ども。
スクロール止まらない系ライターたわです。
さて。
家族にも等しかった、野良猫ウズくんが消えて1週間近く。
嫌が応にも、生と死を考えちゃうわけです
たとえば、部屋にゴッキーが「こんにちは」しても…
72年前の8月15日。
…私とは違う深さで、生と死を考える人々がいましたよね。
ふと思うんですよ。
人も犠牲になりましたが、動植物や昆虫も多大なる犠牲を払ったよね?と。
それこそ、何の罪もないのにね。
入れ物を持つモノは、すべからく滅びます。
しかも、死に際は選べないときた。
そしたらやっぱり、毎日どうやって生きようかな?て話になるわけで
ウズくんの調子が悪くなってから、ほぼ何も手につかなった私は…ここ数日は自己嫌悪だったんですよ。
まぁダメ人間やなーとね
しかし、そんな時もあるわけです。
鋼のハート持ってないし。
何も手につかないくらい、思い入れできる存在に出会えてたっつーのも、ある意味で幸運だと思うしね。
「自己嫌悪するより、お疲れさま会しよう(*´w`*)」て思った。
私は今、メルマガで失敗談書いてるけどね。
喉元すぎれば、どれもネタだし。
しかも、この失敗で誰かが安心すると知ってる。
今まで、そうだったから。
人の失敗って、面白いんだよ。
人間くさくて、いじらしくて、面白い。まさに悲喜こもごも。
…死ぬのも同じだと思う。
ん?…同じ?
いや、似てる?のが良いかな
プロセスだよね、どっちも。
人間性出るしさ。
死ぬことを体感してないと、生きることも体感しない。意識もしない。
失わないと手にあるものが、わかんない。
人間てのは、そういう風にできあがってる。
生まれる前、色々記憶喪失になるせいだろうね
学生時代は、生きる意味は『何を成したか』だと思ってた。
そーんなカッコいい事を思ってました
だけど、ウズくんとの日々を思い出すとさ。
何を成したかすら、どうだっていいやと思った。
それよりね。
それよりさ。
あんたの人生、
どれだけ愛せましたかね?
どれだけ、あんた自身を愛せましたか?
そんな俗物的なことの方が、うんと大事に思えた。
まだまだ構えて生きてるんだなぁ〜、と自分を振り返っちゃったよ。
好きな子としか、遊ばないんだ。
君が何をしても、ボクは気にしない。
僕の好きなご飯くれたら、それで良いよ。
あと、撫でてって言ったときに撫でてくれたら、もっと良い。
だって、楽しいでしょう?
僕が楽しかったら、君は笑うでしょう?
それで良いじゃない。
君のいうシアワセって、そういうことじゃないの?
ムツカシイこと、わかんないよ。
…まぁ違っても、僕は好きにするしね」
8月15日。
心に反して身体を失った全ての存在へ。
平和と幸せを祈って。
あ、日付越えちゃったけども(*・艸・)あちゃぱー