2017年03月09日

経験だけがあって、それを経験している人はいません

本当は経験だけがあります。

いきなり何のことか分からないかもしれないけれど、一番伝えたいことを、今日も違う言い方で表してみます。


本当は経験だけがあります。

いまなら、モニターの文章を読んでいるという経験があります。


最大の秘密は、その経験だけがあり、それを経験している人はいないということです。


にもかかわらず我々は常に、それを経験している自分を想定します。

行為者がいて初めて行為が起こると思っているのです。


でも実際には、経験だけがあります。


経験と一つになっているとき、そこに問題は生じません。

経験から切り離された自己という幻想が、あらゆる騒動を作りだすのです。


これは根本的な錯覚についてのことであり、ほとんどの人は、何のことなのか分かりません。


しかし求めている平和、安らぎ、自由、愛、喜びは、この真実を受け入れた時に初めて出会います。

いま指摘していることが、内側のどこかで共鳴しているとしたら、ゴールは目の前。



分離した自己は、経験とその記憶から様々な問題を作りだし、それを自ら解決しようとします。


真実は、いつもいま起きている経験だけがあるのですが、分離した自己は、いま以外の場所に答えがあるような気がしています。

人生の意味や、存在の真理まで、いま以外のどこか別の場所に隠れていると思っているのです。


でもそれらの答えも、探し続けている安らぎも、いまの中に寛いだときに現れます。



経験だけがあって、それを経験している人はいません

いま訪れている経験は、あなたが起こしているのではなく、起きているということ。

この経験に至るあなたの衝動も思考も、すべて起きていること。

あらゆることは、努力なしに、ひとりでに起きているのです。


この理解が寛ぎに繋がっていきます。


そのように言うと、いまという中で安らぎや幸せを探し出すかもしれませんね。

そうやって探すことが、またも経験から切り離された自己という幻想を強めていきます。

ここがジレンマなんです。




もし何かの問題を考え続けていたとしたら、その考えはどこにも行きつかないことを知る日が来るでしょう。

問題に心が奪われるということには、ある種の魅力があります。

ずっと考え続ければ、理想の結果に近づくような気がするのです。

しかも考え続けることにすっかり慣れ親しんでいます。

起きていることに寛いでいたら、問題は解決しないとばかりに。



それらの問題の核になっているのは「自分」です。

切り離された自分という幻想を、この先も安全に豊かにしていきたいと願っているのですが、そもそもそのような自分は思考の中にしか存在していません。



本当は経験だけがあります。

それを経験している自分は幻想です。



分かりにくい表現だったかもしれませんが、何かが伝わってくれたら幸いです。





最近いいことばかりが起きていませんか?

けっこう、これ効いているかも。

今日も幸運力を入れておきます。


経験だけがあって、それを経験している人はいません   



・・・・・・・・・・



【お知らせ】


今月は禅サンガの更新月。

新しい人達が参加できる、半年に一度の機会です。


今日書いたようなことは禅の世界にも通じることであり、多岐にわたる方便と継続が、新しい真実への扉を開いてくれます。

それは探究ではなく、ある種のサレンダー(降参)です。


いままでの自分とは違うアプローチで人生を眺める習慣を提供していきたいと思います。


月末の募集に向けて、少しずつ内容を開示していきます。



Posted by Toshiro Abe at 11:46│Comments(49)
この記事へのコメント
今日もありがとうございます。良い一日を。
Posted by 林ゆみ子 at 2017年03月09日 11:59
リラックスする効果的な方法は

これまでリラックスした体験を全身で思い出すことです。


たとえば

〇温泉に行って露天風呂に入ってリラックスしたこと

〇かわいい動物とふれあってリラックスしたこと

〇大自然の中でリラックスしたこと

〇お茶を飲んでリラックスしたこと

〇深い眠りに入ってリラックスしたこと

〇深い瞑想に入ってリラックスしたこと

などです。


リラックス力が強くなると

集中力が強くなります。


集中力が強くなると

リラックス力が強くなります。


集中力とリラックス力が強くなると

幸せを感じる力が強くなります

(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2017年03月09日 12:05
びゃくじゃぎょうパワーいつもありがとうごさいます。
最近、確かに良いことが起こり始めました。
感謝の気持ちを込めて、今日もポチポチさせていただきます。
Posted by an at 2017年03月09日 12:22
癌を告知されました。
これが良いことなのか悪いことなのか、わたしにはわかりません。
わかっているのは、ただ、それが起きていることだけ。
Posted by 光 at 2017年03月09日 12:33
いつもありがとうございます。
今日もクリクリ
良き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2017年03月09日 12:33
とてもよく伝わりました

身体中の疲れが癒されていくような気分です。
Posted by ありがとう at 2017年03月09日 12:35
"経験だけあって、それを経験している人はいない。"

