カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

9-5 殷代の墓をほる

2017-07-02 11:09:48 | 世界史
『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年

9 殷王朝の都を求めて――殷墟の発掘史――

5 殷代の墓をほる

 殷墟の遺跡は、墓でも住居でも、掘りすすめれば、すすめるほど、人々の驚きをそそっていつた。
 それは、おびただしい人骨の出現であり、おそるべき人命の軽視であった。
 一九三四年の十月から、梁思永を隊長とする調査隊は、小屯の西北にあたる侯家荘から、東方の大司空村にいたる一帯をしらべた。
 そして翌年の十二月までに、三回にわたる大規模な発掘をおこなって、十の大墓と、千におよぶ小さな墓を発見した。
 なかでも一〇〇一号と名づけられた侯家荘の大墓は、墓室の面積が四六〇平方メートル、深さ一二メートル、まさに最大のものであり、さながら地中のピラミッドであった。墓全体の平面は「亞」という字の形をしている。
 ところが発掘をすすめてゆくうちに、すでに盗掘され、内部が荒らされていることがわかった。
 こういう大墓には、青銅器や玉器(ぎょくき)など、さまざまの精巧な工芸品が副葬されている。それを知った人々は、発掘隊のすきをねらって盗掘をはじめたのであった。数十人が一団となって、小銃などで武装したものまであった。 そうして盗みだした青銅器や玉器は、骨董商の手にわたされ、海をこえてアメリカや日本に売りさばかれたのである。
 さて墓は、地下ふかく墓室があり、そこに達するまで東西南北に、四つのひろい墓道がつくられている。
 南はなだらかな坂道だが、ほかの三方は階段であった。
 そして北の道と西の道とには、それぞれ一つの墓がつくられていた。
 これは殉葬(じゅんそう)者のための墓と考えられた。東の道にも殉葬者が発見された。
 しかし、ここで驚くのは、まだ早い。
 南の坂道からは、全部で五十九人分の頭のない人骨が見つかったのである。
 調査をすすめると、この南の墓道をうめてゆくとき、八組にわけて、首を切りながらうずめていったことがわかった。
 十五歳にもならぬ子供の骨も、四体あった。
 若い人たちは、背なかで両手をしばられたまま、首を切られていた。

 入口にちかいところには、おとながうずめられていた。手はしばられてはいないが、みなうつぶせになっている。
 そこで、首を切るときひざまずかせ、うしろから首を切ったものと推定された。
 墓室の中央は、盗掘されたときにすっかりこわされていて、こまかいことはわからない。いちばん底のところには七×六メートルの槨室(かくしつ)がつくられていて、そのなかに主人公の遺骸をおさめた木棺がおかれてあった。
 その棺の下には、さらに小さな穴があり、武装した兵士と犬とがうずめられていた。
 槨室の四隅と、墓室の四隅とにも、やはり兵士と犬とがうずめられている。
 墓室の床にも、殉葬の者がみとめられ、この大墓の全体には、七十三人分がうずめられていたことがわかった。
 ほかの大墓でも、ほぼ同じような状況である。
 一人の主人公をほうむるために、多数の人間を犠牲としてささげている。
 墓の大きさ、豪華さからみても、これらの大墓は殷王の陵墓に違いない。
 それにしても、なぜこのようにたくさんの犠牲をささげたのだろうか。わからない。
 おそらく死んだ王も、そのまま地上から去ったわけではなく、霊魂はどこかに残って、おそろしい力を発揮すると考えられたのであろう。
 殉葬者たちは、その死後も王の霊魂に仕えるようにと、ほうむられたものに違いない。
 霊魂は墓のなかで、生前と同じように生活できるようになっていたわけである。
 首を切られた人たちは、王の霊魂をいっそう力づよくするために、そなえられたものであろうか。
 この世へは二度と帰れないように、からだを分断されたのであろうか。
 ともかくこれらの人たちは、戦争による捕虜か、奴隷のような身分のものだったのであろう。
 死後にも一人前の生活をすることが許されていない。

 犬がうずめられているのは、どういうわけなのか。
 いろいろ考えてみると、犬はすべての動物のなかで、いちばん人間に親しんでいる。もっとも忠実である。
 また人間よりも目が見え、耳がきこえ、鼻がきく。
 むかしの人たちは、犬がふしぎな力をもっていると感じたのかも知れない。
 古代エジプトでも、犬は「アヌビスの神」とよばれ、死んだ人の霊魂を、あの世にみちびくものとされていた。
 殷代の人々も、犬は死んだ主人公の霊魂をまもり、かつ、あの世にとどける役目をはたすものと考えたのであろう。
 神にそなえものをすることを、漢字では「獻」「献」と書く。ここでも犬をささげたことが、字の上にあらわされている。
 ところで、侯家荘における大墓のまわりには、たくさんの小さな墓が、規則ただしく並べられてあった。
 そこに葬られたものは、頭がなかったり、胴体がなかったり、いずれも無残な骨ばかりである。
 大墓のなかにうずめられた犠牲の人たちの、のこりの骨をうずめたものもあろう。
 また王の死後、まつりをおこなったとき、あらためて犠牲にそなえられた人たちをうずめたものもあろう。

 そうして東方の小司空村や大司空村の一帯には、中型や小型の墓がずらりと並んでいる。
 中型の墓には、青銅器などを副葬したほか、数名の殉死者がうずめられていた。
 おそらく身分の高い人の墓であろう。小型の墓は一人をほうむっただけで、副葬品もおもに土器であった。
 青銅器を入れたものはすくない。これは平民の墓であろうか。
 いちばん粗末なものは、適当な穴をほって、むしろにくるんだ死体を入れただけ、それでも枕もとには、土器の盆がおいてあった。
 これは羊の足などを供えるための盆である。
 おもしろいことに、こうした中型や小型の墓にも、大部分のものには底の中央に穴をほって、やはり犬がうずめられてあった。
 墓にほうむったのは、人間や犬だけではない。馬だけの墓もあった。
 戦車と馬と大とを、あわせてほうむった墓(車馬坑)もあった。
 また、象の墓もあった。象と人(飼育者)とを、いっしょにほうむったものもあった。
 殷の宮殿には、象も飼われていたと考えられる。
 殷墟の墓は、じつにさまざまの問題を提供してくれたのであった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。