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黒人聖ベネディクト証聖者  St. Benedictus a S. Philadelpho C.

2017-04-03 06:48:24 | 聖人伝
黒人聖ベネディクト証聖者  St. Benedictus a S. Philadelpho C.        記念日 4月3日


 聖書に「神には人就きて偏り給うが如き事なし」(ローマ人への手紙2-1)とあるが、その通り天主は誤り易い人智の判断とは異なり、その底の底まで見抜き給う全知のよしとする所に従って、聖寵を分かち与え給う。これから述べようとする黒人の聖ベネディクトなどもそのよき例の一つと言えよう。

 この聖人は1526年イタリアのメッシナ付近に生まれた。父も母も共に奴隷階級に属する黒人であったが
母は早く自由の身となり、かつその長男ベネディクトをも同様解放してもらう約束をした。身分こそ賤しかったものの両親はいずれも信心深く、我が子をも極めて敬虔な人に育て上げる事に成功した。

 さてベネディクトはやや長ずると、早くも牧童として牛や羊を守る仕事をさせられた。彼はその暇を利用してよく祈りや黙想をしたそしてそういう時聖霊は御自ら彼の知恵を照らし給うのであった。
 彼はまた謙遜の徳を実行する機会にも恵まれていた、何故なら他の羊飼い達は一方彼の敬虔なのに感心しながらも、他方その色の黒いこと、素性の賤しいことをいつもよい笑い種にしていたからである。しかし彼は非常な忍耐を以て一切を甘受した。そして依然誰にでも愛想良く親切に接した。かような彼の善徳は、天主の思し召しに適い、一層豊かな聖寵を呼び下すもととならずにはいなかった。18歳くらいになると、彼は耕作の為二頭の牡牛を買い入れた。ある日彼が畑を耕していると、近郷で名高い貴族出のランザという山修士が通りかかり他の百姓達がベネディクトをなぶりものにしている所を見てその人々をたしなめ「この人はいつかきっと偉くなって名前を挙げるに相違ない」と言った。それから二、三日たつと、先の山修士は再び畑を鋤いているベネディクトの所に来て「ここでそんな事をしていても仕方ない、牛などは売ってしまって私についておいで」と言った。ベネディクトはちょうど昔使徒達が主の召しだしを受けた時のようにすぐさまその言葉に従った。その山修士にはすでに他にも幾人か弟子があったので、教皇ユリオ三世はその一団を小さい修道会として認可された。人々はこの会員達の聖い生活振りに感嘆して、方々から教えを請いに来た。けれども会員達はむしろそれを迷惑に思い、祈りと黙想の邪魔をされぬ為、他の静かな場所に移った。
 が、そこも間もなく世間の人々に発見されずにはいなかった。その上ベネディクトの祈りにより不治の癌に悩んでいた病人が快癒してからは、その修道院を訪ねて来る人はいよいよ増加するばかりであった。
 で、修道者たちは又も静寂を求めて移り住まなければならなかった。その内に同会の創立者ランザが主のお召しを受けて帰天すると、人々はベネディクトを後任会長に選挙した。
 彼はその職に1562年まで留まっていた。が、その年教皇ピオ4世の命によりこの修道会はフランシスコ会と合同する事になり、ベネディクトはその平修士としてパレルモの修道院に移った。
 その修道院では戒律を厳守する他に、大斉もしばしば行われた、けれどもベネディクトは仲間の総てを凌駕する熱心を示し、しかも常に柔和で謙遜で明朗であった。受け持ちの仕事は料理の方であったが、彼は真面目にその務めを果たし、暇さえあればいつでも祈りに没頭した。折々は祈りに夢中になって、台所の仕事を忘れる事もあったが、そういう場合には不思議と天使が代わって食事の用意をしてくれるのであった。
 またある時は折り悪しく思わしい肴もなく料理の材料に困った。しかしベネディクトは失望せず、一心に天主の御助けを願って幾つかの桶に水を汲み入れた所、たちまちぴちぴちした魚が溢れるばかりにその中に現れ、人々の腹を満たしてもなお余りがあったという。かかる不思議は幾度となく起こった。天主はベネディクトの素直な心と深い信仰とをよみして、かくは特別な報酬を与え給うたのであろう。

 1578年彼はパレルモの修道院の院長に就任したが、それは院内の修士が一致して選挙した結果で、これを以ても如何にこの素朴な黒人が人々に尊敬されていたか察せられよう。彼は教育もなく読み書きも出来ない平修士であったけれど、学識ある司祭も名高い説教家も喜んで彼の命に従った。それはその聖徳が一切の人を心服せしめたからである。
 時として彼も説教せねばならぬ事があった。そういう時彼は聖書を正確に説明して人々に多大の感動を与えた。聴衆は聖霊御自ら彼の口を借りて語り給うのだとさえ思った。
 三年後彼は修練長になり、その務めをもよく果たした。彼は聖パウロの言葉の如く「衆人に対し如何なる者」(コリント前書9-22)にもなったのである。
 たまたま旅行に出る事でもあれば大変であった。世人は彼を聖人の如く敬い、一目でも顔を見たいと大挙して送迎するのである。その為彼は出発にいつも夜を選んだ。
 三年間修練長の任務を果たしたベネディクトは、謙遜にもその後は又台所に戻って再び一介の料理番となった。しかし依然として彼の助けを求めに来る渇仰者の群れは少しも後を絶たなかった。
 間もなく彼は身の衰えを感じ、その内に高熱を発した。彼は自分の死する日を預言した。そして正しくその日、即ち1589年4月3日に、涙と共に秘跡を拝領し、総ての人の赦免を求め、イエズス、マリアの聖名を唱えつつ翌4日安らかに帰天した。その日はあたかも聖木曜日に当たっていた。彼は今やパレルモ市の保護の聖人と仰がれている。

教訓

 聖主イエズス・キリストはかって「幸いなるかな心の貧しき人、幸いなるかな柔和なる人、幸いなるかな義に飢え渇く人、幸いなるかな心の潔き人」と仰せられたが、その通り聖ベネディクトはこれら一切の徳に優れていたので永福を蒙った。されば我等も天国の幸福を得んとならば彼に倣って徳を磨かねばならぬ。



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