いまにくつろぐしかないいい感じがします。

昨日の、

"パターンからではなく新しい自分を生きる。"感応していきる "

も、言葉的にはそうする自分がいるようにも読めるけど、きっと本質的には今日と同じことなのかと思いました。
Posted by けん at 2017年03月09日 12:42
阿部さんのおしゃりたいこと分かります。 

目の前の経験に反応しては、すぐ自分で問題作って。解決しようと。必死になんとかしよう。

とすぐしてしまう。 

今日も朝から頭痛がしています。

リラックス。 リラックス。 

阿部さん。 大好きです。 いつもありがとうございます。
Posted by イラ at 2017年03月09日 12:47
何かが何かをした…

個としての存在は
人間の発達した脳が創り出しているストーリーの中にだけ存在している



まずは…部屋の中で、時計を眺める

自力で雑念を消そうとせずに
自分はただ目の前にある時計と共に在るだけ

雑念がひとりでに消えた時には…時計とひとつになっている…

次に…外で、大空を眺める

自力で雑念を消そうとせずに
自分はただ目の前に広がる大空と共に在るだけ

雑念がひとりでに消えた時には…大空とひとつになっている…

そして…全体をただ眺める

自力で雑念を消そうとせずに
自分はただ目の前にある全体と共に在る

雑念がひとりでに消えた時には…自分は消えて…全体とひとつ


全体だけが…ただ在る…

はじめから…全体だけが…ただ在る…


こんな感じでしょうかね


愛☆愛☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2017年03月09日 12:54
禅サンガに以前参加し、とても心地よいひと時を過ごさせていただきました。今は「現実」という二元世界に向かい合って努力する時期と決めているので、次の時期の参加は無理ですがまたいつか参加したいです。(*´∀`*)ノ
「経験している私はいない」が実感できるくらいに集中できた時は 直後に心地よさまで感じるのですが、その事柄に取り組む行動を起こすには、結構な決意が要るのが辛いとこです。トホホなのです。「キッツイなぁ〜」が先立つのです。これは、単純に「怠け心」と「気弱さ」からくるものなので、しっかり鍛えようと思います。もちろん、阿部さんが繰り返し説いてくださる「真実」については、いつも心に留めておきつつ!
Posted by Ally at 2017年03月09日 12:56
おやっさん〜(^^)
今日も幸運受け取りましたー!
有難く候。
ほんと!いい感じです。
最初妻から見て!見てー♪と見せられた
菜穂さんの動画。私はいないの
。。。。
はあー?
気持ちわる!
となりました笑
当時は、スピリチャルは、一切駄目で、
妻にひいてました。
でも妻はドンドン輝いていくんです。
経済的にも苦しいのに僕の八つ当たりにも
どこ吹く風で笑
カミさんは今、ほんとに幸せで
めっちゃ綺麗になってます(^^)
そんな、僕も今なら菜穂さんのお話が嘘のように理解できます。これまで築いてきた事を全て幻と手放すのは社会で頑張ってる人には厳しいかもしれません。
そうそう!借金たくさんありますが、
これ以上の借金増えても何も変わらんだろー的な社会から到底受け入れないノリで家族でハワイで10日過ごしました。ちょー贅沢に過ごしたのですが、正直沖縄で狭い家で過ごすのとなんら、変わらないのです。なんなら、沖縄の海がめっちゃ綺麗だし笑ハワイで過ごす、幸せ感と普段の幸せ感、全く同じです。あー環境ってあまり関係ないのねと。これは、牢屋の中でも一緒だと思いました。そうそう!おやっさん!
自営業なのですが、湧いてくるビジネスが壮大でまじかー!となります笑
まー多分やるんでしょう。流れに任せます。後!禅気になります!半年に一度とか、
言われると堪りません(>_<)
Posted by あらかちと申します。 at 2017年03月09日 13:07
十分伝わっています。
Posted by Sleeping B. at 2017年03月09日 13:31
"経験だけがある"その、"経験"って何ですか?

誰が(何が)"経験がある"と認識しているのですか?

認識がなければ、"経験"もないんじゃないかと思うのですが、
阿部さんは、認識者がいなくても、"経験は存在する"と思われているのでしょうか?

