを讃美した。そしてこの時から彼は毎年、四旬節をこういう断食の中に過ごすようになったのである。
 三年の後シメオンは住み慣れた庵を出て付近の山に登り、その頂上に石で小さな庵を造った。が、それには屋根を葺かなかったので、彼の頭上はすぐに青天井であった。その結果として彼は雨や雪に悩まされ、殊に夏は激しい日光の直射に苦しめられた。然し彼はたとえそこを去りたい心が起こっても、立ち去る事が出来ぬように、長い鎖をこしらえて貰って、それで自分の片足を縛りつけておいた。
 ある日かねがね彼の噂を耳にしていたアンチオキアの司教が来られて、親しくその厳格な生活振りを見、感嘆せられたが、ただ鎖に就いてのみは非難の語気を漏らされた。それを聞くとシメオンは謙遜にその言葉に従い、早速その鎖を取り除いた。
 この山修士の名声は次第に天下に轟き渡った。然しそれは彼の厳しい苦行の為ばかりでは決してない。寧ろその愛の深さや謙遜その他の美徳の為であった。
 彼の言葉を聞いて改心した罪人は数え切れぬほどであった。また彼の祈りに由ってたちどころに奇蹟の行われることもあった。彼の祝福に病人は癒され、仇敵は和睦した。かくて彼を訪れる者の数は日毎にお多きを加えるばかりであった。
 シメオンは近隣の人々の為に、天主に選ばれた御摂理の道具であった。彼の説教を聞いてはシリア人もペルシャ人も、アラビア人もゲオルギア人もアルメニア人も夥しく改心した。そして彼等はめいめいにその福音を、己が故郷にもたらし帰るのであった。
 そこでシメオンは再び庵を捨てて、頂の広さが半畳敷きほどある一本の柱を立て、周囲には手すりを廻らし、大方はそこで日を過ごす事とした。訪問客があると、彼はその柱の上から、或いは天主の聖言を宣べ伝え、或いは悲しめる者を慰めた。しかも訪問の客は後から後からと絶え間なく、フランスやスペインのような遠方からさえ押しかけて来た。
 その中には時の東ローマ皇帝マルチアン陛下の微行姿も交じっていた。まして他の貴族や司教や学者などはしばしば彼の許に来て難問題の解決を求めた。聖女ジェノヴェーファさえ彼に祈祷を願ったと伝えられている。けれどもシメオンはいつも謙遜で従順で、かりにも思い上がるような事はなかった。
 嘗てエジプトの山修士等が数人の使者を遣わし、その異様な柱の上の生活をやめるように勧告したことがある。すると彼はすぐさまその言葉に従って地上に降り立とうとした。それを見た使者達は急いで押し止めた。
 「どうぞそのままに!私共はただ貴方の謙遜か否かを試したに過ぎないのです。」
 シメオンは名声とみに上がっても一人の時には絶えず祈った。その上断食その他の苦行を相変わらず続けた。しかし厳格な生活振りにも似ず彼はいつも楽しげであった。彼の面に充ち溢れている幸福と平和の光は、訪問者の心にも喜びを伝え、善徳の生活への憧れを燃やさずにはいなかった。
 ある金曜日の事である。彼は柱の上に深くうつむいたまま息絶えた。それとは知らず地上には、その日も多数の人が彼の勧告や祝福を請うべく詰めかけていたが、彼がその姿勢で祈っている事と思い、遠慮から敢えて傍に近づかなかった。けれども三日たってもその儘なので、ようやく怪訝の念を催す儘に、ついにアントニオという弟子が柱の上に登り、聖人の死を発見し、之を人々に告げ知らせたが、その時彼は「わが父よ、何故私を捨てて世をお去りになったのですか。何時私は御あとを慕って天国に行く事が出来るでしょう!」と叫んだという。
 その知らせを聞くや否や、アンチオキアの司教も役人達も均しく急ぎその場へ馳せつけた。彼等はその遺骸を大きい布に包んで柱の上から下ろし、或る聖堂の祭壇の前に横たえ、後之を葬ったが、その時あの柱の周囲には夥しい小鳥の群が、さながら聖人の死を悼む如く飛び回ったと言われている。まして世の人々が彼の訃報に接して嘆き悲しんだ事は言うまでもない。然し聖シメオンの英霊は今天国にあって限りない幸福を楽しんでいることであろう。


教訓

 聖シメオンのような厳しい苦行生活は何人にも真似が出来ないし、またそれは決して必要な事でもない。しかし自分の務めを日々忠実に果たし、万事を天主に委ね、しばしばよい覚悟で告白して罪の赦免を希う事は誰にも出来る。そしてこれこそ真の幸福に達する途に他ならぬのである。


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