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12-8 アントニウスとクレオパトラ

2018-04-20 04:55:07 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

12 カエサルとクレオパトラ

8 アントニウスとクレオパトラ

 さてアントニウスは東方属州に勢力地盤を固めていたが、ここにクレオパトラとの関係が生まれた。
 クレオパトラはさきにカエサルに愛され、ふたりのあいだに生まれた子カエサリオンと、名目上のエジブト王にした末弟のプトレマイオス十四世を連れ、ローマに来ていたが、カエサルが暗殺されると、大急ぎでエジプトに帰った。
 そして末弟を殺し、カエサリオンを王にしたてて、天下の雲行きを眺めていた。
 すると当時アントニウスの名声が高くなってきたので、クレオパトラは彼の呼び出しに応じて、キリキアのタルソスで彼と会った。
 アントニウスは才色兼備のクレオパトラにうつつをぬかして、そのままエジプトの都アレクサンドリアに行き、この妖艶(ようえん)な女王とともにくらしたが、彼は懸案のパルティア征討には失敗して、多くの将兵を失った。
 この間オクタヴィアヌスは有能な部将アグリッパの助けを得て、紀元前三六年ナウロクス沖の海戦でセクトゥスを破り、西地中海の制海権を掌握し、まもなくレピドゥスを失脚させたのちは、イタリアと西部属州はすっかり彼の支配下にはいった。
 こうして三頭政治が崩れると、アントニウスとオクタヴィアヌスの対立はしだいにけわしくなった。
 このようななかで、オクタヴィアはアントニウスの裏切り行為をも咎めず、貞淑な妻としてオクタヴィアヌスとのあいだをとりなした。
 紀元前三七年、タレントゥムの和約で、アントニウスとオクタヴィアヌスは仲直りにこぎつけたが、これも長つづきはしなかった。
 アントニウスの態度は急速に冷たくなり、オクタヴィアが援兵をつれてギリシアまで来たのに、会うことを拒(こば)んだ。
 紀元前三四年には、彼はクレオパトラにローマの東方属州の重要な部分を与え、ローマ人に対する彼の裏切り行為が明らかになった。クレオパトラも「ナイルの魔女」とよばれて憎まれた。
 ついに紀元前二三年、アントニウスはオクタヴィアを離婚した。
 この年、アントニウスの遺言と称するものがオクタヴィアヌスによって発表された。
 彼が死んだら、アレクサンドリアでクレオパトラのそばに葬ってほしい、というのであった。
 ローマ市民の憤激はますます高まり、それは逆にオクタヴィアヌスに対する信望となって現われた。
 紀元前三一年、オクタヴィアヌスは宣戦を布告したが、それは形式上はクレオパトラだけに向けられていた。
 オクタヴィアヌス対アントニウス・クレオパトラは九月二日、ギリシア西北岸アクティウム沖の海戦で天下の覇権(はけん)を争ったが、勝敗はあっけなくついた。
 クレオパトラがひきいたエジプト艦隊は、戦いなかばに戦場から逃走し、アントニウスもそのあとを追ったからである。
 陸上にいたアントニウス軍はよく抗戦したが、もはや大勢をくつがえすことはできなかった。
 翌年勝ち誇ったオクタヴィアヌスがアクレサンドリアに迫ったので、アントニウスは自殺した。
 クレオパトラはもう一度、オクタヴィアヌスにとり入ろうとしたが、冷静な彼は心を動かさず、彼女をとりこにして、ローマでの凱旋行列に引きまわす気持ちのあることが知らされた。
 さすがにクレオパトラも誇り高いエジプト女王として、生きて縄目の恥をうけるよりはと決心し、農夫が運んできた無花果(いちじく)を入れたかごの中にひそませてあった毒蛇に、玉の肌をかませて死んだ。
 このようにしてヘレニズム東方諸国のうち、ただ一つ残っていたエジプトも滅ぼされ、ローマの地中海世界統一はまったく完成した。
 戦いのときにはいつも広く扉を開くことになっていたローマのヤーヌス神殿は、これまでほとんどいつも開いたままであったが、ここにその扉をしばらく閉ざすことになった。
 つまり対外戦争や内乱がつづいたローマに、はじめて平和がおとずれた。今こそローマ人は大地に足をふみならし、杯を高くあげて、喜び祝うことができたのである。



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