認識から遊離した"経験"が独立して存在する、
と想像できなかったので、コメントさせて頂きました。

認識者が消えている熟睡の時、経験があるとは考えにくいです。

夢を見ている時は、"わたし"という意識である認識者がいるので、
"わたし"は、夢を経験しており、それ故、経験はあることになります。

このことから、経験とは、認識者あってこそのものとは言えませんか?
Posted by 認識者と経験の関係 at 2017年03月09日 14:21
阿部さん初めまして。

最近、良い方向に流れが起き始めています。
家族の笑顔がふえました。
今にくつろぐことで、将来の不安を感じれなくなりました。
起きていることに意味を与えないことがこんなにも楽なんて。
ただする。
ただやる。
ただはなす。
ただくつろぐ。
私が存在しないときは楽です。
私が全面に出ると、重苦しさがハッキリわかるようになりました。
なので、長く重い状態に居ることが今では出来なくなってしまいました。

阿部さんの文章を何回も読んでおいて、後は忘れていると何かの拍子に
「あ~なんだそうゆうことかーあ」って降ってくる楽しさは半端ありません。

阿部さんのバナークリック毎日楽しみにしてます。
Posted by 阿部真央 at 2017年03月09日 14:21
繰り返し真実を伝えてくれる阿部さん、

ありがとうございます!

阿部さんにも幸運パワー特大でー!!
Posted by AYAKO at 2017年03月09日 14:51
>最近いいことばかりが起きていませんか?

起きています!

感謝です!

信ずる者は救われる。

なむびゃくじゃぎょう ~ ~ ひんでんうんそわかパワーは凄いです(ノ^^)ノ
Posted by nezumi at 2017年03月09日 14:53
起きていることをしっかり 味わうと、
生かされていることへの感謝が
湧き起こってきます。

おそらく そういう”仕組み”に なっているんだなぁと思います。

そうでなければ いろんな人が同じような体験を 共有できないと思う。

悲しいを 味わえば、悲しい気持ちを味わっている いまに
ありがたい気持ちが湧いてくる。

これは 全世界 共通なことなんだ〜!

すごいなァ (p_-)

なむびゃくじゃぎょう。
うがやじゃや ぎゃらべい しんだまに
ひんでんうんそわか (唱えてみる)

今日も経験してる。生きている。
南無! ありがたや!
Posted by 薄茶色 at 2017年03月09日 15:56
本当は経験だけがあります。

それを経験している自分は幻想です。

本当は経験だけがあります。

それを経験している自分は幻想です。

本当は経験だけがあります。

それを経験している自分は幻想です。

????????。
Posted by 榊 at 2017年03月09日 17:01
認識するってことも経験の一部で、認識者(私)はおらず・・・

そういうことだと思うのですが、
そうすると、すべてがすべてであり経験する者はいませんから、
経験という言葉ももはや意味をなさなくなり、
結局、ただそれ、あるがまま、起きているだけ、みたくなるのかな。

しかしどうしても私達には
「経験している者」という概念が強くこびりついてますので、
「私はいない」「経験だけがある」という言葉を頼りにしていくしかないのかも・・・
ですが、実は日々の中で「私が」何かをしているという感じはそんなに多くはなく、
私を意識しない「ただ起きている」状態であることの方が多いかもしれません。

そんなことに気付くと、あるときと無いときがあるんだけど?
私っていつもいるんじゃないの?おかしくないか?
・・・って、まるで幻みたいですね。私って。
Posted by りーる at 2017年03月09日 17:29
いままでこんな想いでいたのかと、心みつめると気づく、問題?に揺れそうになると、ブラックホールみたいな空間を思い出し、問題?は
なくなる。ブラックホールってわたしなのかな?って安心する時があります。
変化するものが、すごく愛おしく思える。
ありがとう、愛を表現できますように(^o^)
Posted by hitomi.感謝 at 2017年03月09日 19:08
いつも読ませてもらっています。
ありがとうございます。
ところで、ずっと気になっていることがあるので質問させてもらってもいいですか?
かんながらさんは、人間は、様々な事を経験したくて生まれてきたとお考えのように思います。つまり、生まれたくて生まれているという考えです。しかし、別の方の説では、人間は霊性を成長させるために生まれ、何度も転生し、悟りを得たらもう転生はしないという考えもあります。これは、生まれることは、修行であり苦しいことだという考えです。どちらが真実なのでしょうか?かんながらさんの考えを良かったら教えて頂けますでしょうか?
Posted by はじめまして at 2017年03月09日 19:14
哲学している人でも、こんな人が居るようで・・・・・

純粋経験に「私」がないのに、なぜ”あえて「私」と言う”必要があるのか – 四畳半大学 宮国研究室
http://miya.aki.gs/mblog/?p=4140

要約すると、ただ経験があるだけで、経験に対する解釈は不要、て事・・・ですかね?

前にもコメントしたと思いますが、


「どうしてそんな事するの!?」
「したかったから」

「寝ていいと思ってるのかっ!!」
「寝たかったから」

「そんな事言わなくてもいいじゃない」
「言いたかったから」

他に理由なんて無いですよね。


以上、でいいんですかね?

