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13 暴君ネロと使徒パウロ

2018-04-22 17:28:10 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

13 暴君ネロと使徒パウロ

1 アウグストゥスの元首政

 クレオパトラの華麗で悲壮な生涯の幕が閉じられたあとには、彼女がユリウス・カエサルによって生んだカエサリオンと、アントニウスとのあいだに生まれた二男一女が遺(のこ)され、彼らの処置がオクタヴィアヌスに委(ゆだ)ねられた。
 ところがオクタヴィアヌスは意外にも、養父カサエルの血をうけたカエサリオンを殺し、政敵アントニウスの子である息子と娘は生かしておいた。
 ユリウス・カサエルの後継者であることを自覚している彼には、カエサリオン、すなわち小カエサルはじゃま者であり、アントニウスが滅んだあとは、その子たちには警戒の必要はないという、彼らしい感情ぬきの冷静な計算からの処置であった。
 しかし彼は養父カエサルの独裁政と、その悲劇的結末を再現するつもりはなかった。
 彼が紀元前二九年、ローマに凱旋した翌年にまず得たタイトルは、元老院の「プリンケプス(第一人者)」であった。
 これは元老院の議員リストの筆頭に名が記される地位で、共和政のしきたりのなかでのローマ第一の市民にすぎない。
 じっさい、彼は紀元前二七年には内乱平定のために委ねられていた大権を返還し、国家を元老院と国民の意志に委ねたと、のちに書き記し、共和政の再建をうたった。
 といっても彼にはスラのように大権を返上したあと引退してしまうつもりはなかった。
 いや、今ここで彼が引退したら、また混乱が起こることを見通したうえでの行動である。
 こうして彼はこの年、元老院と民会の決議によって、まだ治安が確立していないイスパニア、ガリア、シリアおよび彼自身がローマに併合したエジプトにおける軍隊命令権を十年間与えられた。
 が、属州は元老院と分けて統治されることになった。
 「アウグストゥス」という称号が元老院から彼(オクタヴィアヌス)に贈られたのも同じ年であり、こののち彼はこの名をもってよばれることになった。
 それは特別な権限をともなった官職ではなく、本来、神にも人にも適用される、尊厳さをあらわすタイトルにすぎない。
 しかしそれが「万人にまさる権威」となって、元老院の伝統的な権威にもまさるものとなった。
 アウグストゥスの称号とともに、凱旋将軍に一時的に与えられたインペラトルというタイトルも、永続的な栄称となり、この二つはともに、彼の後継者たちにも受け継がれるようになった。
 こうして彼は実際政治の運用のうえでは、共和政のしくみに則(のっと)った執政官や、執政官代行(プロコンスル)の命令権や、護民官職権を巧妙に活用して、政治の実権を保持した。
 つまり実際にこれらの官職につけば、同僚がおり、任期は一年ごとにくぎられるが、命令権や職権ならば、そのような制約なしに、実権を行使することができるからである。
 このようにして元老院の第一人者(プリンケプス)は日本語で「元首」と訳され、彼によってはじめられた政治体制は、「元首政」とよばれる。
 これは元老院と共同統治の形式をふみながらも、近代の立憲君主政よりもはるかに元首の権限が大きかったので、ふつうにはアウグストゥスのときからローマの帝政時代がはじまった、とされるのである。
 現に共和政の伝統のない東方属州においては、彼は皇帝であるばかりでなく、この世に平和をもたらした救世主として、神的な崇拝をうけるようになった。
 こうしてアウグストゥスは、元老院と協調の形式をとりながら政治の実権を握ってゆく体制をうちたてるとともに、社会秩序の確立にも心を配り、元老院議員、騎士、平民の三つの身分の資格や職能を定めた。

 しかしそれはインドのカーストのように固定したものではなく、有能な人物が上の身分に昇進する道も開かれていたし、逆に上の身分の者も破産したりして、その身分に必要な財産資格がなくなると、下の身分におとされた。
 また奴隷解放に制限を加え、ローマ的な道徳や宗教の振興をはかり、風紀を取り締まって結婚を奨励した。
 また帝国の防衛に当たる軍隊は、正規軍団と補助軍と近衛軍の三本立てにし、約三十万を数えた。
 正規軍団は軍隊の約半数を占め、イタリアと属州で、ローマ市民権をもっている者から徴募した。
 補助軍は属州民から徴募(ちょうぼ)し、二十五年の満期を服務し終わると、ローマ市民権が与えられた。
 近衛軍は数は九千人ばかりしかいないが、元首の親衛隊とし、首都ローマの治安の維持にも当たったので、地位がいちばん高く、その軍司令官にひきいられて政治上にも重要な役割を演じることとなった。
 ほかに首都には警察隊や消防隊が設けられた。
 このころ首都の人口は少なくとも百万を数えたが、イタリアでは十分な穀物が供給されないので、海外、主としてエジプトやアフリカから穀物を移入した。
 その食糧の輸送・管理・配給には特別に注意が払われ、都民に対する「パンとサーカス」のサービスも行なわれた。
 無料で食糧をうける人々の数は極力抑えるように努めたが、それでも、このカード階級が二十万もおり、奴隷の数約四十万を加えると、首都の人口構成が不健全なことがわかる。
 首都ローマには属州から流れこんできた人々も少なくなく、国際色豊かであるとともに、消費色の強い大都市であった。
 アウグストゥスが「煉瓦(れんが)の市街であった首都ローマをうけついで、大理石の市街をのこした」と自ら語ったというのは少し誇張があるが、とにかく、首都が整備され、美化され、その繁栄は世の終わりまでつづくものと考えられた。
 「永遠の都ローマ」という言葉ができたのも、このころからである。
 このようなローマ元首政、すなわち帝政を運営してゆく財源として、アウグストゥスは税制を整えた。
 直接税のおもなものは地租や人頭税で、属州民が負担し、間接税としては関税、奴隷解放税などがあった。
 このような課税や募兵を的確に行なうために、周期的に人口調査と資産評価がなされた。
 財政を管理する機関としては、元老院があたり、イタリアと元老院統治の属州よりの収入を受納した。
 「国庫(アエラリウム)」のほかに、元首管轄(かんかつ)の属州からの収入を扱う「金庫(フィスクス)」が設けられ、このほかに元首の広大な私領地の収入は、別に「カエサルの金庫」で扱った。
 このようにしてアウグストゥスが創始した元首政は、独裁政の印象を与えないで、しかも政治の実権を握って運用してゆくという、巧妙な政治体制であった。
 これが可能であったのは、アウグストゥス個人の実力と声望によることが大きく、必ずしも後継者の地位をも保証するものではなかった。
 元来、アウグストゥスの権力は元老院と国民より委託されたものであるから、後継者の選定も元老院と国民とに帰すべきものであった。
 しかし彼は、帝国の統治を安定させるために自ら後継者を選ぶことにした。


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