『社会的』には『相手』という概念を作り、『相手を気遣う』概念を作る
『必要があり』、そういった概念を元に、相手を気遣おうとすると、
相手が理解できるような、納得できるような『理由』を『作らなければ』ならない。

という『必要』も出てくると思いますが、
本当の本当に、
>経験だけがあって、それを経験している人はいません
が腑に落ちれば、そういう『必要』も無くなりますかね?
何というか、わざわざ『必要』と思うまでもなく、自ずから起こるみたいな。
このへん謎なんです。
謎なんですけど、自分の感覚としては、そんな感じがしなくも無いんですけどね。
Posted by ただの「自分」 at 2017年03月09日 19:27
【私がモニターの文章を読んでいる】

「私」は幻想なので正しくは

【***がモニターの文章を読んでいる】

本当はまだ続きがあって、「モニター」も「文章」も「読む」も幻想なので、正しくは

【***が@@@の###を☆☆☆】

ちなみに何かが「幻想である」とは、「ある事象を人間が勝手にそう解釈している」ということ。
私、モニター、文章、読む、幸せ、不幸、動物、植物、地球、宇宙、などなど、、、人間が認識するものはすべてこの世界の「解釈」。

なので【***が@@@の###を☆☆☆】もまだ何かを使った解釈なので、本当は、

【 】

この空白。
何もないというより、何の解釈もない。
これが阿部さんのいう「経験だけがある」ということ(だと思う)。

般若心経でいう「空 くう」の世界。
一切の解釈がない世界。
無色、無受想行識、無苦集滅道。
Posted by パンマン at 2017年03月09日 19:38
私なんかからすると、だいぶ現実から離れた感じがして、ちょっと引いてしまいます。
満月が近いので、ちょっと軽そう状態?
あと2時間。今日はラーメンでも食べて帰るか?でも血圧が心配。
認知症予防にアロマを買いました。アルツハイマーは最初に嗅覚がおとろえるんだそうで…鼻に良い刺激になっています。昼用、夜用があるんですが、昼用は集中力もあがり、気分も落ち着きます。(買って良かったです)
Posted by ひよどり at 2017年03月09日 20:18
私がこの人生を経験してるのではなく、大いなるひとつの命が私という一人のキャラクターから見た人生を経験しているのですね✨何だか、少しずつ解って来ました。ありがとうございます✨
Posted by 名古屋の中年 at 2017年03月09日 21:08
認識者と経験の関係さん、

真摯な問い掛けだと思いますよ。

これは、私の見解ですが、、

私も、「気づく側・者」と、「気づかれる側・者」は現象として、起こっていると思いますよ。

両方とも、「気づく側・者」となる場合もあると思いますが・・


たとえば、「錯覚」とか「幻想」とかいう分析も、人間の感覚を使った見方、とらえ方でもあると思いますし、

それを人間の感覚と意識で受け入れてみたとしても、これらを「錯覚」、「幻想」と、解釈し、現象の謎を解けるんですから、

やっぱり人間は、《神》より優れた意識の仕組みや、理性を備えた立場・意識の仕組みだと思いますよ。

もっとも、《神》なんて、いないと私は思いますが、ただ、ただ、無数の有・無の現象や、変化や、動きがあるだけ、慣性によって行われているように見受けられます。

その中にあって、絶えず「気づいている働き」、または、「知覚」している働きが、「わたし」だと思いますよ。

その見ている側、知覚している側は、人間(システム)という立場・道具を使っていれば、物事を選ぶ、選択権が付与されていて、

気づいたものや、焦点を合わせたものへの人力(意志の行使)や、反対に拒否したり、拒むことも可能な立場でもありますよね。

“ここ”にいれば・・・

わたしはいない、わたしはいないという《思い》や、《思考》に気づいていて、視ている者が、それを呪文のように唱えて、肯定しようと、頑張っているんですから、

マインドへの刷り込みや、催眠術が上手くいっても、なかなか、意識の仕組み自体が不協和音を出し続けてしまうかも知れませんね。
Posted by y-be-Δ at 2017年03月09日 21:23
認識者と経験の関係さん
例えば「坐禅」は座るが座っているという唯一の状態です。
「私が座って空を見ている」というのは、坐禅ではありません。
「全てが一つ(不二)」とは この状態を 表した言い方です。

例えば何もない場所で、ただ風が吹いているとします。
この時 誰かに認識されなくても「風が起きている」でしょう?
事実とは 認識される必要が無いものです。
私達は認識できないモノを認めませんが、事実は 私達の容認など必要無く在るのです。
ですから坐禅で「自分を横に置く(自分の意見を止めると)」と事実が姿を現してきます。
これが「サレンダー」の状態です。
「自分が容認しない限り認めないという態度を改める」という事です。

>認識から遊離した"経験"が独立して存在する、
と想像できなかったので、コメントさせて頂きました。

私達が想像する「全て」が事実ではありません。
事実は想像できなくて、想像できたものは 事実ではないのです。
事実は認識されないまま無常に過ぎています。
「いま」は誰にも認識されずに ただ 起きているんです。


りーるさん
認識も起きている一つの様に思えますが、
上に書いたように「いま」起きている一つは「経験(気づき)」です。
じゃあ 次の「いま」次の「いま」と進んでいくと「経験(気づき)」の次はやはり「経験(気づき)」です。
で「認識(解釈)」は「経験の事後」確かめたいという欲望です。
「経験の事後」は「いま」ではないので「いましかない」という観点から捉えてみると
これが「分離」という事です。「遅れ」という時差の分離です。
私達は「経験(気づき)」→「認識(解釈)」→「経験」→「認識」という順番で「世界を容認」しています。
事実は「経験(気づき)」→「経験」→「経験」と「いまに気づき続けている状態」なので
「認識」は事実のルートから脱線して「認識(言葉に置き換え)」→「認識」→「認識」をしてる。って感じです。

同時通訳の番組を見ていると「同時」ではなく「遅れて」翻訳しますよね? 
通訳の日本語を聞いていると「実際に話している外国語」の方は聞いてませんよね?
通訳者は黒子なのに こっちが本人みたいになってしまう訳です。
例え話ですが、こんな感じだと言える様に思います。
Posted by まるまる at 2017年03月09日 21:38
阿部さん、こんばんは。
良いことがたくさんですよ。
本当に。

「私」がいなくなると、何かにこだわったり折り合いがつかない「私」がいない。

「行為」だけが残る。

「行為」だけが進んでゆくようになる。
(もちろん、肉体と行動は、相もかわらず性懲りのない「私」が動いています。)

でも、「意味」の良しあしを考えなくなってくるから、「可能かどうか」だけで進めます。
Posted by 南部鉄瓶 at 2017年03月09日 22:10
『目の前で何が起きていようと変わらないものがある。

自分の内側には、外の出来事に何も影響されていない、ピュアな存在が必ずいる。



僕らはついうっかり、外側の出来事に全身で巻き込まれてしまうんだ。



たとえば、誰かが自分を見下したとか。

何かの責任を取らなきゃいけないとか。

どうしても嫌いな人と会わなきゃいけないとか。



日常の世界には、そんな出来事がオンパレードだけど、それは映画みたいなもので、いずれ場面は移り変わっていくし、そんな出来事に心まで削るのは間違っている。


何が起きても、実際にはあなた自身は何も影響されず、何も傷ついていないし、何も汚されていないんだから。




あなたの本質は、映画のスクリーンのようなもの。

出来事は映っている映像だ。


どんな映画が上映されても、スクリーンは無傷のままでしょ?



生活の中でストレスを避ける秘訣は、自分はスクリーンで、目の前の出来事は単なる映像だって事を見極めること。

映像が自分に求めるニーズには、きっちりと応えながらも、そこに何も影響されずに存在する・・・それが人生の極意だと思う。


そんなふうに不断の気づきを持って自己を確立することは、シャバで生きる我々にとって最高の修業じゃないだろうか。




さ、今日も修業に行ってらっしゃい。

そうやって胆力を養っておいでよ。



僕も、もっか修行中。

この修業、タダだからありがたいね。



修業のポイントは、何度も「スクリーンの自分」を思い出すこと。



映画にどっぷり浸かっちゃダメだよ(^^)』


阿部さんの過去記事が、たまたま?表れました。今日の記事と併せて読むと、私としては解りやすかったので紹介させてください。
今日は、映画にけっこう浸かりました(^_^;)
Posted by ようこ at 2017年03月09日 23:44
まるまる さん

ただ風が吹いている?

それを認識する何か、誰かがいるからこそ、
ただ風が吹いている、と言えるのではありませんか?

認識者がいなくては、何かが起きているとは言えないと思います。

大宇宙のどこかで、恒星が大爆発したとしても、それを認識する者はいないので、
それは起きたけれども、恒星が大爆発したとは、誰も言えませんよね?

ですから、それは起きていないと同じことなのです。

これは、そんなに難しい論理ではありません。
少し考えれば、当たり前のことだと思いますよ。
Posted by 認識者と経験の関係 at 2017年03月10日 00:36
自分が存在していると思っている間は
自分の平和…安らぎ…求めるものですよね

ニルバーナやサマディといった崇高な境地を自分が達成しようとするわけです

しかしながら

そういったものは現れては消えて行くものであって
本当は幻

それじゃ、どうする?絶望するしかない?

いえいえ

自分が存在していることが幻なら
自分が死ぬということも幻

ということがあるのだよ

自分が死ぬということは幻なので、それは絶対的な平安

それがどういうものかを直接教えてくれるのが
毎晩毎晩の熟睡…


神さま、ありがとうございます


愛☆愛☆


おやすみなさい
Posted by 甲賀忍者 at 2017年03月10日 00:49
y-be-Δ  さん

私は、”神はいる”と思っています。

それは、通常の意味の創造者たる”神”ではありませんが。

むしろ、いないのは”わたし”の方だと思っています。

そして、経験と”わたし”は、切っても切れない関係のように思われます。

阿部さんとは、感じ方が違うのでしょう。

認識する自己が消えても、すべてが無くなるわけではないと考えます。

認識する者がいなくても、実在する唯一なる一者、
それが”神”と言えるのではないでしょうか?
Posted by 認識者と経験の関係 at 2017年03月10日 01:11
すごい
コメント欄の後半
挫折の代名詞 岩波文庫の青帯みたいだ
負けずに一言

カエルの面にショーペンハウアー

・・・・存在を認識しないでください
Posted by そこ笑うとこ at 2017年03月10日 01:56
まるまるさん
気づきを経験とするとそうなりますね。
説明はよく理解できます。

経験してる者(私)はいるか?ですが、
よく観察すれは、それはただのイメージのようなものですよね。観念とでも言いますか。
経験者行為者(私)が幻想だとわかると、
いちいち私を意識する必要がなくなって、
何をしててもとても楽チンな状態になりますよね。
そんなことを言いたかったわけでした。
Posted by りーる at 2017年03月10日 02:45
もうひとつ、何を疑問に思っているかがわかりました。

この記事のような表現をされる時って、
『経験』だけだから、『解釈』は不要、という事ではなくて、

「『経験を解釈する』という経験」が起こっている

という事でいいのでしょうか?
という事でしたら、わかる気がします。

例えば、
先に張ったリンク先の人は、

>「自己言及のパラドクス」からはもう卒業してほしい

と書かれていて、それに対して、
「べっつに、『「自己言及のパラドクス」という経験』が現れているだけと思えば良くない?」
と、この自分から『起こってくる』訳ですが、この人からしてみれば

「『「自己言及のパラドクス」からはもう卒業してほしい』という経験」が起こっているだけ

な訳なので、「あ、じゃいいのか」、となる訳です。
ここでの『いいのか』とは『良い』ではなく、『問題にはならない』という事です。
「『「自己言及のパラドクス」からはもう卒業してほしい』という経験」が起こっているのを
『問題としない』事によって、初めて、
「この人は『「自己言及のパラドクス」からはもう卒業してほしい』と思ってるんだな」
と、理解し、受け入れ、その『経験そのもの』について考えたりする事ができるんだろうと思います。

そういう意味で、『ぜんぶOK』なんだろう、とは思ってます。
ですから、このコメント欄でも、いろんな意見が戦わされる事がありますが、
自分は『いろんな意見が戦わされている』と認識する経験を『問題にしていない』です。
どんな意見も、参考になったり、つながってると思うところがあるので、
ありがたく、読ませて頂いてます。
Posted by ただの「自分」 at 2017年03月10日 03:30
もう一つ、例えば

「経験だけがあって、それを経験している人はいません」

というお題について、『私』と『相手』が論じる時、

『私』は「経験だけがあって、それを経験している人はいません」についてこう思う
と言ったりしますが、
ただ純粋に、「『私』はこう思う」、「『相手』はこう思う」という『データ』というだけ、
と思えるなら、その時確かに「『私』はこう思う」は『私』ではなくなっている、とは思います。
その時の「『私』はこう思う」は、ただの『データ』なので。

「『私』はこう思う」事そのものが問題と『相手』から思われてしまったら、
『相手』にとって、『私』そのものが『問題』とされてしまい、
『こう思う』事は検討すらしてもらえないので、会話を諦めます。
そんな感じかなぁ、と思いました。
Posted by ただの「自分」 at 2017年03月10日 03:51
昨日、今日、学年閉鎖でお休みの中学生のむすめ。

夜寝る時間が近くなってから、

「あっ自主学習用ノートがなくって新しいノート買わないと自学出来ない」

田舎は遅くまでやってる店は少ない。

普段は旦那に買ってきてもらう。

今回はあたしが買いに行く。

車でアイスバーンを片道20分。

ノートが売ってそうな本屋さん到着。

むすめに頼まれたノートを買う。

ついでに何年ぶりかに本屋の中をぶらり。

「あっバシャールだ」の本発見。

手にとる。

買う。

本屋から家に戻り片付けを済ませ横になる。

購入した本をパラパラみる。

「あっこれ、今の私に大事な情報満載」

ラッキー!

でも一方でもし、

起きてくる現象に感情的になった場合は。

娘に対して

「今日一日中何やってたの?」

「どうしてもっと早く言ってくれないの?」

「わたし、買いにいくの面倒くさいからお父さんが、ノート買ってきて」

旦那と口論戦勃発。

腹立ちモード全開。

そして落ち込む。

だったはず。

起きてくる現象に

意味づけをせず身をまかすと

何だか至極楽ちん。
Posted by 自学のノート at 2017年03月10日 04:12
近くの本屋には「あっバシヤールだ」みたいな本はまず見当たらない。
そうゆうくくりの本はまず置いてないのに等しい。
なのにこの本に出会えた奇跡?
本当は阿部さんと大和田菜穂さんの本欲しかったけど全く一冊も置いてない(笑)
まっ阿部さんのはブログで読めるから、買わなくていっか(笑)
Posted by 自学のノート at 2017年03月10日 04:28
私をいつも惑わしてくれるあいつ。
あいつも私も同じもので【ひとつ】。
不機嫌そうなあいつをみて。
あいつも私も【ひとつ】と思えるか?
私を理解しないあいつを前に。
【ひとつ】の同じ存在と思えるか?
いつも、ためされる瞬間がやってくる。
揺さぶりをかけてくる。
あいつの態度に意味付けしない日は来るのだろうか?
私があいつを意味付けしない日が来たら・・・・・・・。
Posted by あいつ at 2017年03月10日 06:10
認識者と経験の関係さん
>それを認識する何か、誰かがいるからこそ、
ただ風が吹いている、と言えるのではありませんか?
> 認識者がいなくては、何かが起きているとは言えないと思います。
>大宇宙のどこかで、恒星が大爆発したとしても、それを認識する者はいないので、それは起きたけれども、恒星が大爆発したとは、誰も言えませんよね?ですから、それは起きていないと同じことなのです。

はい。それを「あなたが言えない」というだけなのです。
起きてないのではなく「あなたが言えない」というだけなのです。
あなたは「起きてないとも言えない」でしょう?
だから「起きてないと同じ事」ではありません。
「あなた」は言えません。「言えない」だけなんです。
だから 真実は「言葉にならない」と言われているんです。
言えない=ない ってこたーないでしょう?
これは 禅の実践で 確かめる事が可能です。
Posted by まるまる at 2017年03月10日 08:13
パンマンさんはいったい何者なのだろう。?
Posted by いつも思う。 at 2017年03月10日 08:29
Relaxのイラストがとても可愛くて、気に入りました^_^。

思考はおきている、と、読んだ後、あーそうなんだ、と、なんだか不思議な気分です。
Posted by Blue at 2017年03月10日 10:30
まるまる さん

確かに、"わたし"には、何もわかりませんし、何も言えないと思います。

そういう"わたし"は、いませんから、当然です。

そういうことが起きた、現れた、ということだと思って下さい。

形と名前を持った"わたし"を通したひとつの表現だと。

個人がいるわけではないので、個人が知ったり、経験したりは、見かけ上のことだと。

禅は、そのことをどう表現されているのか?は知りません。

この器には、禅の知識は入っていません。

ですから、この器からは、まるまるさんのような表現が出てこないので、
禅のことを書かれても、想像するしかありません。
Posted by 認識者と経験の関係 at 2017年03月10日 11:46
いつも思う。さん

私は普通のオッサンです(笑)
サラリーマン、妻子持ち。
Posted by パンマン at 2017年03月10日 11:57
★認識者と経験の関係さん、いない、はずなの変な感じですが・・返信ありがとうごさいます。

‘響かれた’ので、私はいない?けど、私の見解を、たぶん、ほとんど、同じじゃないのかなー?

ユーモアをもって、見て下さいね。


>> 私は、”神はいる”と思っています。

それは、通常の意味の創造者たる”神”ではありませんが。

むしろ、いないのは”わたし”の方だと思っています。

そして、経験と”わたし”は、切っても切れない関係のように思われます。<<

私も、(このマインドを介していますが)“全能の神”は、いると思ってますよ。

“この~”すべての現れと、その動きと、見た目の消失(変化)かどが、まさにそうではないでしょうか?

《人神》としての「神」ではないです。

《人神》としての「神」はあなたや、私や、色々な人間の方々でしょう。

また、動物たちや、魚たち、昆虫や、植物、鉱物、菌類、ウィルス、元素、粒子、素粒子、原子、電子、原子核、クオーク、ヒッグス粒子・・・切りがあらませんが、、

形や、表現、運動としての性質、働きがあるものなら、《無》から現じた表現のものは、一つ残らず、何らかの特性を持った「神」と言ってもいいかも知れません。強い、弱い、優しい、怖いとかの話ではありません。

>> そして、経験と”わたし”は、切っても切れない関係のように思われます。<<

《気づくもの》と、《気づかれるもの》は、切り離せない。

《見るもの》と、《見られるもの》
は、切り離せない。

《味わうもの》と、《味わられる感覚》は切り離せない・・等々、どちらも同時に起こるから、そう人のマインドは判断するわけでしょうけど、(2つであって、2つでない/ノン・デュアリテイ)

ということを参考にして、、あくまでも参考。

>> むしろ、いないのは”わたし”の方だと思っています。<<

選択権のある「わたし」や「自分」「自我」がいないけど、それを現象として、この「知覚」も含めて、

起こしているの「働き」がありますよね。

それを「神」=「あなたや、わたしや、皆さん」じゃないですかね?

「個人」や「私(わたくし)」がいなないけど、それを知覚・感覚として起こして、味わってる働き・ものが「神」であり、あなたであるなら、

この人間界の大勢の人たちが、不快や苦しみに感じられる現象の数々、自然界の生き物たちの置かれている過酷な生存環境などを、

責任を持って快いものに変えて下さい。恐怖や、不安や、痛みや、苦しみから解放してあげて下さい!!

そんな生き物的な、人間的な観点が本質であるあなたの言う「神」には亡いから、楽しいこと、嬉しいことの傍ら、痛みや、苦しみに満ちている構造を排出(創造)しているのでしょう?

だから、それは人間的観点から見れば、「神」などと、尊べるものではなく、ただの無関心で、慈悲心や、愛の無い「働き」や、同じ事を繰り返す「慣性」、動きだと、このマインドを使って理解が行われているのです。

ちょっとこの身ならではの主観や、感情的に成りましたが。
Posted by y-be-Δ at 2017年03月10日 12:00
阿部さんよりパンマンさんの表現のほうが分かりやすかったです。
ありがとうございました。
Posted by そうだったんですね。 at 2017年03月10日 15:23
y-be-Δ さん

確かに、第三者のy-be-Δさんから見ると、そう見えるでしょう。
(y-be-Δさんが、”神”から分離し、独立して存在するとするなら、ということになりますが。
y-be-Δさんの書かれたことは、人間の視点なら、当たり前と言えば、当たり前です。否定はしません。)

しかし、そのような客観的な第三者は、実際にはいないとしたら、どうでしょうか?

恐怖や、不安や、痛みや、苦しみを体験しているのは、実は、この”ただひとつひとつなる一者”だとしたら?

不滅の自己だけが在る、とはそういうことなのです。

そんなバカな!と感じても、それも不滅の自己のひとつの表現です。
すべてが、ただひとつなる一者なのです。

それ以外は、この宇宙には存在しません。

非二元(一元)とは、そういうことです。
Posted by 認識者と経験の関係 at 2017年03月10日 17:28
認識者と経験の関係さん、

私に比べて、とても、理性的な応対に敬意を覚えます。

ありがとうごさいます。

>>「しかし、そのような客観的な第三者は、実際にはいないとしたら、どうでしょうか?」

★紐解いて、、辿って、、実質的に判断すれば、居ないとしても、客観的な第三者という肉体も含めました質感、感覚や、意識の知覚行為、認識等は、現象として、起こっていますよね。

それらは、各々の特性や個性での立場や身持ち、その立場や身持ちからの知覚や、気づきや、認識も、行われていますよね。

それらが、あなたという“出先”の意識のように、運良く自分の正体や、出来事の仕組みを知り、理解でき、“自覚”にまで、なれればいいでしょうが、

そうでない“出先”は、数限りなくおり、また、現れ、たとえ、一つの目から方々を覗いているだけといえども、その意識体験は、あっちでも、こっちでも、無数に起こっていると思います。

彼らや、それらの境遇や、意識を憐れむ気持ちは、あなたにはないのでしょうか?

「本質」や、そのなさりようとしての全体の習性を観れるのは、この人の器を使ってこそ観れるのではないでしょうかと私は何度も問い掛けをさせていただいてますが、意味は無いし、不毛なことだと、理解もしています。

しかしながら、くどいようでしが、幾ら錯覚だ、幻想だと、言っても、分かっても、それが現実だ、リアルティだという意識体験の現象が起こっているではないですか?

それらから、目を背けて、本質に還られたり、思いを馳せるのも結構ですが、

ここの何人かの優しさを持たれる方が懸念されていたように、

自分の正体を知れば、知るほど、纏っていたものが、ほどかれて行き、まさに、分離意識や、感覚、そのものの特性や、癖が現れにくくなり、

それまで、識別や、区別をしていた認識も、行われなくなり、どんどん「無」へと、回帰して行くのでしょうけど、

本当に知覚や意識が、「無」に同化・還元されてしまうと、

本当のあなたが現れることになり、その本当のあなたが無頓着に世界中にしていること、起こしているこを「自覚する」ことすら、行われなくなるのではないでしょうか?

その最たるものが、「神」と呼ばれてる「無」や「空」であり、

その一なる全体の運動システムは、節操もなく、色々な幻想や、想像を起こし、それらに、リアルティという錯覚をも、素行として起こし続けているのではないしょうか?
Posted by y-be-Δ at 2017年03月11日 00:47
何となくわかる気がする、何となく。
Posted by もも at 2017年04月20日 07:27
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